第1話 白蝶草の乙女③
「馬鹿なっ、何故ここを見つけられたのだ!? 奇門遁甲を応用した術は完璧だったはず」
「たしかにお前の術の完成度は高かった。見つけ出すのに、かなり時間が掛かった」
「ほう、あの矢河を出し抜くことができたか。それは名誉なことだ」
「しかし、どんな事にも完璧なものはないと覚えておくべきだな。外法魔導士よ」
長身の男――矢河が懐から一枚の黄ばんだ紙きれを取り出す。何やら記号めいた文字が朱色で書かれてある。
それを目にしたトゥーラーはそういうことか、と納得する。
「遁甲破りの術符――魔導士ギルドの協力を得たのか」
「魔導士ギルドはお前の行動をもうこれ以上、看過できないそうだ。先日、ギルド側から警告を受けているはずだ」
矢河の言葉が何を意味するのか、トゥーラーは知っていた。
「ならば貴様はギルドに雇われた刺客、というわけだな」
歯ぎしりしながら、矢河と睨めつける。
「人間のゴロツキ連中の用心棒もどきをやっているお前ほどではない」
「ぬかせえっー!!」
矢河の言葉に激高したトゥーラーが杖を天高く掲げる。
「外法魔導士の魔法、とくと味合わせてくれわっ!!」
魔導士特有の呪文を詠唱し、掲げた杖を動かして空中に真紅の魔法陣を描く。
頭部を失って倒れていたケルピーたちの胴体が飴細工のように溶けだし、やがて大きな水たまりとなる。それでもなお詠唱は続いている。
「宗次郎、彼女を安全な場所へ連れていけ」
「わかってる。嬢ちゃん、こっちだ」
スカーフェイス――宗次郎と呼ばれた中年が実奈美を急かし、廃工場の中に向かって駆けた。
全力で逃げながら、実奈美はふいに背後を振り返る。
かつてケルピーだった二つの水たまりはアメーバの動きを呈しながら、いまだ倒れたままのチンピラたちを呑み込み始めたではないか。呑み込まれた男たちの身体は、数秒とかからない内にまず衣類を、そして皮膚や肉だけでなく骨までも溶かし尽くしていく。
気絶から回復した他の男たちが、捕食される仲間を見て恐れをなす。他人を撥ね退け我先にと、工場敷地の出入り口に殺到する。
――だがそこには見えない壁でも存在しているのか、何かに阻まれて外に出ることが叶わない。
そうしている間にもアメーバは迫っていた。追い詰めた獲物を次々と捕食していくアメーバの大きさが、徐々に大きくなっていくではないか。
「た、頼むっ、助けてくれよぉぉぉっ!」
最後の一人となってしまったあの金髪チャラ男が、必死の助けを求め泣き叫ぶ。
悲鳴を耳にして、思わず実奈美が立ち止まり助けようと身を翻すが、咄嗟に宗次郎によって腕を掴まれ止められる。
「止せ、もう間に合わん。可哀想だがアイツはもうダメだ」
「そんなこと言ったって、放っておけるかよっ!」
「バカ野郎っ、せっかく拾った命を粗末にするんじゃねえっ」
「……っ!」
柳眉を立てて恫喝する宗次郎に、実奈美は返す言葉が出てこない。歯痒い思いを抱きつつも、どうする事も出来ない無力な自分を呪うしかない。
いくら自分に危害を加えようとした人物とはいえ、無残に殺されていく様を平然と見ていられるほど、強くない。
「ごめんな……」
小さく謝罪の言葉を口にし、工場内に無事避難し終えた時には――哀れなチャラ男は、自分の背丈の倍以上まで急成長を遂げたアメーバに全身を包まれ、その生涯を終える羽目になった。断末魔をあげる暇すらなく。
「こりゃあ、女の子に見せられるようなもんじゃないな」
一部始終を目にした宗次郎が眼を細める。
一方の矢河は、さきほどの場所からほとんど移動していない。
襲い掛かってくるアメーバを、いつの間にか手にしたコンバットナイフと思わしき刃で、斬り払っているではないか。
斬り捨てられたゲル状の残骸は地面を這いずって本体の元へと戻り、再生して再び矢河に攻撃する、という行為を繰り返していた。
魔導士の詠唱が止んだときには、そこに立っているのは矢河ただ一人であった。
大勢の人間を食らって成長したアメーバは高さ10メートルほどの巨人へと変貌を遂げていた。縦にも横にもぶよぶよと揺れ、不気味さを増す。
「ははははっ、どうだ。これが俺のとっておきよ」
巨人の足元で得意げに笑うトゥーラーに対し、矢河は終始無言だった。
コンバットナイフを持った右手が一瞬、淡く青い光を出したかと思うと、それは回転式拳銃と入れ替わっていた。見る者がみれば、その回転式拳銃がS&W M500に酷似していると気づくだろう。
しかしM500と比べて銃身は長く、またフレームもシリンダーも一回り大きい。さきほどケルピーの頭を軽く吹き飛ばしたのは、この見たい事もない大口径の拳銃であった。
グリズリーなどの猛獣はおろか、化物や妖物どもと渡り合うために造られた大型拳銃“M800”通称『ドラグーン』。こんな大型拳銃を扱う人間そのものが怪物と言える。
矢河がその大型拳銃を片手で無造作に構え、即座に引き金を絞る。
大口径の銃が発する爆音が空気を劈き、それは工場内に避難していた実奈美にも届いていた。
発砲音は二回三回と連続した。
ゲル状の巨人の胴体に同じ数だけ穴が空いたように見えたが、即座に穴が塞がる。なんという回復力であろうか。
「そんなものがこやつに効くと思うたかっ! 舐めてもらっては困る」
ゴブリン魔導士が憎たらし気な笑いを浮かべ、巨人に反撃を命ずる。
アメーバが手を前に出したかと思うと、その太い指が鉄砲水より遥かに速い勢いで矢河に襲いかかった。もし普通の人間であれば、自分の身に何が起こったのか分からず溺死していただろう。
しかし、大型拳銃を軽々と扱う矢河を普通の人間と一緒にすることはできない。鉄砲水が届くより早く後方へと跳躍し、攻撃を躱す。
元居た場所には、高濃度の硫酸で融かされたのか煙とともに大穴が開いていた。
巨人は矢河の動きを予想していたのか、さらに追撃する。
迫る硫酸の鉄砲水を間髪で身をそらし、同時に反撃も忘れない。再度引き金を絞り、発砲を繰り返す。しかし、虚しくもアメーバ巨人にはダメージは与えられていない。
それでもなお、矢河の眼は諦めというものを知らないようだ。
上からの攻撃をしゃがんで躱し、立ち上がる瞬間、両脚をバネ替わりに利用して巨人の傍らにいる魔導士トゥーラーに殺到した。今度は左手にいつの間にかコンバットナイフが握られている。
「甘いわっ!」トゥーラーが杖を真横に振るうと、燃え盛る鬼火が4つ現れる。「これが避けられるかっ?!」
4つの鬼火にはそれぞれ意思があるのか、四方に分かれた後に一斉に矢河めがけて飛来する。宙を跳ぶ矢河に上下左右からの攻撃に逃げ場はない。
しかし実に驚嘆すべきことに、矢河は宙で前屈姿勢を取り一回転して、まず上下の鬼火を斬り裂き、続けて横に薙いで左右を斬ったのだ。なんという身体能力と運動能力であろう。
「ちいっ!」
研ぎ澄まされた刃が、首に届く寸前に魔導士が片手で印を組む。
矢河の放った突きの一閃は透明な鉄壁に塞がれ、火花が散る。魔導士と巨人が次の攻撃に移る前に、敵が作り出した壁を蹴って一気に距離を取った。
それらすべての動きは、戦いが始まって僅か10秒と経たぬ時間に行われていたのだ。
工場の割れたガラス窓から矢河と魔導士たちの死闘を見守っていた実奈美は、ただ茫然とするしかない。瞬きすら忘れてしまう。
「す、すごい」無意識に感嘆が洩れる。「あの人はいったい何者?」
「ウチの大将だ。特に化物相手ではウチのチーム、いやこの業界全体でもアイツの右に出る者はない」
煙草を咥えながら観戦していた宗次郎が、視線を外に向けたまま言う。
「“Paranormal Sweepers”――聞いたことあるだろ」
宗次郎の言葉に、はっと気づく。
すべては今から30年前のあの日から始まったのだ。世界中を包んだ漆黒の怪奇現象<暗黒の日>。その日を境に世界は一変したのだ。
<暗黒の日>以降、怪奇事件や超常現象が頻発するようになり、さらに幽世と現実の壁を突き破り、忽然とその姿を現した幻想世界の住人たち――伝説の怪物や妖怪、妖精との共生・共存。過去に忘れ去られたはずの魔法という概念すら、再び存在が認められるようになったこの世界で、それら幻想たちとの事件やトラブルが月日を追うごとに増加したのは、至極当然であろう。
それを専門に取り扱う組織や機関が誕生したのも、また必然と言えよう。いつしか人々は、それら専門組織や機関を総称して“Paranormal Sweepers” ―怪奇・超常現象解決屋―と呼んだ。
「思い出した。怪奇・超常現象解決屋の中で、ナンバーワンとされるチームがあるって。たしか、チーム“P.S.Y”だっけ」
<暗黒の日>が生み出したのは、怪異だけではない。所謂、超能力者と呼ばれる者たちがそれである。かつては、テレビなどで持て囃された事もある超能力者たちの存在は人類全体の20パーセント程度とはいえ、今やこの世界では決して珍しいものではない。
砂を操ることができる実奈美もその一人であったし、そもそも怪奇・超常現象解決屋になる者の大半が超能力者なのである。
「ご名答。アイツがチームリーダー兼所長の矢河剛だ。んで、俺はサブリーダーの弥勒宗次郎。他にもメンバーはいるけど、こういったご時世なんでね。慢性的に人手不足なのさ」
ほとんど吸い終えた煙草をその場に捨て、足で踏み消す。
「嬢ちゃんはここを動くな。素人の出る幕じゃないんでね」
そう言い残し、遅れを取り戻さんとさっさと戦いに身を投じた。