第1話 白蝶草の乙女①
Twitterでフォローさせていただいている、Iris様の企画『共通キャラクター小説』に参加させて頂いております。
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夕方のバイト終わりの帰り道だった。
誰かに呼ばれた気がして、伊凪実奈美は声がしたほうを向いた。振り返る時に亜麻色のショートマッシュボブが揺れる。小顔で中性的な顔立ちだが、細い眉と気品のある目元――美人であることには違いない。スラリとした体型に緑のパーカーとジーンズがよく似合っている。
近頃、声真似を得意とする妖精が、人間を異空間に誘い込む事件が多発しているとニュースでも話題になっていた。護身用の五芒星の御守りを持っているとはいえ、用心に越したことはない。
だが妖精に誘われる心配はなかったが、すぐに別の誘いだったと知る。そこには明らかにナンパ目的で声をかけたと言わんばかりの、如何にもチャラそうな金髪の男が人懐っこそうな顔で立っていた。
「オレに何か用?」
やや高めの声はぶっきらぼうに、生まれつき一重瞼の眼差しは真っすぐ相手を見据える。思わずたじろいでしまったのは、相手のほうだった。
「大した用じゃないんだけどさ、一緒に遊びに行かない?」
「行かねよ。それだけなら、気安く声なんか掛けるな。オレは忙しいんだよ」
「あっ、ねえ、ちょ、ちょっと待ってよ」
さっさと歩きだす実奈美をチャラ男が懲りずに近寄る。おこぼれをもらうコバンザメのごとく、ぴったりとくっついて歩く。
「少しくらいさあ、俺の話を聞いてくれてもいいじゃん」
「オレのほうはアンタと話すことは何もない」
「そんなに冷たいこと言わないでさあ。もしかして、どっかのモデル事務所に所属してない? ほら、君ってけっこう可愛いじゃん」
可愛いと言われ、実奈美は一瞬むっとした表情を浮かべたが、またすぐに興味ないと言わんばかりに無表情に戻る。元来ボーイッシュな雰囲気なためか、過去にも女性からも声を掛けられ、「カッコいい」と言われることはあった。
しかし今みたいに異性から、面と向かって「可愛い」などと言われたことは滅多になかった。もちろん、可愛いと言われて嬉しくないわけではないが、それは相手にもよる。
「余計なお世話だ、放っておいてくれ」
もうこれ以上付きまとうな、面倒だというオーラを醸し出しながら歩く速度をあげる。両手は緑のパーカーのポケットに突っこんだままだ。外気はすでに冬から春の風へと交替しようとしているが、まだ冷たい。
「ホントに少し。少しの間でいいからさあ」
まだ食い下がろうとしているチャラ男は、今度は実奈美の進路を塞ぐかたちで前に立ちはだかる。165センチある実奈美の身長だが、並んでみると男のほうが数センチほど高い。
しつこいナンパ行為に我慢の限界が達したのか、僅かに身長差で負けた腹いせか――前触れもなく立ち止まった実奈美は能面のごとき顔を男に向けた。
やっと分かってくれたかと、男の表情が緩んだ。
瞬時に右手をパーカーのポケットから抜き出し、男の顔面めがけて平手打ちするように振るった。右手は頬どころか、男の身体のどこにも触れていない。にもかかわらず、だ。男は急に目元を抑えながら、仰け反った。何かを投げつけられたかのように。
「うわっ!!」
「人の嫌がることするアンタが悪いんだよ」
「てめぇ、何しやがった」
「早めに眼下に行けば大丈夫だよ。失明したくなけりゃあな」
そう言い残し、男をほったらかしのまま立ち去ろうとした。
周囲見ればただの痴話喧嘩なのだろう、そう考えただけでムカっ腹が立つ。
「クッソ……ふっざけんじゃねえぞ、このアマっ! 人が下手になってりゃあ、いい気になりやがって」
立ち止まった場所から20メートルと進んだところで、視力が回復したらしいチャラ男が文字通り怒りの形相を浮かべ、背後から駆け迫ってくる。
「このクソ女っ!!」
男の腕が無防備に歩く女の肩に触れようとした刹那――
「クソ女で悪かったな、クソ男」
突如、実奈美の姿が消え失せた。駆けた勢いを殺すこともできず――何かに足を取られ、バランスを崩して派手に転倒した。
何事かと一部始終を傍観していた周囲の目は、次の瞬間、何が起こったのかすぐに理解できずにいた。それはチャラ男自身も同じであった。
「おいっ」
声の主は他ならぬ実奈美だ。
男は這いつくばった状態から視線だけを上げる。
「今日はこの程度で済ませてやるが、次は容赦なく痛めつけるぞ」
怒気とともに冷厳に言い放つと、男は痛みを堪えているようでのそのそと立ち上がり、悪態だけを残して、雑踏の中に消える。
「オレにケンカ売るなんて10年早いんだよ」
逃げた男に一瞥もくれず、独り言ちた。
近所のスーパーで買い物を済ませた実奈美は自宅アパートに向かう。築30年以上の古い二階建ての木造アパートだが、内装はそれなりにリフォームされているため住み心地は悪くない。
自室に上がるため、階段に足を懸けた時、ちょうどアパートの大家と出くわしてしまった。実奈美は内心、しまったと舌打ちしつつも努めて明るく、
「こんにちは、大家さん」そう挨拶した直後に小声で「家賃の件……ですよね」
ばつが悪そうな表情を浮かべながら、恐る恐る訊ねる。
大家である中年の婦人は渋い顔で、
「こんにちは、伊凪さん――もう家賃が三か月分も溜まってるわ。お宅が厳しいのは、ウチも承知してるつもりだけど。せめて一か月分だけでも、早めに入金しれくれないかしら」
「申し訳ありません……」
実奈美は素直に頭を下げた。
「来週になれば、収入がありますのでもう少しだけ待って頂けませんか?」
そう言われ、大家のほうも仕方ないわね、とため息を吐く。
「じゃあ、来週中には入金してちょうだいね。あまり滞納されると、ウチも困るのよね」
「本当に申し訳ありません」
大家が去った後、実奈美はどっと疲れが襲ってくるのを感じた。心なしか、階段一段一段を上る足が重くなる。
長年に渡る父親の暴力から、母親と二人で逃れて来たのは今から三年前の秋だった。いま住んでる街の役所に言って住民票をロックしてあるため、父親に今の住まいを知られる心配はない。
越して来た当初は、実奈美だけでなく母もパートに出ていたが元々病弱で、尚且つ長年の夫からの暴力が心身ともに身体を蝕んでいた。二年前の夏頃、とうとう帰宅中に倒れ、そのまま二か月近く入院することとなった。一命は取り留めたものの、医者からは仕事に就くのは難しいだろうと告げられた。
今までずっと自分を守ってきてくれた母の支えになりたかった実奈美は、生まれつきの負けず嫌いの性格で学校を卒業するまで、バイトを掛け持ちして生活費や学費、そして母の病院代を稼いできたのだ。今でも母の通院が一か月に一度はあるため、定職に就くのは難しかった。
玄関のドアを開け、三和土でスニーカーを脱ぎながら
「ただいま、母さん――はい、これ。今日の買い物」
「おかえり、実奈美。今日も一日お疲れ様」
笑顔で自分を労ってくれる母の言葉をうけ、実奈美も自然と笑みが浮かぶ。女性らしいとても素敵で優しい笑顔だ。
「ねえ、実奈美。少し相談があるんだけど――」
最低限の家具しかない六畳間で夕食を終えた後で、母がこう切り出す。
実奈美は直感的に母が何を言おうとしているのか、察した。
「母さん、また働きに出たいっていうんだろ? ダメだよ、お医者さんからも止められているじゃないか」
「でもね……貴女ひとりばかりに苦労掛けているのが……母さん辛くて」
「ボクなら全然大丈夫だよ。心配しないで」
食器を片付けた後で、母にそっと寄り添う。
母の目から一筋の流れが頬を伝う。
「ごめんね……情けない親で……本当にごめんなさい」
「大丈夫だから、母さん。ボクは大丈夫だから、泣かないで」
すすり泣く母の手を優しく握りながら、実奈美も溢れ出しそうになる涙を堪えた。ごく親しい、心から信頼できる人間の時にだけ、無意識に一人称が“オレ”から“ボク”に変わっているのを、本人が気づいているかどうか。
かつて、酒を飲むたびに暴言を吐き散らし、暴力を奮っていた父と暮らしていた時には、涙と悲しみしかなかった。時折、反発して殴り合いの喧嘩に発展したことも、数えきれない。
母と二人暮らしの生活とはいえ、そこはかとない今の生活に実奈美は、どんなに金銭的に厳しくとも幸せを実感していたのだ。