東方から来る者
「……黒殿」
ヨハンナは俺の頬に手を添えて、そのまま顔を上に向けさせた。透き通る青瞳が、優しく俺を見詰める。全てを包み込んで、守ってくれそうな雰囲気。聖母崇敬をしている人々の気持ちが少し分かった気がした。同時に、一回り年下の少女にすがり付く自身の情けなさを痛感し心臓が軋んだ。
心の中で祈りを捧げる。これ以上ヨハンナに重荷が行かぬように。どうか、どうか。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。
深呼吸。
心を落ち着かせてから、区切るように言葉を発した。
「ヨハンナ、今、また俺は……」
俺が全てを言い終わる前にヨハンナが、まさか、と言葉を遮った。
「見えたのか?」
「あ、ああ。前とは違う記憶。でも、見えたんだ。それも……間隔が短くなって、どんどん具体的になっている気がするんだ」
「そうか……」
ヨハンナは浅く頷くと目を伏せる。何かを思案する仕草だった。たった数秒の沈黙。それが妙に長く感じられた。
「黒殿、話を戻すが先程の続きを聞かせていただけるだろうか。貴殿がどこからいらっしゃったのか」
「…………ずっと前に、極東にある島国から来たって話しただろう」
「ああ」
「それは嘘じゃない。でも、全てでもない」
次の言葉を紡ぐまで、時間がかかった。ヨハンナは何も言わず、静に待ってくれていた。
「ヨハンナ、俺は……」
声が震える。
本当に言っても良いのか。言えばもう戻れない。ああ、吐いた唾は呑み込めぬと知れ。ぐっと、唇噛む。
ヨハンナは無言で俺の手を握る。そして、柔らかく微笑んだ。その笑みを見て、すとんと心の錠前が外れ落ちる。自然と言葉が口から溢れた。
「……ヨハンナ、俺は未来からきたんだ。たぶん、ここからずっとずっと先の未来から」
「――――未来、から」
「ああ。……その、めちゃくちゃな話しだと思う。異端だと言われても仕方ない。でも、それでも、俺を信じてくれるか? いや、俺はヨハンナに信じて欲しいんだ」
「信じる。貴殿を疑うものか、と言っただろう」
即答だった。
「ぐっ……ふっ、ああ、あああ」
ぽろり、と。水滴が落ちる。次から次に、流れ落ちる。涙が止まらない。息が苦しい。でも、それ以上に心が軽くなる。
「そうか。未来から……黒殿は随分遠くからストーハーストにいらっしゃったのだな。お辛かっただろう。心細かっただろうに――」
握った手を引かれた。前に倒れる俺を彼女は受け止めるように抱き締めた。
「――――今まで良く、生きてた」
俺は頭を下げ、ヨハンナの胸に顔を埋める。ヨハンナはそれを静かに、受け止めてくれた。大きくて、柔らかい胸。その奥にとくりとくり、と鼓動が子守唄のように響く。まるで母の胸に抱かれているような安心感を抱く自分に気が付き、思わず苦笑する。
母の記憶などとうに擦り消え磨耗した。
どんな人だったのか。優しかったのか。怖かったのか。それすらも覚えていない。
俺にとって家族とは、静代ただひとりだった。きっとそれが全ての答えなのだろう。おぼえる必要がなかったのだ。
だからこそ、この温もりがどんなに尊いものなのか思い知らされる。
「ヨハンナ、信じてくれてありがとう。側にいてくれて、ありがとう」
それは私の台詞だよ、とヨハンナは囁いた。お揃いだな、と俺も笑う。ああ、お揃いだ、とヨハンナも微笑んだ。それは誰よりも優しい笑みだった。
暫くして、俺の心が落ちついたのを見計らったヨハンナは俺を胸からそっと離した。そして、真剣な表情で俺に問いかける。
「黒殿。東から来るものと聞けば何を思い浮かべますか?」
予想外の質問に思わず目を見開く。次から次へと展開が早くて混乱してしまう。でも、ヨハンナのことだ。この問いかけも重要な意味があるのだろう。
……東から来たもの、か。
「ええと、商人のイメージが強いな。香辛料や絹、織物、香料を売りにくる」
「そうですね。……しかし、もっと大きくて、毎日目にするものがあるでしょう?」
毎日、目にするもの?
顎に軽く指を当て、思案しているとバラ窓から注ぐ光の筋を目に入った。
「……あ、太陽か?」
「その通りです。東方から来るものは、何も人や物だけではない。日もまた東から昇るのだ」
「でも、それがどうしたんだ?」
「貴殿は光明……太陽なのです」
「俺が光、太陽? ええっと、それはつまりどういうことなんだ?」
「……貴殿は太陽の役割を与えられた者ということだ」
「ええと、余計に意味が分からないんだが?」
「すいません。いささか、説明が雑過ぎました。私が言う太陽とは、東方からの来訪者である『神代の英雄』のことだ。それは神に助けられ、竜蛇殺しを成し遂げた者」
「竜蛇殺しの英雄?」
いきなりすごい要素が飛び出てきた。まぁ、未来からタイムスリップも大概ぶっ飛んだ話だから人のことは言えない。
……それにしても、竜蛇殺しで有名な英雄、か。
以前、読んだ黄金伝説で書かれていた聖ゲオルギウスや聖書に描かれている聖ミカエル……は天使なので英雄ではないな。キリスト教以外の神話伝承は映画やゲームで見たことがあるような有名どころしか知らない。
八岐大蛇を退治したスサノオノミコトは日本神話か。候補から外して、と。後は、ジークフリート、ベオウルフ、ヘラクレス。
……ああ、そう言えば、俺でも知っている有名な英雄がいた。
「――――ペルセウス」
ペルセウスも神々から支援を受け、メデューサ討伐やケートス討伐を成し遂げている。
メデューサは蛇の特徴を持つ怪物。ケートスは海獣であるが、竜や蛇のような姿で描かれる絵画を見たことがある。
ヘラクレスやアキレウスほどの人気はないが、日本での知名度はそれなりに高いと思う。
「驚いた。英雄ペルセウスをご存知だったのだな」
ヨハンナは感心した、とばかりに軽く手を叩いた。おい、そんなに驚かなくても良いだろう。
「……ペルセウス、彼は英雄としてだけではなく太陽神の側面を持っている。その神格は一柱だけではない。ヘラスのボイポス・アポロン、ヘリオス。ローマのソル。ペルシアのミトラス」
ヘラスはギリシアのことを指す言葉らしい。ギリシアのことをヘラスと呼んでいるのは、ストーンハーストの中でもヨハンナぐらだった。
フランチェスコ曰く、「あっしらが言うギリシアはラテン語なんでさぁ。古き時代ギリシア人が自身の土地のことをヘラスと呼んでいたもんで、それを尊重しそう呼んでるんじゃねぇですかね」とのこと。
礼儀を重んじるヨハンナらしいと言えばらしいが、なんとも言えない。もしかして、ヨハンナはギリシアと何らかの繋がりを持っているのかもしれない。
思考がそれてしまった。
ポイボスがどういう意味か分からないが、アポロンはさすがに聞いたことがある。ギリシアの有名な神様だ。確か光明、太陽を司る医術と芸術の神様だったはず。
光明と言えば、俺のことを「私の光」とアマルは良く言っていたな。もしかして、これと関係があるのだろうか。それにペレグリヌスとペルセウス、どこか語感が似ている気がする。
……駄目だな。
あれもこれもと関係付けて考えてしまう。
落ち着く。落ち着こう。落ち着け。浅く息を吸って吐く。
ヘリオス、ソル、ミトラスのことはよく知らないが、ヨハンナが言うようにアポロンと同じく太陽神なのだろう。
それらの神格が習合され、ペルセウスという英雄が形作られたということか。
「ペルセウスは申し上げた通り、ミトラスと繋がりがある。ミトラスはペルシア。文字通り、太陽と同じく東方から来訪神だ」
そこまで言って、ヨハンナは俺を真っ直ぐ見詰めた。
「貴殿は東の島国から来たと言っていたな。また、黒殿は異邦人であり、貴殿が恋い焦がれる天を照らすのは太陽だ。ストーンハーストに来訪した時から、貴殿は英雄であり、神たり得る最低条件は満たしていたのだ」
「ええと、ちょっと待ってくれ。さすがにそれはこじつけがすぎないか?」
「いや、むしろこじつけで丁度良い。黒殿、実のところ神ほど曖昧で混沌とした存在はない。神は様々な顔を持つ、つまるところ混ざりものなのだよ。だからこそ、何者でもあり何者でもない。無貌であるがこそ、千の顔を持つ。それが神の『本質』なのだ。混沌故に、多少の齟齬は許容する」
「…………神の本質」
「貴殿が未来から訪れたのならば、ペルセウスの側面の中でも、特にボイポス・アポロンが強く反映されていると考えて良いだろう。ボイポス・アポロンは予言の神でもある。予言とは未来を詠む力。……故に、貴殿はどこからでも時を見通すことができる。過去にして未来、未来にして過去。こじつければ、時空さえ越える権能を持つ存在足り得るとも言える」
言っただろう?
多少の齟齬は許容される、と。
神は人がそうあれかし、と願ったからその性質を持った。逆もしかり。故に、貴殿もそうあれかしと、願えば良い。ヨハンナはそこまで言って、祈るように胸の前で両手を合わせた。
「全ては、貴殿の御心のままに」




