三:ぐうたら魔王・降臨 前編
「魔王様、魔王様!」
リナさんは、部屋の扉を激しく叩いた。
先ほどまで暗い場所にいたせいか、普通の明かりが妙に眩しく感じて目をこする。
――およそ十分前
魔王城入口では、その名に恥じないエントランスが僕たちを出迎えた。
たくさんある客室から、リナさんは一つの客室の扉に手を置いて、手のひらから青い光を放った。
……思えば魔界の人たちは、僕たちとは仕掛けも雰囲気も全く違う、不思議な技を扱っていた。
扉が青い光で染まり上げると、それはゆっくりと身を倒し始めた。扉はまるで紙細工のようにぺったんこになったのだ。
そのままリナさんに案内され、ついていく。
振り返ると、そこは既に変哲のない壁になっていた。
それを何度か繰り返すこと数分後、僕たちは魔王様の部屋の前までやってきた。
聞くと、魔王の部屋への道はあえて迷路のようにしているらしい。
それは侵入者に、簡単に魔王の首を討ちとらせないためだとか。
「魔王様、ご客人です!」
リナさんの必死の声が、魔王に届いたのだろうか。
部屋の中からけだるい声が聞こえてきた。
……魔王らしからぬ、威厳も何もない眠たげな声だ。
「入っていいんですね? では失礼します!」
一応、と言わんばかりに彼女は扉の前で深々とお辞儀した。
リナさんがそろりと扉を開けると、その全容が明らかになった。
「まあっ!」
口に手のひらを被せ、リナさんは固まった。僕からの目線では、彼女の背中で魔王の部屋の様子が見えない。
そこまでリナさんが驚くなんて、一体……どんな部屋なのだろう?
彼女の背中から顔を覗かせて、魔王の部屋を凝視した。
手触りのよさそうな、赤い斑模様の絨毯には、何をしていたのか……紙が散乱していた。
奥にはテラスへと続く大きな窓があり、魔族側からしてみればいい眺め……かもしれない黒い大地が楽しめるようになっている。
テラス窓の近くにある黒いウッドデスクは、引き出しが何段にもかけて開けっ放し。
いかにもお金持ちそうな、天蓋つきのベッドの上にその魔王は肘をついて寝ころんでいた。
海を連想させる色合いの髪が背中まで覆い、けれどしっかりとした骨格が女性ではないことを物語っている。
その翡翠色の瞳は特に暗い感情を映さず、むしろ反省の色が見えないほど、生き生きとしていた。
彼は肘をついて、ポテトチップをポリポリと食べている。
僕の存在に気がついていないのだろうか、ベッドの上は食べかすで汚い。
「ま、まま、魔王様! なんとだらしのない!」
「ん……おー、リナかー。あ、ここ掃除しといて……もぐ」
リナさんの方を見ることなく、魔王が告げた。この光景には、僕も頭が痛い。デュベルも『だろ?』とだけ言葉を残した。
「ま、魔王様!」
「言っとくけど、ちちう……親父みたいにはなれないから!」
「けど、お部屋から出るくらいはできるのではないでしょうか?」
リナさんの苦労がわかるほど、魔王の心は荒んでいるようだ。
お菓子の手を止め、勢いよくベッドから飛び起きて力強く絨毯を踏み荒らした。
「もう、いい加減にしろよ! リナだってわかんだろ!」
「……ええ、それはもう十分に」
申し訳なさそうなセリフを気にも留める様子はない魔王は、自らの主張ばかりを訴えた。
「デュベルには嫌われる、統率力もない、仲間はみんな死んじまったし、残った一部のやつらだって、俺のことを誰一人として崇めてくれないし!」
『別に嫌ったわけじゃねーけど。お前の実力不足な』そんな彼を完全に否定する魔剣の言葉は、どうやら興奮する魔王には聞こえてないらしい。
……聞こえてなくてよかったけど。
「ふう、ふう……誰だよお前! 侵入者かよ! なんでデュベルを従えてんだよ!」
「ええっ」
頬を膨らませる魔王の怒りの矛先が、唐突に向けられた。
僕と全く同じ背丈をしているせいか、確かに魔王の威厳も何もありはしない。それどころか言動にすら自立を見られなかった。
魔王がウルウルとした目でこちらを睨みつけてくる。
なんでって言われても、成り行きです……? こういうときは、なんて返すのが正しいのだろうか。
そう考えようとした刹那、デュベルが魔王に向けて言葉を突き刺した。
『おいボンクラ。こいつはお前より素質があった、それだけだ』
「な……っ!」
ぐうの音も出ない、あまりに正直すぎる言葉に対し、彼は僕の体をなぜだか嗅ぎ始めた。
僕って……臭いのかな。彼に次いで、僕は僕自身の臭いを確認する。
「こーんな、人間に素質があったの?」
『おうよ。まあ、仮にお前がオレを手中に収めたとして……性格見てもわかるぜ。冷静になれないお前には無理だ』
「む、むむむうう……っ」
「デュベル、それはさすがに言い過ぎだよ!」
『……先代は、よかったよ。今のお前じゃ人間は殺せないし、調教しても無駄さ』
刃からの、容赦のない言葉の刃が魔王の心に深く傷を負わせた。
ぼろ、ぼろ……大粒の涙が彼の頬を伝う。いくらなんでも、言い過ぎだ。
「って、いつから僕が人を斬る前提になったんだよ! 刃も振るったことないのに……いやいや、そもそも人は傷つけないからね!」
『大丈夫。立派な魔剣の主になれるように、調教してやるからよー』
カタカタ、鞘の中で小刻みに振動しながら、内容はえげつないことを告げた。
……うん、デュベルは立派な魔剣だよ。
「あ、ああー! フィル様!」
途端、リナさんが大声を上げた。
「お風呂はいかがでしょうか? もうそれはそれは、立派なお風呂がございますよ!」
話題を変えるためだとはいえ、いくらなんでも無理矢理だけど……。
僕は激しく頷いて、一刻も早くこの状況から抜け出すことにした。
デュベルを魔王から引き離すためにも……。
「お風呂の場所は、デュベル様がご案内しますから! ああ、脱衣所にデュベル様を置いてくださいね、あとあと……お着換えの方も、おせっかいながらご用意させていただきましたのでー」
彼女は軽くウィンクして僕に合図を送った。
……デュベルのことを頼む。僕にはそう聞こえた気がした。
「でで、ではお言葉に甘えて!」
胸元にガッシリとデュベルを抱きしめ、泣きじゃくる魔王から離れるように駆けた。今だから言うけど……。
「あんな魔王で、大丈夫なの?」
『大丈夫じゃねーから説教したんだろ! なんだい、なんだい。オレばっかり悪者扱いかよ』
「ああ、そうじゃなくて……」
剣なので当然ながら表情は窺えないが、デュベルがすねているのは見て明らかだった。
デュベルが悪いとか、そういうんじゃなくて。
……ううん、この魔剣に「もう少しまろやかに伝えた方がいいよ」って言ったって、きっと無駄だろうなあ。
僕が怒鳴られる姿が見えている。
「デュベル」
『あー、わかってんだよ。……オレだって』
僕の言おうとしたことを理解したのか、デュベルは自らのことを喋り始めた、
『先代は減らず口を言ってもオレを責めなかった。ほとんど先代の力なのによ、オレが人を斬るとホメてくれんだぜ。もっとあの人のために役に立ちてえ……感動と興奮で刃先が震えたよ』
「……だから、今の魔王に納得がいかないんだね」
『ああ。ぼっちゃんは人魔戦争で先代を亡くしたんだ。ショックがでかいのはわかるが、それを糧にして魔界復興してもらわなきゃ困るんだよ。オレたちは今、滅亡の一歩をたどってるんだよ。ぼっちゃんのせいでな』
愚痴るデュベルからこぼれてきたのは、どれもこれも魔界の将来を心配する言葉だった。
一部のやつらは襲撃を恐れて出てこない、一部のやつらはボイコット、一部のやつらはテメェ自身で魔界を破壊し……。
そう語ったデュベルは一息を置いて、告げた。
『そんなわけで、ぼっちゃんが魔王として周りを奮起させるしかねえんだよ。周りが躍起になっている今……オレらに未来はねえ』
「デュベル、いろいろと考えての発言だったんだね」
僕が笑顔を向けると、デュベルは唐突にカタカタと激しく震え始めた。
……あれ、僕、なんかおかしいこと言ったかな?
「デュベル……?」
『ば、ば……バカヤロウ! 考えてねえし、あんなボンクラのことなんてよおお!』
「うわあ!? ちょ、デュベ……っ!」
デュベルが鞘の中で大きく刃先を震わせながら、僕の腕の中で暴れ始めた。
生きた魚を抑え込むように、急ぎ足でお風呂に向かった。
――「あつっ! 料理中のナベじゃないんだから!!」
――『あんなボンクラ、調教する価値もねえし! 心配なんてするわけねえし!』
「はああ……あったまるー……」
誰が聞くわけでもないけれど、独りでに声を零した。
――魔王城のお風呂は、僕が想像していたのよりもずっと、広かった。
僕がちっぽけに見えるほど、大きな浴槽だ。
これは僕の想像だけれど、きっと……昔は魔族がみんなで、仲良く入っていたんだろうな。
目を閉じると、楽しそうな魔族たちの姿が想像上で繰り広げられる。
僕がもしも人魔戦争に生きていたら、どうしただろう。
人間側だとこういう事実すらも知らなかっただろうし、魔族側だと皆と同じように人間に対して憎しみを感じていたのだろうか。
湯気が僕の体を芯まであっためる。今日、色々とありすぎた体をもみほぐしてくれるように、気分も心もとろけた気分になった。
「誰かがやらなきゃ、魔界に未来はない、か」
「ほーんと。どっかの魔剣使いさんがやってくれたらありがたいのにねえ」
「ははは、デュベル。僕には荷が重すぎ……って!」
驚いて身を引いたのと同時に、激しく湯舟が叩かれ音を上げた。
僕の側では長く綺麗な青い髪が湯舟にちゃぽんと浮かんでいた。
「ま、ま……魔王様!?」
あんなに泣き叫んでいた魔王が、なぜか僕と一緒にお風呂に入っている。
い、いつの間に。そう訊ねようと口を開いた。
しかしそれを遮るように、魔王が僕を見つめて告げる。
「その魔王様ってのやめて」
「え?」
「エクス。俺の名前だから」
「……エクス、様?」
「様もいらないから!」
そう力強く言い放った。
「じゃあエクス。どうして僕に名前を?」
「お前なら、俺の代わりにやってくれそうな気がするから」
とことん他人任せだなあ……。
むすっとした顔で、エクスはそっぽを向いた。どうして、この子は魔王としての役割を全うしたくないのだろうか。
本当に、素質が無いからってだけなのだろうか。
「デュベルがいれば百魔力だから。俺はデュベルに嫌われてるから」
「……僕にも無理だよ」
エクスは僕の方を少しだけ見つめ「うそばっかり」と小さく発言した。
口元をお湯に沈ませ、ぶくぶくと泡立てる小さな魔王。顔半分だけ出ている様は、周りに浮かぶ長い髪のせいもあってか蛇女に見えてしかたない。
「エクス。デュベルも心配してるよ」
「ぶくぶく……ぶりだんだよぼれには」
「どうしてそう思うの?」
「ぞれば……ぼかのやづにぎげばばや……ぶくぶく」
エクスはそれ以上、自分の口から語らなかった。
きっと彼にも、誰にも言いたくない事情があるのだな……ひたすら魔王が泡立てる細かい気泡を、僕はしばらくの間、見つめ続けた。
「ぷはあ!」
「ぶわっ」
ザパァ、唐突にエクスが顔を上げて、お湯しぶきを浴びた。
「デユベルを従えているお前ならできるよ。だってデュベルはすごいんだぞ!」
こおんなに、と大きく手を広げて動作した。
その姿は、彼自身もデュベルのことを嫌ってない証明になっている。
「何十人に囲まれたって、ものともしないんだ! 親父が凄かったのもあるけど。でも、あの時……あの日の光景は、忘れられないよ」
エクスの表情に、だんだんと陰りが見えてくる。それでも、彼は僕のために言葉を振り絞った。
「親父はずっと笑ってた。死ぬ間際までずっと。デュベルの動力……赤い宝石を壊されそうな時も、必死に覆いかぶさって護ってた。かっこよかったな……傍から見れば無様でも、俺にとっては英雄よりも輝いて見えた」
僕は静かに相槌を打った。
「でも俺はデュベルに触れることができなかった。触ろうとしても、バチバチっ! て、痛みが走るんだ」
自分の小さな手の平をみつめ、魔王は口角を上げる。
「だから俺には無理なの。他のやつも、きっと思ってるからさ。理由は他のやつに聞いて」
「わかったよ、そうする」
僕の受け入れに安堵した様子を見せた魔王は、静かに湯舟に沈んでいった――。
「ぷーっ!」
「わっぷ!?」
……刹那、彼の口からお湯が発射された。
「今の話は内緒な! リナにも、デュベルにも!」
無邪気に笑い、大きな声で言った。まだ出会って間もないけれど、魔王からは数多の感情が飛び出した。
感情豊かな子なんだな。だからこそ、誰にも見てもらえない理由がわからない。
嬉々の表情で風呂場を後にするエクスを、追いかけるようにして僕も上がった。