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聖者の牢獄  作者: 桂太郎
第2章  プロメテウスの火焔
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黄昏のアムネジア





 唸るように音を立てて、扉が開いた。

 彼女はこちらに振り返りもせず、静かにその奥へと消えて行く。


「――待って、待ってくれっ!」


 慌てて追いかける。

 そんな訳がない。アイツは死んだはずだ。これは絶対に白昼夢で、幻想なんだ。それなのに……それなのにどうして俺は彼女のあとを追っているんだ。 


 脇目も振らずに走った。

 走りながら俺は彼女の存在を否定したいのか、その存在を肯定したいのかどちらなのだろうと、考えた。考えて、考えて、結局答えは出なかった。ああ、混沌としたこの思いをどう表せばいいのだろう。


 重い扉を力任せで押し開き、廊下の先に視線を走らせた。

 奥まで規則的に取り付けられた燭台の蝋燭が揺らぐ。ぼんやりと照らされた通路。灯りがあるのに、真っ暗だと思った。

 意識して息を吸う。そのまま酸素を飲み込んで、一歩踏み出す。


 踏み出してしまえば、抵抗もなく闇に溶けることができた。

 走り出す。慌ただしい足音が反響する。

 こんなにも全力で走っているのに、すぐに追い付けないのは何故だろう。でも、そんなことどうでも良い。もう一度、ただもう一度、俺はそれだけで、それだけを――。


 黒い髪がふわりと舞う。

 礼拝堂に入っていく女性の姿が見えた。


 ――ああ、良かった。追い付けた。今度は間に合った。


 俺も続くように礼拝堂に足を踏み入れる。

 機械的に並べられた長椅子。湿った生暖かい空気。埃と腐った木の臭い。夥しい蝋燭。写し出される影。

 石像の前に立つ腰まで延びた黒髪の女性。俺はゆっくりと歩き、彼女に近づく。声をかける。自身の震えた消え去りそうな音が遅れて耳に入った。


「――静代。静代、なのか?」


 女性は答えない。

 答えを待つ、数秒が長く感じる。

 しんと静まり返った場所で、俺だけの吐息が妙に生々しく聞こえる。


 さらりと、ゆっくり髪が靡く。その動作を見て初めて彼女が振り返ったのだと分かった。恐る恐る顔を見つめる。


 冷涼で、つり目がちな黒い瞳。整った鼻筋にほっそりとした輪郭。青白い頬。それに比べて、赤い唇。まさしく和風美人と言った容貌。慣れ親しんだ、顔。


 その女性……安藤静代は無表情なのに、笑っているように見えた。俺はただその顔をじっと見詰めた。見詰めることしかできなかった。喉が乾く。頭がパンクしそうだ。


「――――兄さん」


 ソプラノの落ち着いた声が届いた。ああ、静代。俺の妹。お前なんだな。良かった。ずっと、会いたかったんだ。俺は、お前に。


「あ、ああっ、し、しずよっ! 静代! 静代っ!」


 叫ぶ。


 静代の存在を確かめるように、何度も何度も。声がかれるくらい。いや、枯れても良い。


 静代は目を細めた。そこにどんな感情が込められているのかは分からない。喜んでいるのか、悲しんでいるのか……俺を恨んでいるのか。


「兄さん……私の、兄さん」

「ああ、お前の兄ちゃんだ。安藤隆だ。……静代、会いたかった。ただ、俺はもう一度お前に……っ!」

「兄さん……私も会いたかったです。兄さん、貴方だけに、会いたかった」


 優しい、声。

 俺はそっと瞳を閉じた。


 ……静代は、死んだんだ。


 ほんとは、分かっている。だって俺は彼女の死体を見た。火葬場で焼かれ、細い崩れた骨も。

 静代が亡くなってから毎年、墓参りに行ている。俺は冷たい墓石に手を合わせた。


 だから、これはきっと――。


 瞳を開けると、そこには誰も居なかった。最初から、誰も居なかった。


 分かっていたのに。なぜ俺はこんなにも、悲しいんだ。床に水滴が落ちる音が聞こえた。ああ、俺は泣いていたのか。それで初めて気づいた。


「静代、お前が幽霊でも幻想でも良いんだ。お前は俺に、会いに来てくれたんだな。そう思っても良いか。いや、そう思っていたいんだ」


 窓がなく空気が通る道などないのに、風が頬を撫でた。

 慰めるように、いたわるように。 

 まるで静代が側に居るように感じた。

 頬に手を当てる。


「静代……」


 兄さん、と俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。


「――お前が、俺をこの場所(ストーンハースト)に連れてきたのか」


 答えは何も返ってこなかった。


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