第一章 邂逅編⑥
⑥
【同日水の日 正午】
早朝から起きていたせいもあったのだろう。そこに泣き疲れも相まって、子供は寝てしまった。
この子供が作った衣類の山から数枚を引っペがし、再度布団にして横にする。
この平屋にも、ある程度の台所が完備されている。といっても米を炊く、味噌を解くくらいのことしかしないので、包丁やまな板などはない。
料理音痴といえど、ムネチカは米くらいは炊ける。鍛冶屋としての火加減の目利きは抜群で、米だけは極上の仕上がりだ。
あとは家の床下に佐倉のお婆さんが作った糠床があり、そしてけち臭いムネチカの味噌を少ししか入れない薄味の味噌解きの白湯で一食出来上がる。差し入れの日にはもう2品程増える。
子供は寝てしまったため、ムネチカは先に朝餉を済ませ、鍛冶場へ向かう。子供が起きた時にすぐ食べられるように、寝ている近くに食事は置いておいた。
きっと起きてしまうかもしれないが、仕方がない。むしろ、今後鍛冶屋としてここで鍛錬をするのであればこの騒音には慣れてもらわねばならないので、構わず鍛冶仕事をする。
しかし、ムネチカはあることが気になり、作業に集中できずにいた。それは暗闇の中初めてあの子を認識した時の違和感だった。
本来気は、赤子にさえも宿っているものである。
『生きる』という意思、『泣く』という意思なのかは判明していないが、生まれながらに青い気を纏って誕生する。農民や武術に精通し、気を鍛える修行に取り組んでいないものには気は視覚化されないのだが、赤気を宿すムネチカは、気に精通するものだ。故に他人が故意にせよ不意にせよ纏った気は大雑把ではあるが感じ取れる。より達人の域に達すると、気が巡る瞬間の先読みや上澄みしか読み取れなかった思痕のより深層部が読み取れる。主に刀剣士団員はこの先読みに長けており、無類の回避力を誇る。
しかし、例の子供、あの子供からは、何も感じられなかった。
赤子でさえ纏っているものが感じられないというのは、実を言えば生きているのも疑わしいものだ。家もなく道端で生活する老人にすら気は宿る。命あるもの、どこかに強い意志があるからだ。
何も考えていなくとも、生物の生存本能によって気は生じる。しかしそれがないとはどういうことなのか、それを考えながらムネチカは、途中だった刀を打っていた。
(おそらく、遺伝子に植え付けられた白気である刀鍛冶の意思は残っているはず。この鎚を握り打ってさえ見れば……。)
不安要素はあるが、伝説の一片に触れてしまった期待から雑念が混じる。
雑念交じりの物事は、成就しないことが定石である。
夢を見ていた。
大きな庭だ。池があり、赤や黒の模様の鯉も優雅に泳いでいる。均等に敷かれた白石が波打つ場所には、入ってはいけないと言われていたっけ。庭のあちこちには母の好きだった花の木がいたるところに植えられていて、鳥のさえずり、鹿威しの音が生活の空間だった。
泣き虫な自分は、事あるごとに泣きわめき、庭で転んでは決まって母の名を叫ぶのだった。
そうすると母は、すぐに自分を抱きしめてくれた。あの優しい匂いが大好きだった。
あれは何の匂いだったか、家の屋敷に会った梅の花の匂いだったか。その匂いと、優しい両の手、そして名を呼ぶ声にいつも救われていた。
まさに泣き止もうかとする瞬間、あたりは真っ暗闇に包まれた。生活の空間や聞きなじんだ音は全て、金切り音のような男の笑い声に代わる。
必死に耳を塞ぐ。しかしそれでも聞こえてくる。
母を呼ぶが声が出ず、涙だけが流れる。
笑い声の奥で、何か金属音が聞こえる。
笑い声を徐々に打ち消すように、金属音だけが響き、そして目覚めた。
気づけばまた家の中で、服の布団で眠っていた。遠くでかん、かん、と音が聞こえてくる。さらには近くでいい香りがした。味噌の香りと、炊き立ての白米の匂い。粒は一つずつ立ち、うっすら甘い匂いが鼻腔を擽り、そして大きく腹が鳴る。
気が付けば、あの夜、母と共に逃げ出したあの夜、いや正確には夕刻だが、そこから何も食べていない。そもそも、隠れていたキコリ村でも、元居た暮らしのような満足のいく食事は得られていなかった。
そんな状況もあってか、漬物と味噌汁、白米というだけでも豪華と思えるほどに生活水準は下降していた。
ごくりと唾液を一飲みし、飯に飛びつく。しかし、すぐに我に返る。
母の教えだ。食べ物に感謝、それは日々の習慣だった。
食事の前に正座し、身を整え、合掌する。
作ったのは誰だろうか、感謝する相手がわからないが。
「…い、いただ、きます。」
高ぶった食欲は誰にも抑えられない。
一連の習慣を終えるとまず乾いていた喉を潤すため味噌汁を一口。ここの味噌汁の味付けは薄目で、むしろ寝起きにはちょうど良かった。
潤した喉が求めるものは固形物。すぐに白米に手を付ける。手に取ってまじまじと見る白米は湯気も相まって白銀に輝いてさえ見える。箸で一口つまむとより粒の立ちが際立って見え、目の前でとどめていたが辛抱たまらず頬張ると、次から次にこの白米欲が沸いてくる。なんと甘みの感じられる米だろう。ふっくらで硬すぎず、かといって水っぽくもない絶妙な炊き加減に、出来立ての熱さも忘れてかきこむ。
しかし基本淡白な白米、次には塩味の固形が欲しい。
添えられた漬物はキュウリにカブ、それからナスだった。糠の匂いは家でも嗅いでいたがあまり得意ではなかった。恐る恐る手を伸ばし、嗅いでみる。不思議なことに糠臭さも少なく、むしろ野菜の旨味が鼻から伝わってくるまでの香りを放つ。まずはキュウリを一口。
パリっと小気味良い音が口の中、そしてこの今の中に響く。十分に使っていたキュウリは瑞々しく、また音が鳴るほどの張りも兼ね備えていた。そして尚且つそそる糠の旨味。キュウリとの瑞々しさも相まって、熱い米がより進む。続いてカブ、ナスと順々に食べ、喉が渇けば味噌汁と、自分の望むままに食事をする。
「……っ、ふうぅっ。」
大きく息を吐く。気が付けばあっという間に器は空に、比例して自分の欲は満たされていた。食べ終わればすることは決まっている。
「ごちそうさまでした。」
食事がすんで尚も金属音は響き渡る。先ほどと全く同じ、ブレのない一定のリズムで。
「……。」
気になりだし、なぜか物音を立てないように、音のする方へ歩き出す。
音に近づくにつれ、季節が変わり始めるのを感じる。乾いていた皮膚から徐々に汗が噴き出すのを感じる。
灼熱とも言える温度になったころ、例の男が仕事をしているようだった。何か細長いものを叩いている。
響き渡る音、ムネチカの鬼気迫る表情、赤く燃える窯と鉄に、熱さも忘れ目が釘付けになる。(…す、すごい気。)
この人がどれほどの修練を積んで意思を鍛えてきたのかが伺えた。身にまとう赤い気は、怒りを具現化した様だった。
徐々に金属音が大きくなり、先ほどまで一定だったリズムが極端に早くなり始める。
その途端、細い鉄はひび割れてく。
「……くそっ。」
大きく舌打ちをしたと同時に、完全に割れてしまう。
一度手を止めて、大きく呼吸をする。
「……。」
熱を帯びていた鉄が徐々に冷め始める。同じくして、ムネチカの血が上った頭の熱も覚めていく。
「……ん。」
鍛冶場の出入り口で何かの視線に気が付き振り返ると、子供が見ていた。
「目が覚めたか。飯は食ったか。」
こくりと首を縦に振る。
「そうか。…息苦しいが、中に入れ。」
「え、……で、でも。」
「お前くらいの時には、俺はもう鍛冶場に入っていた。構わん。」
轟々と燃え盛る炎、ぱきぱきと薪が火の中で割れる音、重厚感のある鎚。恐る恐る、ゆっくりとムネチカに近づいてくる。小さな手は自分の着物を強く握りしめてしわになっていた。
「そう言えば、名を聞いていなかったな。」
「…い、イオリ、です。」
「イオリ、か。良い名だ。俺はムネチカだ。」
イオリと名乗るその子供からは、やはり気が感じられなかった。
眉間にしわを寄せてイオリを見つめていると、再度おびえ始める。
「…あ、あの。」
「あぁ、すまん。イオリ、この家にいる以上、お前にも家事仕事を覚えてもらおうと思う。そして行く行くは、お前の持つ鍔の、職人のような刀鍛冶にして見せる。」
「え、あ、あの……。」
何かに動揺するイオリ。気が弱い性格なのは見るまでもなくわかりやすいが、それでも躊躇っている時間はない、とムネチカは意を決して続ける。
「お前にはきっと素質がある。その素質を、俺が磨いて見せる。」
「……。」
うつむき加減に、何か言いたげな表情でいるイオリ。煮え切らない態度にムネチカも多少のいらつきをを覚える。
「聞いているか、わかったら返事をしろ。」
「は、…はい。」
こうしてムネチカによる、イオリの刀鍛冶としての修行が始まった。