8、アイネクライネナハトムジーク
八:
ゾマ軍はバイスラント北西部のフォルテガルド平原に展開し、挑発的な軍事活動を続けた。中にはドゥンケルハイトが関わっているであろう事例も見られ、バイスラント騎士団は大いにそれを問題視しつつも、ノールザルツの前例を引きずって及び腰であった。
つまり、呪炎への確固たる対抗策がないのである。それらを処理する方法はすでに失われて久しく、ジェミニ博士を筆頭として、公国じゅうの技術研究施設が必死で文献を漁っているのが現状だ。
このままではゾマの最後通告を呑むことになりかねないと、バイスラント公はかなり焦っているらしい。
そんな中で開かれた騎士団総会議であったので、雰囲気は相当に重々しいものがあった。心なしかバスコの眼差しがさらに鋭くなったのを感じながら、ダニエルは一切の迷いを振り切ったように連合部隊長の座にいる。
いや、内心ではまだ部下をとることに抵抗があったのだが、今はジェミニの言葉を信じるしかない。エリサと再会するためにはどうしても積極的に戦場に赴かねばならず、それにはできるだけの機動力と戦力が必要だ。部下を持たない一本槍には出立の声もかからない。
そういうわけで、ダニエルはふたたび自らには過ぎた人数の部下を従えて、ゾマが蔓延っているフォルテガルドに進軍する運びとなった。
「さあ、ゾマの奴らをぶっとばすわよー!」
隣で無駄に元気よくはしゃいでいるのは、例によって部下の地位を退こうとしないマリエである。若い娘がそんなに血の気が多くてどうするというのか。
そんなマリエを見てどうにも気が滅入るのは、それなりに彼女を心配しているからだと、自分では思っている。
そんなこんなでシュタインブルクを発った。
ちなみに出発の前日、フレデリクの務めていた新聞社を覗いたが、彼は退職したよ、とフレデリクの同僚らしい記者に言われただけだった。あまり時間がなかったので住まいまでは見に行かなかったが、たぶんそこにもいないだろうと思った。
彼は宣言どおりエリサを探しにいったのだ、あの足で。
ダニエルも負けてはいられない。それに形は違えどエリサを探しているのは同じなのだ、どこかでまた会うことになるだろう。
ただ念のため、自宅にはフォルテガルド進軍の旨を書き置きしてきた。
フォルテガルドまではシュタインブルクから徒歩で一週間ほどかかる。道中、とりとめないことを考えては打ち消し、マリエに尋ねては小首を傾げられていたら、時間の経つのがひどく遅く感じられた。遠い道のりだった。
心が急いている。もう一度黒衣のエリサに会って、あのときの感覚を確かめたかった。
もう一度、ダニエルは肯定することができるだろうか。
また逃げてしまうのではないか。何度もそう思った。
なにせダニエルの心は弱い。ダニエル自身それをよくわかっているのだ。喪失を恐れるあまり部下をとれなくなるほどに、自分はもろい人間なのだ。
それに、今度はきっと、隣で逃げそうなダニエルを叱咤してくれる存在はいない。
「ダニー、どうしたの。変な顔してるわよ」
「……そりゃジェミニ博士のらくがきのせいだろう」
「そういう意味じゃないけど。でも遠征もあっという間ね、もう明日の朝にはフォルテガルドに着くもの」
マリエは遠くを見ながら言う。なるほど、はるかに広がる地平線は、背の高い建物の多いシュタインブルクでは見られない光景だ。
平原を吹きぬけてきた一陣の風が、ダニエルとマリエの髪を撫でる。
わずかに血の臭いが混ざっていた。すでに進軍している部隊のものか、あるいはゾマ軍のそれか。
その答えは翌日すぐにわかった。
フォルテガルド平原はどす黒く染まり、見渡す限り人間だったものが転がっている。遺体の装備から判断したところ、ゾマ軍もバイスラント騎士団も双方多大な犠牲を払っているようだった。
──ゾマとて例外ではない。その点女神は平等だ。
ジェミニの言葉がよぎる。あれは、このことを言っていたのだろうか。
ジェミニは科学者であって予言者ではない。彼らにとってはこれも予想できる範疇にあったということだ。ダニエルに伝えた奇妙な言葉もまた、その延長であるといいのだが。
ふと隣のマリエを見る。いくら気丈な少女でも、この光景はさすがに堪えるのではないかと思ったのだ。
だが彼女は背筋をぴんと伸ばし、現実をじっと見据えているように見えた。
「ダニー、指示をちょうだい」
マリエが言う。しっかりした声音だった。
ダニエルは頷いて、配下にある全軍に隊列を指示した。
このどこかにエリサがいる。ダニエルとエリサがふたりで対峙するために必要な状況と、そのための兵の配置については事前によく練ってあった。
フォルテガルドの地形を確認しながら、目的のための道筋を脳裏に描く。
「……隊長! 人影が!」
部下のひとりが素っ頓狂な声を上げた。見ればたしかに丘状になったところに誰かが立っている。
遠目からでも彼がバイスラント騎士やゾマ軍兵士ではないのが見てとれた。かなり変わった服装をしている。まず何よりなんて大きな帽子だろう。
つば広の深紅の帽子にはふくろうかなにかの目立つ羽根飾りがついていて、時代錯誤も甚だしいというか、場違いにもほどがあった。
彼は妙に洗練された動きでダニエルたちに近づいてきたので、ダニエルは警戒するように呼びかけた。状況からしてまともな相手ではないだろう。件のドゥンケルハイトの一員である可能性もあるので、できれば生きたまま捕えるのが望ましい。
人影はひどくゆっくり接近したかと思えば、いきなり速度を上げて突進してきた。ただし、それをダニエルが確認できたのは、自分から離れた位置の部隊が襲撃を受けたからである。
直撃された部隊の兵士は恐らく、何が起きたのか理解する暇もなく死んだだろう。
羽根帽子の男は一閃で数人を屠ってから、円舞でも踊るようにくるくると動き、それからぴたりと止まった。
「諸君、私の優雅なる舞闘を見たまえ!」
男は声も高らかに喋りながら、いちいち優美なポーズをつける。こちらを挑発しているのだろう。
部下のひとりが憮然とした声で彼に誰何する。
「貴様、どこの軍の者だ!」
「軍? 今、軍と言ったのかな?
諸君、私はそのような無骨な組織には降らない。宵闇に従うドゥンケルハイト、それが私の信奉するただひとつの正である。我が名はアイネクライネナハトムジーク!」
「長いわよ!」
マリエも怒っているのだろう、男を怒鳴りつけた。たしかに長すぎて覚えられない。
しかし帽子男はそれにまったく構わず、そのまま踊るように騎士たちを蹴散らし始めた。ダニエルにはここでやっと彼の獲物が見えた。両手に妙な刃物を持っている。
絵の短い鎌と言えばいいだろうか、刃は曲線で、帽子男の動きを妨げないようになっている。
「指示どおりの隊列を組め!」
ダニエルは叫んだ。こんなところで、しかもこんな珍妙な相手に潰されるわけにはいかない。
騎士たちとてそう思うのだろう。ただやられるばかりではなく、何人かは帽子男の刃を受け止めて応戦するようになった。
ダニエルとマリエはそれに意識を配りつつも、他に敵の増援がないか辺りを見回す。それも、黒いドレスの女の姿はないかと、無意識のうちに考えている自分がいた。
次の瞬間、目前に赤い帽子が迫る。
間合いを詰められることに弱いダニエルの長槍より、マリエの剣のほうが一瞬早く対応した。金属のぶつかり合う音が鼓膜に響く。
間近に見た帽子男は間の抜けた顔をしていた。
こいつがさっきの調子のいい口上を述べたのか。しかもこの顔で。華美にすぎる服装も、貧相な顔を載せてちぐはぐもいいところだ。
「なんとか根暗ジークとやら、私が相手よ」
軽蔑の意を込めてマリエがそう言うと、帽子男は顔まで真っ赤にさせて怒り出した。
「我が名はアイネクライネ──」
「あーはいはい、それはいいわよ。どうせもう一回聞いたって覚えらんないもの」
「な、な、な、なっ! 小娘が生意気な!」
登場の仕方が派手だったわりに、帽子男は口を開けば開くほど小物ぶりを暴露するようだった。もちろん、だからといって油断してはならない。こいつの速度は脅威だ。
騎士たちがマリエに加勢しようと、隊列を保ったまま近づいてくる。
「ダニー、ここは私と分隊長に任せて、第二部隊を連れて先に行って。こんな奴に時間をとっても仕方がないわ」
「だが……」
「マリエのいうとおりです、隊長。あの男は我々が食い止めます」
分隊長もそう言って盾を構えた。その厳しい眼差しに嘘はない。
ダニエルは逡巡したが、たしかにここで部隊を分けることは自分にとっても都合がよかった。用意していた計画にも問題はないどころか、むしろ順調すぎる滑り出した。
「大丈夫よ、あとでちゃんと追いつくから」
いつものようにない胸を張って宣言するマリエに、ダニエルはどこかで安堵していた。
マリエが約束を違えたことはない。いつだってそれはダニエルの意思を無視し、一方的に取りつけられたものだったが、彼女は必ずそれを守った。
……いや、約束が一方的だったのは、ダニエルのほうで逃げていたからだ。喪失への恐怖で部下を捨てたダニエルは、その部下のひとりであるマリエとさえ向き合わないで生きてきた。
マリエはそれを承知で、ダニエルの背中に約束をし続けてきたのだろう。小娘と侮っていたが、実際にはマリエはダニエルなどよりもずっと強い娘だ。それは彼女が若く、失望や虚無を知らないからであるが、代わりにダニエルが与え続けた拒絶を彼女は残らず受け取っている。
毎朝叩き起こしに来て、朝食を用意し、部屋を勝手に掃除して、戦場では隣で叱咤激励を続けてくれた。ダニエルがどんなに鬱陶しがっても決して退かなかった。
──今まで、不甲斐ない隊長ですまなかった。
ダニエルは心中で初めてマリエに詫びた。今はまだ心の中に留めておこう。この戦争が、平原での戦いが終わったら、そのとき改めて本人に言いたい。
「……わかった。必ず来いよ」
そしてそのときはきっと、ありがとう、も添えて贈ろう。
→