救いは蠢く闇に
巡礼棟に入る。
窓から日が射し、その光に照らされるいつもと変わらない巡礼棟。修道院と同じ石造りだが、こちらの方がどこか暖かみがある印象を受ける。
長方形の年期が入った机。乱雑に置かれた椅子。薪が燃え尽き、煤をまき散らした暖炉。一通り視線を巡らせて、俺は2階へと足を進める。
静寂。
正にその例えが相応しい。足音さえ吸い込まれるこの場所は、とても静かで、寂しい。
おかしい。何故俺はそのように感じるのだろうか。不快感に満ちる胸を深呼吸で誤魔化し、黙々と階段を登った。
目の前に、ソフィアさんがいる部屋の扉がある。何の変哲もない扉だ。俺はそっとドアノブを握る。ゆっくり確かめるように、ドアノブを引く。ぎぃ、と不協和音が扉から響いた。
どこか薄暗く、淀んだ室内。
首筋がざわめく。
足を踏み入れ、小さくソフィアさんの名前を呼ぶ。
「……ソフィアさん?」
応える声はない。
その代わりに、一番奥のベッドからぎしりと軋む音がした。寝ているのだろうか。ゆっくり近寄る。
「ソフィアさん、アンドリューです」
リネンの布団を頭から被って、ソフィアさんの顔は伺えない。ベットの脇に立ち、俺は努めて優しく話しかける。
「いきなり入ってすいません。ソフィアさんのことが心配で、様子を見に来たんです」
ううっ、という呻き声が小さく聞こえた。嗄れたその声に驚く。ソフィアさんの声は、聞こえの良い優しげな声音だ。余計心配になって、失礼かとは思ったがそっと布団を捲る。捲ろうとして、ぐっと強い力手首を掴まれた。
「……うわっ!?」
布団から伸びる青白い手。こんな細腕で、どうやってこんな力を出しているのだろうか。
「……そ、ソフィアさん?」
「聞こえるの……ズルズルと這い寄る音が。嗤い声が。ずっとずっと。耳を塞いでも、神様に祈っても聞こえる。止まない、止まない。どうして、どうして。私が何をしたの。何をしたっていうのっ!」
錯乱した声。強く握られる手首。
激しく身動ぎしたために、布団が落ちた。ギラギラと狂気を孕んだ瞳。濃い目のくま。乱れた髪。以前の穏やかな美しいソフィアさんとは似ても似つかない姿が現れた。明らかに正気じゃない。
「ソフィアさん、大丈夫。大丈夫だよ。ソフィアさんを傷つけるものは何もない。大丈夫。俺がいるから」
だから、安心して、と何度も言う。
幻聴に妄想……医者ではないので確かなことは分からないが、統合失調症のような症状だ。できるだけ、ソフィアさんの言葉を否定しないようにする。
「アンドリュー様。助けて、どうか。どうか。怖い。私、どうかしてる。分かってるの。でも、どうしたら、どうしたら良いのですか!」
俺はベットに腰かけて、ソフィアに笑いかける。
「ソフィアさん、じゃあ俺がおまじないをして上げる。効果は俺も体験してるから折り紙付きだ。……目を閉じて。そうこっちに顔を向けて」
以前ヨハンナがしてくれたように手を擦り合わせて、掌を暖めてからソフィアのこめかみに当てる。じんわりと俺の手の熱がソフィアさんに伝わるのを感じる。優しくゆっくりとこめかみを揉む。
「こうすると、安心するだろう? 意識を俺の手に向けて下さい。ほら、大丈夫。怖くないだろ?」
俺の言葉にソフィアさんは、何度も頷いた。
「ええ、ええ。暖かい。とても、暖かい、です」
「うん。ソフィアさんは大丈夫だよ。怖かったね。辛かったね。でも、今側に俺が居る。ここに、俺が居る。だから、大丈夫」
「はい。はい、アンドリュー様。ありがとう、ございます。ああ、いくら祈っても、駄目だったのに、聞こえない。今は、何も聞こえません。ああ、ああ。どうか、離れないで。側に居てください」
「勿論。さあ、このままお休んで下さい。ここで、見ててあげるから。ソフィアさんは決して一人じゃない」
はい、とソフィアさんは頷いた。頷いて、安心したように小さく笑った。
それから少しして、ソフィアさんから穏やかな寝息が聞こえてきた。目の下のくまを見ると、ほとんど眠れてなかったのだろう。落ちた布団を拾って、ソフィアさんにかけてやる。
(……這い寄る音、か)
心当たりは嫌と言うほどある。
まつろわぬ者。先ほど、ソフィアさんについて統合失調症に似た症状と言ったが、それは俺にも該当する。聞こえるはずがない音や声それに幻覚。
俺が狂っているのか。この世界が狂るっているか。それとも両方か。
ああ、嫌な予感がする。
それを誤魔化すように、ソフィアさんの手を握る。そして、瞳を閉じて祈る。
――どうか、この悪夢に安寧を。
これでこの章は終わりです。
次話から、ある意味プロローグが始まります。時間が逆行し、混乱させるかもしれませんがお付き合い頂ければ嬉しいです。




