↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖者の牢獄  作者: 桂太郎
第1章 悪夢からの目覚め
39/161

黄昏の讃美歌

 



 いつものように畑仕事を一通り終わらせ、礼拝のため先に戻るフランチェスコを見送った。

 俺は、ひとり井戸で汗を流す。冷たい井戸水が今は心地良い。


「Amazing grace! How sweet the sound! That saved a wretch like me! I once was lost, but now I am found Was blind, but now I see――」


 歌う。

 鼻歌混じりに。何とはなしに。

 低い声で旋律をなぞる。


 特に理由はなかったけど、歌いたい気分だった。

 その時、頭に浮かんだのがこの曲で。

 目を閉じる。

 柔らかい夕日が、瞼を通してぼんやりと射し込んだ。


「――Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fears relieved. How precious did that grace appear. The hour I first believed」


 そこまで歌うと一息ついて、水に濡れる髪を後ろに撫で付ける。


 パチパチと、後ろから手を叩く音がした。

 恐る恐る振り返る。


 そこには赤みがかった陽光に照らされたヨハンナが佇んでいた。

 歌を聞かれていたことに、恥ずかしさを覚える。決まりが悪くてそっぽを向いた。


「な、なんだよ。聞いてたのかよ」


「ええ、とても……素晴らしい歌でした」


「ぐっ、うるさい。……でも、そのありがと」


 恥ずかしいのに誉められて、嬉しくなる。我ながら単純だな、と思う。


 ヨハンナは、目を細めて優しげに微笑む。

 それから、俺の側まで近付いて、懐からハンカチを取り出した。濡れた頬を、そっと拭いてくれる。その女性らしい仕草に、不本意ながら胸が踊った。ハンカチから、良い香りがする。柑橘系の爽やかな匂いだ。


「そのハンカチ、だいぶ濡れちゃったな……」


「ああ、気にして頂かなくて結構です。好きでしたことですから」


 俺はハンカチを持つヨハンナの手を握った。それから、ハンカチを引っ張って奪い取る。


「馬鹿、気にする。これちゃんと洗って返すから」


「……っ」


 言葉を発しても返事がなく、不思議に思ってヨハンナを見る。只でさえ夕日に照らされているのに、さらにその顔を真っ赤にさせて固まっていた。


「おーい。ヨハンナ? ヨハンナさん? 大丈夫? 聞いてるかー?」


 顔の前で手を上下に振ってみる。

 ぺたり、と力なく手を叩かれて止められた。


 ヨハンナはぐっと唇を噛み、こちらを睨み付けてくる。それに合わせて長い睫毛が震えた。威嚇してるようだけど逆効果で、むしろ――――。


「――――可愛い」


 ヨハンナの息を呑む音を聞いて、俺は正気に返った。自分の言葉を反芻して、今度はこっちが真っ赤になる。


「あああっ! 今の、今のなし! 違うから、そんなんじゃないから! 俺にはアマルがいるから!」

「む、無論だ」


 ヨハンナはこくこくと何度も頷く。

 俺は赤くなった顔を隠すため、片手で顔を覆った。


 暫く気まずい沈黙が続く。


 それを破ったのは、ヨハンナの方だった。


「……そのような讃美歌、初めて聞きました」


「えっ? ああ、『Amazing Grace』のことか。この歌は元々船乗りが作った歌なんだよ」 


「船乗り……ですか?」


「うん。でもただの船乗りじゃない。奴隷貿易に関わる奴隷船の船長だったんだ。横柄な人柄で、強引に連れてきた奴隷を家畜以下に扱っていた。でもある日の航海で大嵐に遭遇し、船は難破しかける。その時、彼は初めて心から神に祈った。その祈りが届いたのか沈没は免れ、命だけは救われた」


 空を仰ぐ。

 黄昏の空が柔らかくこの世界を包んでいる。


「きっとその時思ったんだ。船乗りは自分の手が、どんなに汚れていたのか。自身が死にそうになってはじめて、その痛みを苦しみを、そして死を奴隷たちに与えてたことに気づいた。……自身の罪深さに気づいたんだよ」


 脳裏に礼拝堂で見たあの光景が浮かんだ。きっとあれはここで実際に起こった過去なのだろう。


「そうか……ならば、その船乗りは正しく幸福だ」 


「……ヨハンナ?」


「自身でその罪深さに気付けたのだから」


 ヨハンナは修道院に視線をやった。


「……私たちはいつになったら、それに気付けると言うのだろうな」


 その姿はとても不安定で、消え去りそうだった。

 止めろ。お前にそんな顔似合わない。ふんぞり反って、意地悪く笑えよ。


 ヨハンナは俺の顔を見て驚いたように、目を見開いた。


「そんな悲しい顔されては、困ります……」


「それは俺の台詞だ! ああもうっ、調子狂うな!」


「私、そんな顔をしていましたか?」 


「ああ、してた。……お前さ。真面目なのは良いけど、あんまり抱え込み過ぎんなよ。辛いなら、俺に言ってくれ。何もできなくても、一緒に悩んでやることはできるから」


 ヨハンナの手を握った。

 指は細いのに、掌は硬かった。野球好きの叔父が、このような掌をしていたのを思い出した。何かを長い間振るっていた者の手だ。


「黒殿は本当に……間抜けだな」


「なんだと!? 俺がせっかく心配してるのにだな」


 耳元で囁かれた。


「忘れたのですか? 私はあの方を殺すためにここにいるのですよ」


「……忘れてない。でも、お前はそんなことしない。1年間一緒に生活をおくってるんだ。それぐらい分かる。俺はお前を信じてる。ヨハンナだからこそ、信じてる」


「黒殿は本当に、ずるいお方だ。だからこそ私は……」


 日溜まりのように微笑んだヨハンナは、とても綺麗だった。


「歌って、頂けるでしょうか。その歌の続きを―――」


 そっと繋いだ手を握り返してくる。柔らかい口調で発せられた言葉に答え、歌を紡ぐ。



「――――Amazing grace!」



 それはなんて、素晴らしき神の恩寵。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。