ルビについて考えてみた
私は登場人物がカタカナでない場合はルビを打つようにしています。最初の登場一回目くらいに。といっても、初期作品には確かふっていなかったような気もします。
あとは、中学生ぐらいが読めないかもしれないと思うものを基準にして、ルビをふります。もちろん、毎回ではなく一回目くらいに。場合によっては途中経過で打つこともあります。単に読み返していて初出がわからなかったからですが。
ルビに拘る必要はないのだと思いますが、昔、国語の先生がおっしゃっていたことが未だに心に残っているせいでしょう。
先生曰く
『古い本を読みなさい。必ずルビがふってある。辞書を引かずに読みを覚えることができる。読み方を覚えていれば辞書は引きやすくなる』
確かにその通りでした。古い本にはルビが多いのです。最近の本のルビは、作者が意図的に漢字そのもののルビではなく、その世界観を作るための手法として使っていることが多いと私は思います。それはそれで、面白いのでいいと思います。ファンタジーなら言葉の響きで雰囲気ががらりとかわりますし、特別な言葉として使われている場合もありますから。
では、文学として書かれている場合はどうでしょう。私はできる限り、正しい読み方をしてもらうためにもルビを打つ必要性があるのではないかと思います。すべてではなく、これは中学生は読めるだろうかと考えて打つ。私の基本姿勢でもあります。もちろん、そんなことしなくても読めるよという中学生の方は多いでしょう。それはそれでいいのです。折角、若い方が読んでくださるのに漢字が読めなくてテンポが狂って途中で読むのを止めてしまわれたら……。自分の作品が可愛そうな気がするのは私だけでしょうか?
作品を書くからには、当然、読んでほしいという気持ちがあるわけですよね。私には作品の内容が魅力的なことだけで読ませる力量はありません。なので、それを補うべく、文章のテンポを重視しています。そのテンポを一つの漢字で狂わせてしまうのは、なんだかとてももったいない気がするのです。
ただし、ルビの多様が足をひっぱらないとは言えませんので、そこの匙加減が難しいのも、また事実です。