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聖者の牢獄  作者: 桂太郎
第3章 救いは蠢く闇に
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呼ばれない名前




 息を吸って、吐く。

 食事をする。

 睡眠を取る。


 毎日、その繰り返し。


 色のない世界。

 冷たく閉ざされた扉。

 抜け出せない闇。


 私には生きる意味などなかった。

 それなのに、生かされ続けている。

 

 感情など邪魔なだけだ。

 何も考えなければ強くなれる。

 孤独だからこそ失うものもない。


 瞳を閉じて、時が過ぎ去るのをじっと待つ。

 

 そうすれば、いつかきっと終わりが来るだろう。

 



 ***




 一心不乱に鍬を振るう。

 土を掻出す度に舞う土埃が身体にまとわりつく。それを気にせず、また鍬を振り下ろす。


 この作業が修道院への恩返しに繋がる。

 そう思うと、重労働も苦ではなかった。それどころか、喜びさえ感じていた。

 

 日本での仕事は、デスクワーク中心でこうして身体を使って働くことはまずはなかった。ここに来た当初は苦労の連続で、今思い出しても苦笑いしか出てこない。それでも、俺は何とかここまでやってこれたのはアマルは勿論のこと、フランチェスコやヨハンナをはじめとする修道士たちのお陰だ。


 汗が顔を伝う。

 どうせこれが終われば、水浴びをする。ならば、拭いても同じことだ。汗で視界がぼやけるが、気にするほどでもない。


「……黒君、そろそろ休憩しないかい? 熱心なのは良いことだけど、何事もほどほどが大切だよ」


 手を止め、顔を上げる。

 目線の先には、ひとりの修道士が立っていた。赤みがかった茶髪に、思慮深く優しげな眼差し。年の頃は、30代前半だろう。


 彼はシメオン・ガラティア。

 このストーンハーストで俺に良くしてくれている修道士のひとりだ。


「シメオンさん」


 名前を呼ぶと、シメオンさんは静かに微笑んだ。それから、手に持っている蓋付のビアマグに似た木製のコップを掲げた。


「ほら、井戸水で冷やしたピケットを持ってきたんだ。日陰で飲んで一息つこう」


「……ありがとうございます。頂きます」


 そこまで疲れてはいなかったが、せっかくの好意を無駄にしたくなかった。言われるままに俺は畑から離れ、近くの広葉樹の下に腰を下ろす。シメオンさんは俺の隣に座るとコップを渡してくれた。


 コップの蓋を開けて、一口飲む。冷やされたピケットが口に広がる。ほっと息を吐く。それから、一気にピケットを飲み干した。


「美味しいかい?」


「ええ、とても」


「そっか。それは良かった」


 シメオンさんは笑った。人好きのする笑顔。それを見るだけで優しい人柄が分かる。気遣いができる人で、俺が働いているとこうやって差し入れを入れてくれたりする。


「……何か貰ってばっかりで悪いですね」


「良いんだよ。君は良く働いてくれるからねぇ」


「いや、そんなことは……シメオンさんたちの方がすごいですよ」


「ははは、謙遜することはない。もっと威張っても良いぐらいさ」


「日本人なので、あまり威張るのはちょっと……」


 俺は口をもごもごさせながら呟く。褒められることにあまり慣れていないので、恥ずかしさが先行する。


「……ニホン人? そう言えば、君はどこの生まれなんだい? あまり見たことのない容姿だし」


「ああ、えっと……」


 口籠る。

 未来の日本から来ました、なんて言えるわけがない。

 そもそも日本はこの時代のヨーロッパの人々に認知すらされていないだろう。


「……ここから遠く、ずっとずっと遠く。東の最果て。日本という島国から来ました」


「島国……?」


「ええ。良いところですよ。四季があって、季節ごとの美しさが自慢で。俺はその中でも春が好きなんです。春には桜って言う木が満開の花を咲かすんですよ。桜が嫌いな日本人はいません。それぐらい綺麗なんです。シメオンさんにも見せてあげたかったなぁ」


「そっか。とても良いところなんだね。僕もいつか行ってみたいよ」


 その時は案内します、そんな言葉を口にする。決して来ることがない未来の話だ。


 俺はその考えを振り払うように、別の話題を振る。


「そう言えば、シメオンさん。ずっと聞きたかったんですけど、何でみんな俺の事を「黒」って呼ぶんですか? 普通に名前を呼んでくれれば良いのに。安藤でも隆でも、アンドリューでも良いですから」


「それは……」


 シメオンさんは、さっと目を伏せた。錆びた機械のように、ぎこちなく固い動きだった。どこか昏く淀むような雰囲気。先程までの穏やかな空気が消えた。しかし、それも一瞬のことで、シメオンさんはすぐに顔を上げた。微笑みながら、宥めるような口調で俺に話しかける。

 

「……そうだね。所謂、あだ名みたいなものさ。そちらの方が親しみやすいだろう?」


 有無を言わせないような声音。暗く底なし沼のような瞳。

 ああ、この瞳を俺は知っている。フランチェスコや修道司祭が浮かべた何かを恐れた瞳だ。


 俺の名前を呼ばないことは、何も異邦人だからではなかった?


 もっと別の理由……例えばこのストーンハーストの秘密に関わることであるとか。


「さぁ、そろそろ仕事に戻ろうか。充分休みは取れただろう?」


「……そう、ですね」


 その言葉に頷いて立ち上がる。隣に置いた鍬を握り、畑に向かう。





「――――貴方は、私だけのものよ」

  




 後ろから囁くような声が聞こえた。

 俺は振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。


 ―――何故ならそれは、シメオンさんの声ではなくもっと幼い……少女の声だったからだ。


 それが幻聴なのか。

 後ろに誰かがいるのか。

 俺にはそれを確かめる勇気はなかった。



 



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