異端の怪物
――穴を抜けると、そこは深い森であった。
鬱蒼と木々が連なり、それがどこまでも広がっていた。
まだ早い時間だからか、動物たちの気配はなく、鳥の囀りすら聞こえない。あたりは、静寂に包まれていた。
あまり修道院から離れないように、ゆっくりと周囲を散策する。
季節は早春とは言っても、朝はまだ肌寒い。だが、日が完全に昇ればそれもなくなるだろう。
さくさくと落葉を踏む音が心地よく、どこまでも歩いてしまえそうだ。
立ち止まり、目を閉じる。
ラジオ体操でするような深呼吸をする。
苔むした木の匂い、湿った腐植土の匂い。
その匂いを肺一杯に息を吸い込む。
それだけで、疲れが取れていくようだった。
森林浴とは良く言ったもので、自身の身体から悪いものが抜けていくような感覚がする。
暗く鬱々とした修道院とはうって変わって、解放感溢れる開けた場所の何とも気持ち良いことか。
俺は側にある木の根に腰かけた。
空を見上げる。
日の出の光りに照らされ透き通るような緑が、風に揺れている。
その向こうには、産声を上げたばかりのまだうっすらとした青空が広がっていた。じっとその光景を見ていると、うつらうつらと眠たくなってくる。俺はその心地の良い微睡みに、身体を任せることにした。
ふと何かが動く気配がして、意識が覚醒する。
少しして、身体全体を地面につけズハズルと這いずるような音が聞こえてきた。
蛇などではない。それよりも、ずっと大きい何か……。
その音はどうやら、森の奥の方から聞こえてくるようだった。
目を凝らして木々の間のずっと向こうを見てみるが、全く何も見えない。夜が明けてきたとはいえ、森の奥は依然と闇で満ちていた。
本来なら修道院に引き返した方が良い場面だろう。
しかし、俺は誘われるようにふらふらと、その奥へと足を進めていた。何故か、そうしないといけないような気がした。
木々の影を踏みながら歩く。徐々に影ではなく、闇で地面が染まる。そして、俺の姿も闇が包み込んでいく。
――どれくらい歩いただろうか。
気づけば、俺は大きな石の前に立っていた。
ストーンサークルのように、石が円上に置かれている。
辺りを見回しても、先ほど聞いた音の主はどうやらいないようだ。
ならば、早いところ修道院に戻るべきだ。
だというのに、足が全く動かない。地面に縫い付けられたように動かない。
ストーンサークルからズルズルと、あの這いずる音が聞こえた
大石を見る。
何もいない。
俺の視覚はなにも認めない。
ストーンサークルの中心部を注意深く見つめる。すると水を1週間も飲んでいないような、強烈な枯渇感に襲われた。それはもはや衝動と呼べるものだった。
今すぐストーンサークルの側に駆けつけ、触れたい。
いや、触れればならないのだとさえ思った。
囁きが聞こえる。
影が蠢く。
何かが手招きする。
こちらに、おいで。
クスクス。
嗤う。
おいでおいで。
先ほどまでは梃子でも動かなかった足が、勝手にストーンサークルに向けて歩き出す。
もう少し、そう後少し。
頭の中で、語りかけてくる。
我らはひとつ。ひとつは我ら。
そう、ひとつに、なるのだ。
俺は、手を伸ばし石に触れようと――
「――それに触るな!!!」
肩を掴まれ、俺は、はっと息を飲んだ。
反射的に、石を触ろうとしていた腕を下ろす。
……俺はいったい何をしようとしていたのだろう。
今までのことが、白昼夢のように思えた。
怖々としながら後ろを振り向く。
そこには、ストーンハーストのもう一人の修道女、ヨハンナ・スコトゥスが立っていた。濃い金色の髪と、印象的な青い瞳。凛とした雰囲気を持った美しい女性だ。年の頃は、20代前半といったところか。
「黒殿、探しましたよ。まったく、ひやひやと致しました。して、どうしてこのようなところにお一人で?」
「その、悪い。ただ修道院の外に出てみたくて……」
「はぁ……黒殿、いいですかよく聞いてください。異国育ちの貴方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、私たちにとって謂わば森は異界なのです。その脅威を知らずたった一人で、森に入るなど自殺行為も甚だしい。餓えた獣や異形のものたちは、常に虎視眈々と人を襲う機会を伺っているのですから」
ヨハンナは、溜め息をひとつ付くと、語意を強めて嗜める。それだけ心配してくれたのだろうか。
そこで、ヨハンナはちらりとストーンサークルに視線をやった。
「……何にここまで、誘われたのかは分かりませんが、恐らく善いものではないでしょう。……ここは危険です。早く修道院へ戻りましょう」
そう言われ、俺は大人しくヨハンナに着いていく。
そのまま少し歩くと、生温い風が後ろから吹き頬を撫でた。思わず顔だけ振り返ると、ストーンサークルの中で、何かが蠢いたような気がした。