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龍の棲む丘

作者: 陸戦型稲葉

 淡い金色の太陽が傾くにつれて、毛賀沢川の深い谷から、染み入るような寒風が這い登ってきた。

 伊那谷に冬の気配が深まりつつある。


 この年、永正三年の九月であった。


「暦の上では未だ晩秋であるのに、しかし季節は疾うに秋を忘れたようだ」

 古拙な和歌を詠ずるが如き口調で呟いたのは、細面の顔に武人の趣を潜ませた老爺だった。否、老爺とは些か正確さを欠いている。銀灰色の髪と眉に、皺の多い肌をしてはいるが、その男は未だ六十を過ぎていない。

 木々の梢が死に絶え赤錆色を纏い、晴天も曇天も共々に鮮やかさを失って灰霞の薄絹を被る。伊那郡松尾城の冬は、いつの年も陰鬱だった。その主、松尾城主の座に在る小笠原左衛門佐定基もまた、同じように物憂げであった。

「しかし、父上は秋を忘れてはおりますまい」

 言葉を挟んだのは、定基の嫡男・弾正少弼貞忠である。

 もうじき三十を迎える若々しい相貌に、外見の印象とは裏腹な厭悪を潜ませていた。端正で彫りが深く、目鼻立ちの際立った面差しは、内包した嫌悪感を翳に変えて、貞忠の纏う気色をひややかなものに見せていた。

「ほう、おまえも左様な冗談を申すようになったか」

 喉の奥で笑って、定基は息子をからかった。素直な子供であった頃そのままに真面目な青年に成長した貞忠を、定基は可愛がっていたが、しかし、生真面目すぎて冗談も風雅も通じない所はつまらないと思っていた。みやこ風の文化は、鄙にあって雅を求める定基の愛好するものだったが、一方で、嫡男は生粋の武将であるらしい。無論、それは南信に威を張る小笠原家にとって、好ましい気風ではある。

「かつては敵として戦を繰り返した相手でしょう」

 父のからかいを聞き流して、貞忠は言った。定基の手にある書簡を見遣っての言であった。

 苦言、と言い換えてよいかもしれない。

 彼の言うとおり、定基が眺めているのは、隣国駿河の守護である今川修理大夫氏親、その家臣・伊勢早雲庵宗瑞からの状だった。今川家の援軍として、三河へ兵を出して欲しい、と言う。

「飽きぬは儂ではなくて今川よ。確かに昔の職権ではあろう。だが、ようも諦めぬ。遠江守護職の回復が左程の大事とは、儂には思えぬがな」

 今川の三河出兵は、現在の遠江守護である斯波左兵衛佐義寛の勢力を遠江から駆逐し、守護の座を武力で奪還するためのものだった。かつて今川家が保有し、しかし途上でそれを失った遠江守護識と領地の回復は、今川家の悲願と言っていい。今川の軍団は決して脆弱ではないが、駿河一国の守護である今川と、越前・尾張・遠江の三ヶ国守護であり、幕府三管領家の一つでもある斯波とでは、そもそもから力量に差があった。奪還と一口に言っても、そう容易く取り戻せるものではない。現に、氏親の父・義忠も、遠江回復の為の戦で命を落としている。

「その今川家を、遠江を冒す外敵だと尾張殿(斯波義寛)は言いました。合力を請われ、兵を発し戦ったのは事実。戦の禍根を忘れるほどの年月が過ぎたとは、おれは思いません」

 貞忠が「かつては敵として」と言ったのは、文亀の頃に斯波家から請われて出兵し、遠江国の二俣や蔵王で今川勢と競り合った経緯があるからだった。もっとも、小笠原家に今川家を敵視する理由は無く、斯波家を支援したのは利害からであった。そも、小笠原家・斯波家と一括りに評しても、各々に複数の分家を抱える複合体である以上、松尾小笠原家と斯波武衛家、深志小笠原家と斯波武衛家の繋がりが、そのまま小笠原家や斯波家の総意であるとは言えない。

 直線的な貞忠の物言いに、定基は小さく笑いを漏らした。

「実際に兵を出したは深志の右馬助(小笠原貞朝)であって、儂やおまえではない。まあ、それは小事だよ。当時と今では立場や勢力図も変わろう。明応の政変の折には、斯波とて陣営を変えておる。まして、この松尾は国境に近い。情勢に応じて立ち回らねばならぬ」

(それが父上の言い訳……否、建前か。一体、何を目指しておられるのだ、父上は……)

 貞忠は懸念する。定基のやり方は、勢力拡大や国力増強のためとは、とても思えなかったのだ。何処を目指して戦っているのか、何を得ようとして多くの大名と交誼を結ぶのか、目的の見えない定基の思想は、貞忠に深い不安を齎した。

「……今川は、我らを敵視してはおらぬのでしょうか。それとも、我らの合力を請わねば立ち行かぬ程、苦しい立場なのでしょうか」

「さてな。どちらにせよ、波乱なく同心できようはずもない。だからこそ、伊勢早雲庵は当家の右馬亮(関春光)と同族だと言って捻じ込んできたのであろう。理屈としては些か弱い。だが、弱かろうと理屈は理屈、通っておる。公儀の書面上においてそう申しておる以上、今川内部でも理屈として罷り通ったのだろうよ」

 定基は、今川家から書状が届いたこと、かつての敵対勢力に支援を請うたことをそう判じたが、一方で宗瑞が義寛と同じ視点をもって松尾の助力を請うたことを察して、侮り難しとも評価していた。

 信濃の南半・伊那郡に威を張る松尾小笠原家。木曾谷の木曾氏と厚誼を結び、自身の拠る伊那郡と木曾郡、および美濃・遠江・三河の国境の交通路を掌握している。

 その状況を鑑みれば、東海道に属す駿河今川家が小笠原の兵力に拠ろうとするのも頷ける理由だった。

(だが、今川殿や伊勢殿、斯波殿ら周辺国の守護が我らに目を付けたのは、それだけが理由ではあるまい)

 貞忠はかすかな戦慄と共に、そう考えた。氏親や宗瑞の真意とは別の話である。

 おそらく、最大の事由は明応二年に遡る。信濃において、看過すべからざる事件が起こった年だ。

 明応二年正月四日、小笠原政秀死す。

 戦死や病死、老死ではない。彼は定基に殺されたのだ。

 政秀は定基の従祖父いとこおじに当たる。鎌倉の草創期、弓馬四天王に数えられた小笠原家初代・二郎長清。偉大な長清と並び立つ将星と称されるのが、応永から嘉吉の乱世に信濃守護職を保持していた治部大輔政康だ。その子、五郎宗康と六郎光康は、ともに伊那松尾館で生まれた。優れた兄弟であったと貞忠は教わった。

 宗康の子が政秀、光康の孫が定基である。

 なぜ、定基は政秀を殺したのか。小笠原宗家の家督継承について争い、定基の父・家長が政秀によって討たれたのは文明十二年のことである。その遺恨があるかと思いきや、定基は格別に政秀を恨みもせず、憎みもしなかった。小笠原の男にとって重要な通過儀礼である糾法の伝授を、定基は政秀に師事することで済ませてもいる。政秀の死後、すかさず領有した伊賀良庄が欲しかったのかと思えば、特に執心する様子も見せず、国外の人々との交流に明け暮れる。

定基は、終ぞ政秀殺害の理由を貞忠には語らず、また、貞忠の目には政秀が死ななければならない理由も、まったく見えなかった。

 だが事実として、政秀は死んだ。言い換えるならば、将軍により任命された守護が一介の国人に殺されたのである。

(それでも、公方様からの書状は変わらず届いた。左京大夫(政秀)殿は、半国とはいえ、正式な信濃守護だったはずだ。公方様任命による守護を殺したとあらば、それは公方様の意向に叛くことに他ならぬ。弑逆の賊だとか、不忠者だとか罵られて討伐されても不思議は無いのに、おれたちは今もこうして大事無く生きている。だとしたら守護とは何なのだ。左程に軽い存在であらば、弑して罰されぬことに得心もいく。だが一方で、尾張守護と駿河守護が遠江の守護職を争っている。甲斐守護は内訌と内乱で自国を荒らした。守護とは、いったい何なのだ。その名称が騙りにもならぬ、ただの騒擾の種ではないのか。そうであるならば、何の故あって守護職に固執せねばならぬのだ)

 貞忠には、定基という人間は、ひどく恐ろしい怪物に思えた。その姿を目に映しているだけで、背筋をうすら寒い震えが這い上がる。その声を耳にするだけで、鍛えたはずの体躯が総毛立つ。その眼差しに見据えられたならば、蛇に睨まれた蛙の心境を痛切に感じられた。彼の思考を理解する事も、共感する事も、信用する事さえ出来なかった。信濃国守護たる従祖父をいとも容易く殺害した、それと同じ容易さを以てまた嫡男を殺さないと、どうして言い切れよう。貞忠は常に、自らの生命が実の父親によって絶たれるという悪夢に、脅かされ続けてきたのだ。

 だが、周辺国の守護たちには、定基という怪物は全く別の存在に見えているのだろう。守護を殺害し、守護に匹敵する軍事動員能力を持ち、幕府・将軍との繋がりもある。血筋は鎌倉幕府草創から続く名家。その武力もまた折り紙つきである。これを利用出来るのであれば、利用するほうが賢いのだろう。

(父上は、果たして分かっておられるのか。利用価値があるうちは、誰もがおれたちを頼りとする。しかし、用が済めば一変、脅威として認識されかねない。伊勢早雲が右馬亮を介して連絡してきたのも、同族だからというだけの理由ではない。右馬亮が伊勢の一族であるのは事実、ならば右馬亮が伊勢一族と結託する可能性もあるのだ。それは交誼などという生易しいものではない。今川家による切り崩しの工作に他ならないではないか。遠江守護職の回復と領地復旧という望みを達した後の今川家は、小笠原家の影響力を快く思うはずがない。小笠原家が今川領国を脅かさぬという保証を得るために、確実におれたちの力を殺ぎに掛かろう。一度音信を通じてしまったならば、所領を接するおれたちには、その攻撃から逃げる手立てなど無い。攻撃されぬためには、係わり合いにならないことしか、すべは無いのだ。今川家を圧倒しても、今川家に匹敵しても、あるいははるかに劣るとしても、その視野に存在する以上、攻撃の対象として残り続けてしまう)

 貞忠の不安は、被害妄想などではない。今は乱世なのだ。武力と権力と財力で望むものを奪う、野蛮な風潮が蔓延る乱世であるのだ。ならば、ひとたび関係を持った小笠原家と今川家が、この先ずっと平穏無事な関係を保ち続けられる可能性など、無いに等しい。今川家は、氏親と宗瑞は、軍を用いて悲願を達する道を選んだ。その時点で既に、貞忠は今川家を朋友と恃む事は不可能だと判断していた。

 苦い顔で黙り込んだ息子を見遣って、定基は低く掠れた声で笑った。

「おまえはどうも、難しく考え過ぎるようだな。つい先程、儂は言ったぞ。斯波殿に味方して出兵したのは事実、しかし当時と今では情勢が違う、と。おまえが何年先のことを心配しているかは知らぬが、先の心配なら幾らでも出来るのだよ。そして、そのほとんどは杞憂に終わる」

「……先の心配は無駄だと仰いますか」

「そうではないよ。何でも白と黒で考えるな。儂が言うのは、要らぬ心配は無用だということだ」

 呆れと苛立ちが混ざり合った口調で言い、定基は続けた。

「現時点で、今川に小笠原を敵とする意図は無かろうよ。支援要請は、遠江復旧と自身の勢力増大に必要であるから、といったところか。必要だから隣国の人間に助力を求める。そこまでは良い。では、用が済んだ後、小笠原と如何に付き合うか。さてそれは分からぬ。仮に、無事遠江の守護職を得られたとしよう。その過程で伊勢早雲庵が格別の働きを成したとする。功績に対する褒美として、早雲庵は領地の拡大を求めるかもしれぬ。修理大夫はそれを容認出来ぬ。早雲庵は事実上、駿河の守護代だ。守護代が力を増せば、守護の権勢が脅かされる。はて困った、働きに対して褒美が貰えぬのであれば、いっそ自分が立って一大勢力を成そう。……どうだ、六郎。この場合であれば、修理大夫もしくは早雲庵が我らに再びの支援を求め、我らは両者の共倒れを企図することも叶うぞ」

 定基は貞忠を若名で呼んだ。定基がそう呼ぶのは息子をこども扱いしている時だ。貞忠は心中で歯噛みする。噛んで含めるような例え話といい、どうにも割り切れない苛立ちがあった。自分が政治向きの性分ではないと頭で解っていても、である。

「父上の仰せられたいことは分かりました。今の仮定が実現する可能性はまず無いでしょうが、余計な心配をすべきでないことは理解しました」

 声を荒げたい衝動を堪え、答えた。自然、言葉も抑揚も、棘を含んだ皮肉気なものになった。

「ふ、ふふ……そう拗ねるものではないよ。おまえには、まだ場数というものが足りぬのだろう。十年も経てば、いま少し世を斜に見ることもできような。しかし、年経た早雲庵はまだしも、おまえと左程変わらぬ齢の修理大夫が、随分と年寄りじみた判断をするものだ」

「何のことでしょうか」

「ずっと話題に上せておるだろう。此度の支援要請の話だ」

 手にした書状をひらりと振り、定基は虚空を眺めて眉を寄せた。解せぬと思っているのだろうか。

「一口に合力、同心と申しても、そうそう簡単に無心することは出来ぬ。今川家中にも、大勢力は幾つもあるだろう。小笠原との連携を危惧する者も、少なからず居るはずだ。意見を調整したのは、あるいは早雲庵かもしれぬ。しかし、小笠原方の窓口に右馬亮を選んだのは、おそらく修理大夫本人であろう」

「何故、そう思われますか」

「敢えて弱い理屈を持ち出したことだ。伊勢と関が同族だと言うのが先方の申し分だが、これが分からぬ。外交であれば、屁理屈でも何でも、兎に角理屈を通さねばならぬ。そして、使者の口上と違って、書状は形を持ち後世に残る。だから、どうでも形はつけねばならぬ。そこまでは良し、が早雲庵の正室は小笠原の一族だ。既に嫡男も生まれたと聞こえる。ならば嫡男の血統の半分は我らと同じだ。何故その事実を理由として持ち出さなかったのか」

「では、今川の真意は別にある、とお考えですか」

 訝しげに問う貞忠に、定基は曖昧な微笑で首を振った。

「さて、さて……それは未だ判らぬ。この修理大夫というのは、なかなかに難しい男でな。おまえより三つ程年上であったか。幼い頃から波乱続きで、幕府から伊勢早雲庵を派遣されて乗り切ったが、しかし傀儡になったわけでもない。早雲庵は早雲庵で、修理大夫を操る黒幕になる訳でもなく、巧妙に今川家中に入り込んだ。足利茶々丸の件は、おまえも承知していよう。修理大夫も早雲庵も、ともども実に巧く立ち回っておる」

 足利茶々丸の件とは、八代目将軍足利義澄の命令による、伊勢宗瑞の伊豆討ち入りのことだ。鎌倉公方・足利成氏が幕府に叛き、将軍の下命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて、これを占領。成氏は古河城に逃れて幕府に対する反抗勢力となり、古河公方と呼称されるに至る。関東管領上杉氏は幕府方であり、古河公方と激しく戦った。いわゆる享徳の乱である。

「確か、堀越公方の世嗣についての係争でしたか」

「さよう。先の享徳の乱で空位となった鎌倉公方の後継に、公方様の庶兄である左兵衛督(足利政知)殿を送り込まんとしたが、古河公方勢に阻まれて伊豆国・堀越に留まった。『堀越公方』とは、さぞ屈辱的な呼称であったろうよ」

 享徳の乱に始末をつける為、将軍たる弟に呼ばれて還俗し、争乱の只中に送り込まれた政知の存在は宙に浮いた。鎌倉公方となるはずの身は堀越から進めず、意に反し堀越公方と呼ばれて伊豆一国を支配するのみとなる。この件において政知に罪があるわけではなく、聞く限りは哀れであった。

 しかし、我が身の不運を嘆き涙に暮れるのは、政知の性分ではなかったらしい。

 政知には茶々丸という長男がいた。その下に正室との子が二人いる。茶々丸の弟で、正室との一人目の男児が潤童子、その弟を清晃という。清晃は出家して京に在った。政知は、勢力挽回の為に、日野富子や管領細川政元らと連携して、この清晃を次期将軍に擁立しようと図ったという。

「又聞きだがな、この計画に関与した者として伊勢と今川の名が見えた」

 定基の口振りは、自身その噂を信じかねているふうだった。

「清晃は公方様の若名……ということは、彼らは公方様との強固な繋がりがあることになる……」

「いや、噂は噂、信頼できるものではない。だが、火のない所に立った煙でもあるまい。事実か虚実か、どちらであるにせよ、当時において今川と伊勢は侮り難い勢力だったという事だ」

 事態が動いたのは延徳三年。政知が没すると、家督継承の順序から外された形になっていた茶々丸が、政知の正室と弟潤童子を殺害。堀越公方足利家の跡目を強引に継承した。さらに明応二年四月、管領細川政元が十代目将軍・足利義材を追放した。明応の政変である。政元は清晃を室町殿に擁立した。実質上の将軍に迎えたのである。清晃は還俗して義遐よしとおを名乗った。

 権力の座に就いた義遐は、母と兄の敵討ちを伊勢宗瑞に命じた。幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸と近い位置に城を持つ宗瑞は、格好の人材だっただろう。期待に応え、宗瑞は伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。これが伊豆討ち入りと言われる軍事行動の端緒である。しかし、茶々丸は宗瑞の手を逃れ、居所を転々としながら反抗する。

「おれにはいまひとつ理解しかねるものですが、何故、早雲は速やかに茶々丸を討伐しなかったのでしょうか」

「長享の乱からの上杉氏の対立に介入したり、甲斐で武田と戦ったりした件を言っているのならば、それは政り事を考慮した結果であろう。これは伊勢早雲庵個人の意志に基づく行動ではないのだよ。明応の政変によって生じた、公方様と前公方様という、二陣営の対立に関わる行動なのだ」

「それは分かります。しかし、伊勢自身の意志でないことが茶々丸を見逃す理由になり得るのですか」

「少し違うな。茶々丸という、反逆者の首魁を討つのは最終目的だ。早々に達成してしまっては、己の属する陣営を利用し続けることが叶わなくなる」

 明応の政変は、足利義澄―細川政元―今川氏親―伊勢宗瑞の義澄陣営と、足利義稙―大内政弘―足利茶々丸―武田信縄という義稙陣営の対立構造を作り出した。氏親と宗瑞に与えられた命令は足利茶々丸の討伐であり、それが義澄陣営の意志であるならば、氏親と宗瑞は茶々丸討伐の大義名分のもとに、義澄陣営に属する諸勢力の支援を期待できる。そして、命令から逸脱しない範囲で自らの勢力を伸張することも可能なのだ。この支援は茶々丸が生きている限り有効であるものの、あまり長引かせては周囲の反感を買うことになる。伊豆に攻め入ってから茶々丸を討つまでの五年という時間は、宗瑞にとって必要な時間だったのだ。その五年の間に、宗瑞は扇谷上杉定正に援軍を請われて出兵し、荒川において山内上杉顕定と対峙したし、また義稙陣営の一翼である武田信縄と甲斐で戦った。敵方の武力を削るのみでなく、義澄陣営に属していた相模小田原城の大森藤頼が義稙陣営に寝返った際には、これを討って居城・小田原城を奪取している。

 宗瑞が茶々丸を捕捉したのは明応八年。伊豆の深根城においてこれを討つ。義澄陣営の目的は達されたものの、宗瑞と氏親は便利な大義名分を失った。更に、山内上杉顕定による離間策で、宗瑞らは義澄・政元から切り離され、政治的な立場も弱くなってしまった。

「管領細川殿の勢いに乗って支配域を拡げようという目論見は、ここにおいて頓挫したといっていい」

「それゆえに、今川家は前公方様に鞍替えしたのですね」

「まあ、そうだろうな。遠江から今川勢を駆逐したい斯波殿が、公方様方に移ったのも一因ではあろう。早雲庵率いる今川軍は、三河まで進んでおる。今川家としては三河も、早雲庵は相模が欲しいのであろう。そのために、利用できるものを利用できる限り、使い倒すつもりなのだ」

「…………」

「さればこそ。儂と連絡をつけるために、わざわざ右馬亮を引っ張り出した事にも、明確な事由があるはずだ」

 慎重ながらも断定的な定基の言葉だった。

 貞忠は少し考え、顔をしかめて首を振った。姑息で卑怯な権謀術数の類いは、生真面目な貞忠には理解できなかったし、そんなものを理解したくもなかったのだ。幾分か反抗的な気持ちで、姑息な父に答えを求めた。

「おれ如きには分かりかねますが、では、父上は如何お考えですか」

「儂はな、これは修理大夫の講じた善後策であろうと思う」

 貞忠の皮肉を受け流して、定基は平然と答えた。

「善後策、ですか。万一の場合には、家臣という立場ならば容易に切捨てられる、と?」

「さよう。仮に、今川家と小笠原家が対立することになった場合、支援要請の理由に早雲庵の正室を持ち出しておれば、悪くすると早雲庵は嫡男を廃さねばならなくなる。信濃において最大の武力を有する我らと、早雲庵自身との血筋が一つになっておるからな。しかし、小笠原家家臣の右馬亮と同族と言っておけば、我らは自らの血筋を傷つけず、関家を排除すればよいし、修理大夫は早雲庵および伊勢一族を、まとめて伊豆にでも放り出してしまえばよい。更に、独立を始めから期して密約でも与えておけば、修理大夫は早雲庵一派を親今川派の勢力として扱えよう。もうひとつ、修理大夫が信濃に手を出すつもりがあれば、その最初の障害となるのは我ら松尾だ。我らの力が自然に弱まるのを座して待つのではなく、我らの武力の一部を担う関一族を小笠原から切り離すことで、積極的に弱体化を図る、というのも、勘繰れば可能性に上がってこよう」

 定基は淡々と語ったが、貞忠は背に腕に悪寒が走ったのをはっきりと感じた。父が口に出したものは、小笠原家を蝕む毒だ。毒を毒として認識していながら、定基はどこかそれを面白がる調子で分析した。貞忠の目には、今の定基の態度は危機感が足りないように映った。

 無論、頭では分かっているのだ。そもそも定基という人間は、腹中の感情を表に出さないのである。己の思考を隠すことに長け、はかりごとを巡らし、敵対者と策を探り合う。南信濃は伊那郡の重鎮たる小笠原定基とは、鄙に芽吹いた都の草であった。だから、定基が表に出した情動をそのまま信じることはできない。公卿は風雅の名の下に感情を偽る。風雅を愛好する定基が同じ事をしない理由は無いのだ。

 貞忠は、胸中にこごった灰色の靄を感じた。理解の範疇を超えた怪物に対する、それは不信感であり、恐怖であり、なにより強いのは嫌悪だった。だから貞忠は重鎮たる怪物に逆らわず、諾々と頭を垂れて息を潜めるように、問うた。

「……父上が今川を評価されている事は分かりました。では、何故彼らに味方されると?」

「修理大夫の底意は見えぬ、がしかし、駿河は隣国だ。この伊那郡と境を接しておる。深志の右馬助が二俣に出陣した折は大した収穫もなく帰国したが、儂は彼奴の如き愚行は犯さぬよ」

 今度は、定基は嘲笑を語尾に滲ませた。意味は明らかだ。遠江出兵と聞いたら、ただ軍事にしか頭が廻らない貞朝を、愚直な男だと侮蔑している。収穫、そして愚行とは。定基は隣国への出兵に、今川家の援護という以上の意味を持たせるつもりなのだろう。

(美濃や遠江だけでは飽き足らず、今度は三河にも所領を得ようと言うのか……)

 思わず、貞忠は奥歯を噛み締めた。既に充分な富を得、充分以上の権力を築いたにも関わらず、定基は未だ足りぬと考えているのだろうか。底知れぬ欲求は、いずれ己自身の首を絞める結果を齎すのではないか。定基が拡大した支配領域を、そのままに相続することになりはしないだろうか。肥大の過程で生み出した反発と軋轢を解消しないままに、貞忠だけが苦しむことになりはしないだろうか。

 思うだにぞっとする予見であった。

 そして、謀略を得意とする定基が、非常に高く評価する今川氏親という人間もまた、定基と同じように謀略を得手とする男であるかもしれない。

 氏親は貞忠とさほど変わらぬ齢だと、定基は言った。

 しかし、年齢は関係ないと貞忠は思う。貞忠と氏親の違いは、年齢でも生い立ちでもなく、用いる手段のみであろう。貞忠は、根っからの武人なのだ。武人に必要なのは謀略ではなく、武力と用兵だ。それだけあれば、敵軍を殲滅するに足りる。

(おれは、父上ほど賢くはない。だが、我が身をむざむざとくれてやるような真似は、決してしない)

 目許に険を宿して沈黙した貞忠を見遣って、定基は笑む。

「支配とはな、弾正。土地を得るだけでは足りぬよ。兵力も財力も、それ自体が主眼となることはない。永代の支配とは、流れを得ることに尽きる」

「流れ、ですか?」

「さよう。人と物の流れる道、すなわち交通路だ。儂が何故、木曾と誼を通じておるか。果たしておまえには分かっておるかな? 伊那と木曾を押さえれば、東海道の交通と流通を掌中に出来る。この支配圏は、伊那谷と木曾谷の外にこそ、影響するのだ。音物や書状、使者が届かぬようでは、外交は成らぬ。遠隔地との交信のためには、流れを握る儂に尻尾を振らねばならぬ。故に、支配者の振るう采配とは、交通路の安全を如何にして確保し、維持するかが肝要なのだ」

「では、父上は交通路支配の更なる拡張を企図して、出兵を承諾されるという事でしょうか。しかし、今川はそれを黙認しますまい。必ず、監視役を出して来るでしょう」

「さて、それはどうかな。きざはしを開けてやったことに気付いておれば、監視などと無粋な真似はすまい」

 定基は喉を鳴らして、低く低く嗤った。

(階、だと……? では、関と伊勢の結託を見越した上で、あえて自由に動かせるということなのか。それがどれほどの危険を生むか理解しても、なお利用しようという。父上は、支配領域拡大という名分のために、いったいどこまでを必要と思っておられるのだ。今川とて馬鹿ではあるまい。餌を投げられて尾を振る犬とは違う。階があれば利用する。父上の用いる策と、どう違うというのだ。それこそ、謀略が得手であれば、父上の目論見など看破してしまうだろう。これはもはや、賭けではない。父上の慢心、油断ではないか)

 そこまで思い至っても、権力を持たない貞忠には、諫言することは出来なかった。また「杞憂だ」と言われるのは、分かりきっている。

「……分かりました。父上がそこまでお考えであるならば、おれは父上の下知に従います」

 結局、貞忠はそう言って頭を垂れた。

「うむ、それでよい。此度の出兵は、おまえには学ぶところも多かろう。その目で隣国の若殿をとくと見つめてくるとよい」

 頷いた定基は満足げであった。




「さて、儂を食おうと仕掛けてくるは、果たして早雲庵か、修理大夫か――だがこの座は誰にも渡さぬよ。左京大夫は半国守護に足る力を持たなかった。しかして儂は彼の男を越えた。守護の肩書きなど、もはや有って無きが如きもの。信濃の統一に必要なものは、守護などではなく流通路支配による実質的な権力だ。今川殿には、せいぜいその手伝いをして貰わねばならぬな」

















永正三年 伊勢宗瑞書状


雖未申入候、以次令啓候、仍関右馬亮方事、名字我等一躰ニ候、伊勢国関与申所依在国、関与名乗候、根本従兄弟相分苗字ニ候、以左様之儀、只今別而申通候、諸事無御等閑之由被申候、別而我等忝存候、以後者関方同前ニ無御等閑者可為満足候、次当国田原弾正為合力、氏親被罷立候、拙者罷立候、御近国事候間、違儀候ハゝ、可憑存候、然而今橋要害悉引破、本城至根岸陣取候、去十九夘刻ニ端城押入乗取候、爰元急度落居候者、重而可申展候、仍太刀一腰作助光、金覆輪、進候、表祝儀計候、此旨可得御意候、恐々謹言、

  九月廿一日  宗瑞

謹上 小笠原左衛門佐殿

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