第一章 邂逅編⑤
⑤
【同日 深夜】
女の遺体を一先ず家の裏に藁をしき安置したのち、家の中で託された子供を横にする。
布団というものがないことがいまさら悔やまれるが仕方ない。自身の衣類を布団代わりにし、火を焚いた囲炉裏の近くに寝かせ、その対面に位置するようにムネチカは座した。
夕刻に婆さんが来なかったのはもしかしたらこの親子に関係があるのかもしれないとムネチカは考える。
キコリ村とタハタ村は親交があった。互いに採れる食料が違うため物々交換をしたり、キコリ村では良質な薪が取れ、またその薪から作られる炭は刀鍛冶にとっては重宝するため、ムネチカもよく利用していた。その分キコリ村の依頼も受け持っており、主に斧などを作成し届けていた。
またキコリ村でも数名の同胞を保護しているのは聞いていたし、実際に会ったこともあるが、この親子は見たことがなかった。
「……。」
最期の言葉を思い出す。
『あの、か、たの子を…どうか、どう、か…。』
あの方とはだれを指しているのか、ムネチカにはわからなかった。
ムネチカが刀剣士団領にいたのは子供のころで、まだ内情や組織など国のことには無頓着で、今でもよくわかっていない。
しかし考えられる物はあった。懐の鍔だ。この子には悪いがムネチカが預かっていた。
刀において鍔は信念を意味すると言ってもいい。そこには動物や植物、人物や物語など、様々だが、細かい彫りが施される。しかし、この子が持っていた鍔は長細い丸が二つ重なったような形をしており、そのほかには装飾もなく、いたって平凡と言わざるを得ないが、確かにそこには伝説の上でしか語られていない最上位の気、白気が宿っていた。
鍔に気が宿るのは刀鍛冶の気と、所有者の気だが、後者は使用する意思がなければ自然に消えていく。この鍔には常時気が宿っているので、間違いなく、この鍔を、そしてこの鍔と共に刀を打った刀鍛冶の気である証明だった。
「過去刀鍛冶の中で白気を宿した者の話は聞いたことがない。端に俺が知らなかっただけか。」
ムネチカの父・クニツナの気は紫気。白気が伝説上であるなら現存する最上の気を宿していた。その父をも超える気を宿す刀鍛冶がいたとすれば、幼いころの自分でも覚えているものだ。
しかし今はどうでもよい、つまりあの母親のいうあの方とは白気を宿す刀鍛冶で、こいつはその子共ということだ。
「こいつをいっぱしの刀鍛冶に育て上げ、白気へ至る覇道を俺が歩むための足掛かりにするという手もある。」
あの母親からは、どうか、としか言われていない。むしろ刀鍛冶の子なら立派な刀鍛冶になる方が、あの母親も浮かばれるというものだ。
己の力のみで白気に至るべきなのはわかるが、実際自分に何が足りていないのかは未だわからない。
この子供の血に宿る白気の血という才能を間近で見られれば何とかなるかもしれない。
うんうん、と大きく頷き、起きているものが一人しかいない家の中でムネチカは一人自問自答していた。
明日からの子供への修行、また自分の仕事や刀作成への時間の使い方を考え始めたところでムネチカの脳は許容を遥かに超え、頭からは湯気が立ち登る。
「ええい、やめだやめ。明日のことは明日だ。早朝には、この子が目覚める前に母親の供養をしなければ。」
そう言うと、ムネチカはその場で大の字になり、目を瞑る。体は披露を感じているはずだが、何故か頭は覚醒していた。
それとは反対に、例の子供はすやすやと眠りについていた。
家の中に、囲炉裏のチリチリと言う火の音と寝息だけが響く、この家にしては静かな夜だった。
【翌日水の日 早朝】
未だ霧が立ち込めて、新緑の田園を薄ら白く染める早朝。水場の多い田んぼは五月といえど肌寒い。
家の裏にて、ムネチカは隆起した地面に線香を添え、蹲踞のような姿勢になり、合掌し頭を下げていた。
この近くには遺体を埋葬する場所がなく、タハタ村では主に火葬、もしくは土葬が行われていた。共同の土葬場もあるのだが、それは外れの村にあるため、ムネチカの家から遺体を運びながら向かうにはどうしても耐え難い距離であった。
やむ無しにムネチカは、自身の家の裏に埋めることにした。元々佐倉家のものであったが今はほとんど自分の所有物、構うまい、と独断で決めた。
昨夜、ムネチカは結局のところ眠ることができなかった。あの数刻もあったかは定かではないが、一度に多くの出来事が起き、頭を整理したり、考え事をしているうちに夜が開けていた。
「問題ない。あんたの子は、俺が立派な刀鍛冶にしてみせる。」
そう誓うと、ムネチカはすっと立ち上がり、家の中に戻ろうと踵を返す。
と、同時頃、家の中で物が落ちる、転がるなどの騒音が響き渡る。
「な、何だ。」
走って玄関まで行き、家に入ると、元々汚かった家がより汚く、足の踏み場も仕事をする隙間もなくなっているほどモノが散乱していた。
「何だってんだ全く。」
居間の端っこ、一部不自然に衣類が積まれている場所があった。それらは居間の押し入れに適当に混然と詰め込んでいたムネキチの衣類だった。そして尚且つ例の子供が見当たらない。
物音を立てないように、その衣類の山に向かう。
息を潜め、山の前でじっとしていると、山がそわそわし始める。
ムネチカはじっとその動きを見つめ、その時を待つ。酸素欲しさにものが出てくるのを。
「……。ぷはぁっ。」
勢いよく小さな頭が飛び出してくる。例の子供だった。
「はぁ、はぁ。」
体が酸素を求めるのに律儀に従って、大きく息を吸っては吐く。多少落ち着いたであろう頃、ムネチカが話しかける。
「……何してんだ。」
「…。」
しばらく見つめ合う二人。子供の行動に眉間を寄せ無愛想な顔がどんどん固くなっていく。
「……さい。」
「あ、なんだって。」
「ごめんなさい何もしてませんすいませんでしたなんでもしますから許してください殺さないで」
「な、なんだ。」
ムネチカは特別子供が苦手というわけでもないが、得意というわけでもない。幼少期は鍛冶修行、大人になっても鍛冶修行と、それ以外には何も経験したことがない。故に子供が好きそうなことや、子供への接し方がわからなかった。
さらに鍛え上げられた鍛冶屋としての筋骨は、知り合いにならまだしも、見ず知らずの者からすればそれだけで萎縮させる。
「と、とりあえず落ち着け、とって食おうてわけじゃねぇんだ。」
「……。」
衣類の山で体がうもれており解りづらいが、小さな手が激しく震えており、明らかに怯えていた。
この親子と出会ったとき、母親だけでなくこの子供も怪我をしていた。恐らくこの子もカマセかイヌマから暴行を受けたに違いない。大人の男に怯えるのも無理はない。
自分に敵意がないことを示すために、子供の目線に合わせるように目の前にどかっとあぐらをかく。
「…安心していい。俺は刀鍛冶だ。」
「え…。」
その一言で表情が格段に明るくなる。
ムネチカにとっても大きな賭けであった。この子が本当に拳闘士団の人間ではないとも言い切れない。持っていた鍔は、もしかしたら仇のものかも知れない。そういうことを考え出すと昨夜も寝られずにいた。
だがひとつだけ信じられたことがあった。この子を守り通した、すでに死んでいてもおかしくなかったはずなのに、ちゃんと守り通した母親の意思の力だ。
晴れ上がったまぶたの隙間から伺えた眼光は、たじろぐ程の気を感じられたのだ。
そんな母親の子を信じてみたかった。
「どうしてうちの前にいた。」
「…僕は、母様についてきただけで…。途中、二人の男の人に、叩かれて…。理由は、わかりません。」
「そうか…。」
思い出させてしまったことを後悔したムネチカ。明るくなってきた表情がまたぐっと強張る。
「そうだ、お前に返さなきゃいけないものがある。」
そう言うとムネチカは懐から鍔を取り出し、子供の前へ置いた。
「これは、…父様の…。」
手を伸ばして数秒、鍔を眺めた後に、ぎゅぅっと力強く抱きしめる。
「お前の親父さんはどんな人だ。何者なんだ。何故その鍔に気が宿っている。お前は何者なんだ。」
「え……あの、え、と…。」
またビクビクと怯え始める。
伝説上の白気。それを宿した刀鍛冶の代物を目の当たりにし、いてもたってもいられなくなっていたムネチカだが、何をやっているんだと自分を戒める。
「あ、いや、すまない。忘れてくれ。」
まずは自分が本当に害がない人間であることを示さなければいけない。そうしなければ境地への道が遠ざかっていくだけだ、落ち着け。と自身を宥める。
しばらく沈黙が続く中、その沈黙を子供から破ってきた。
子犬のような瞳が小さく、だが明らかに震える。
「……あの、母様は……。」
「あ…。」
なんと言えばいいものか。伝えるのは簡単だ。だがその後の事も、託された身としては責任を持たなければならない。
だが、この子は知らなければいけない。いや知る権利があるのだ。
意を決してムネチカは、言葉を振り絞る。
「ついてこい。」
たった五文字の言葉が、こんなにも重たいとは夢にも思わなかった。
玄関から出て井戸の横を通り、薪が置かれた場所を抜けて家の裏手に回る。
先ほどの隆起した場所まで子供を案内する。
子供はムネチカの後ろを近づきすぎず、離れすぎずついてくる。
見れば服装は所々破けている。肌は母親似なのだろう、白く透き通るほどで一回見ただけでは女児と思われる程細い。
髪も前髪は目を覆うほど垂れ、耳は隠れ 襟にもつくほどだ。後で切ってやらねばなるまい。
顔を見れば似ている者が思い浮かぶかと思ったが、はっきりしない。
五月も中頃。脛程までだった稲は膝くらいまで伸びただろうか。山から吹き抜ける涼やかな風に揺られさわさわと音を立てる。ここまで心地よいと、昨晩のことは悪夢だったのではないかと思われる。
意味ありげに盛られた人一人分あろうかと思う土。そして備えられた線香。ここまで揃っていれば、言わずもがな、察せられる。
「……。」
唯々立ち尽くす。何を考えているのかは、わからない。
しかしムネチカにも覚えがあった。逃げ延びた日の最初の一人の夜だ。
未開の土地、頼れる知人もおらず、ただ広いこの家に一人で眠ったあの日。
心細く、唯ひたすら心の中で父を、母を呼んだあの日。
「う…うぅ……」
次第に嗚咽が漏れ出す。膝から崩れ落ち、唯悲しみに身を任せる。
ムネチカは、必死に思い出していた。あの夜、自分は何をしてもらいたかったか。
この子供と自分は同じではない。しかし、あの時の自分にはなかったものをこの子には上げられるかもしれない。
考えるよりも先に、体が動いていた。
ムネチカの太く、血管が浮き出るほどに分厚い両の腕が子供を抱きしめる。
「俺は、お前も、お前の母の事もよくは知らない。だが、最期までお前を守り抜いた。ほかの誰もが知らずとも俺だけは、お前の母が偉大だったこと、誰よりも優しかったのだと知っている。」
いつの間にか、子供はムネチカの腕に体を預けていた。
「だからお前も、優しかった、偉大だった母のその姿を、忘れることなく生きてゆけ。お前が生きていく事が、最大の母への手向けだ。」
今は泣いていい。涙が枯れようとも泣き続けていい。子供とは泣くものだ。我慢などしてはいけない。武力もなく、抵抗も虚しい小さな存在が唯一できる事が泣くことだ。こいつが泣けなくなるまで俺はそばにいてやるのだ。
それは、幼き頃の自分に対してのけじめなのか、それとも父親というものを体験しているからなのか。
この家には喜びの笑い声がなり、怒りの作業音が鳴り響いていたが、過去一度たりとも鳴らなかった、鳴らねばならなかった悲しみの音が、数年を経てようやく響き渡った。