騒がしい夜
家族の言葉である。
それは、磨耗してしまった記憶の果て。
「――貴方たちは選ばれたのよ」
そう言って、母は目を伏せた。
「――役目を果たしなさい」
そう言って、父は目を細めた。
「――ひとつになり、全てを受け入れるのです」
そう言って、祖母は泣いた。
「――それこそ我らが運命」
そう言って、祖父は嗤った。
今や顔すら思い出すことも叶わない、家族の言葉である。
***
ああ、頭が痛い。
疼くような痛みで、意識が覚醒する。
ぼんやりとした視界に不快感を覚える。辺りは闇に包まれており、日が暮れていることを否応なし気づかされた。
……俺は、どうなったんだ。
横になっていた身体を起き上がらせて、手探りで自分の位置を確かめる。荒いリネンの布団。滑らかで生暖かい肌。小さく聞こえる甘い吐息。それを感じ、思わず息を呑んだ。
その時、月明かりが窓から差し込んだ。
光を追うように目を走らせる。そして、目を見開く。口が戦慄いた。目の前の存在に、脳内がショートする。
「ソフィア、さん」
隣にはソフィアさんが横たわっていた。……裸で、横たわっていた。そして、自分自身も一糸纏わぬ姿だった。
「俺は、まさかソフィアさんと、寝た、のか?」
言葉に出して、納得した。
部屋に充満する濃い女の匂い。不自然に湿った布団。ソフィアさんの白い肌を蹂躙するがごとく散りばめた赤い跡。全てが物語っていた。ああ、手込めにしたのだ。俺が、ソフィアさんを。どうしてそうなったのか、記憶が抜け落ちているが、言い逃れできない証拠が目の前にあった。
「――ふっ、くくっ、あはは」
酷く動揺している筈なのに、笑ってしまった。笑うしかなかった。楽しい訳ではない、嬉しい訳でもない。ただ、目の前の事実を受け止め切れないだけだ。……そうでなければならない、と思った。
どくり、と心臓が踊る。
まだ食べたいとでも言うように、躍動する。なんて、貪欲なんだ。お前は十分器を満たしただろう? これ以上何を望む。おぞましさを感じ、心臓を押さえる。これ以上、求めるな。これ以上、汚すな。これ以上、愛すな。
そうだ。そうならないために、俺は逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて……あれ、そして、どうなった?
「アマル」
彼女の名前を呟く。
会いたい。アマルに会いたい。
裏切った癖に、他の女を抱いた癖に、厚顔無恥にもただただ会いたかった。ベットから抜け出す。ぎしり、と軋む音がした。それにうすら寒い気持ちになりつつも、脱ぎ捨てられた服を床から拾い集め、ぎこちなく着用する。
それから、覚束ない足取りで歩きだす。床を蹴る音が石畳に反響する。
ひたりひたり。
静寂に響く。
ひたりひたりひたり。
静寂に、響く。
ひたりひたりひたりひたり、カラン。
――静寂に、響く?
クスクス。
誰かが笑った。
何かが嗤った。
雑踏が聞こえる。
静寂なのに騒がしい。
夜はこんなにも、騒がしい。
「ねぇ、振り向いて」
振り向けば終わりだ。それだけが分かった。それ以外分からなかった。目をぐっと閉じる。それは絶対に見ないという精一杯の意思表示。
「振り向いて、振り向いて、振り向いて……お願い、私は貴方が欲しい」
繰り返される言葉。俺はそれに答えない。本能がそうしてはならないと警鐘を鳴らしている。
「わたしを見つけて。わたしの名前を呼んで。わたしを愛して……」
耳元で囁かれた。
濡れた声音。聞き慣れたようで、聞きなれない声。どこまでも餓え、昴揚する心がその声に滲み出ていた。
息ができない。酸素が巡らず、血中の飽和度が著しく低下する。意識が遠退く。
死ぬ死ねる死にたい死死死死死死死死――――
――――死ね。
「ねぇ、わたしはだぁれ?」
最後に聞こえた彼女の声は、あまりにも寂しげだった。
***
「……アンディ様?」
名前を呼ばれた。目を開く。窓から夕日が差し込んでいる。視界にはベットに腰掛け、俺の顔を心配げに覗き込む少女がいた。思わず息を呑む。驚きからではない。途方もない罪悪感からである。
「あ、まる。おれは、俺は」
「アンディ様、大丈夫ですか? うなされていたようですが、怖い夢でも見てしまいましたか?」
「ゆめ、あれは、夢か?」
「ええ、夢です。アンディ様、とてもお辛そうでした。だから、起こさせて頂きました」
そうか。全て夢だったのか。巡礼棟に行ったのも、ソフィアさんを寝かし付けたのも、彼女を抱いたのも、全て夢だったのか。
そう思うと、肩の力が抜けた。良かった。俺はアマルを裏切ってなどいなかった。
「そうか。アマル、ありがとう」
「はい、アンディ様」
アマルの手を引いて、抱き寄せる。アマルは抵抗しなかった。それどころか嬉しそうに俺の胸板に顔を擦り付けた。いつものマーキング。ふんわりと、仄かな薔薇の匂いが鼻を擽る。
「アンディ様が私を見つけて下さったから、私の名前を呼んで下さったから、私を愛して下さったから……私は私でいられるのです」
「アマル?」
「アンディ様は誰にも渡さない。渡すものか。例え誰であっても、アンディ様に触れるなど許さない。貴方様だけが、私の光。私の全て。私の愛しい人」
アマルは顔を上げて、微笑えんだ。