6、女神の涙
六:
それは女性の姿をしているので、女神という雅号が添えられている。もっとも彼女のことをそう呼ぶのは頭のイッた女王様だけだが。
専らそれの通称は、七七四番。つまり彼女以前に七七三人もの失敗作がいたという意味である。長年の想いを果たした女王はいたくお喜びだったが、部下にとってはむしろ、これはなかなか頭の痛い数字であった。
これほど困難な道だとは。いや、覚悟はしていたが。
女王様の愛すべき女神は、彼女専用の硝子でできた柩の中で静かに眠っている。こうしているとただの女にしか見えない。
いや、事実これはただの女だ。黒炎の呪いをとり憑かせただけの器にすぎない。
この世界に、神などというものは存在しないのだから。
「七七四番、洗浄だ」
男はぶっきらぼうな声でそう言った。女神はぱちりと瞼を開き、よくできた人形としか思えないぎこちない動きで起きあがる。
これがもとは人間だとは、とてもとても。
「ハイゲン、あたくしの女神ちゃんのご機嫌はどうかしら」
背後から黄色というよりは黄土色と形容したいような声が飛んできた。年増の猫なで声というのは耳に優しくないと、男──アシュルト・ハイゲンは思う。
ところが恐ろしいことに、声の主たる女王様は、黙っていればふるいつきたくなるような美女だ。見た目だけ。
「ミストレス」
「ああ、今から洗ってあげるのね。それならあたくしも横で見ていようかしら……あら女神ちゃん、おねむ?」
暗がりから現れた女王は、結いあげた黒髪に女神と揃いのドレスといういでたちであった。頭のてっぺんからつま先まで黒一色、がこの女のポリシーらしい。
「先日のノールザルツ侵攻以来ずっとこうです」
「あらぁ、何かあったのかしら」
「ジークの報告を覚えておいででは? バイスラント軍の男のことです。七七四番は留めを刺さなかったと」
「ああそうだったわね。だからジークにはその男の身辺調査を頼んであるわ」
女王は七七四番の髪を撫でて、くすりと微笑む。
「いいのよ、改善点が見つかることは。そうして女神は完璧になるのだから……さあ、きれいにしましょうねぇ」
ハイゲンは黙って七七四番を担ぐと、透明な液体で満たされた浴槽に彼女を入れた。女の身体はそのまま底へと沈んでゆく。わずかに開いた口から泡が漏れているのを見て、久しぶりにハイゲンは女神の生を意識した。
身体はあくまで人間で、生きている。
人格としては完全に死んでいるが。声も出さない、反応もしない。ついでに予め設定されているものを除けば、複雑な動きもできない。
哀れな生き人形。ハイゲンが内心そう吐き捨てた瞬間、女神の口からそれに異を唱えるように、ごぼ、と大きな泡が吐き出された。
ハイゲンも女王もぎょっとしてそれを見る。今までこんなことは起きなかったからだ。彼女を手に入れてからの七年間、一度も。
七七四番は両眼をかっと見開いている。表情がないだけに不気味な様相だ。ごぶ、ごぶり、と新たな泡を次々に吐いて、わずかに痙攣しているように見えた。
女神と呼ぶにはおぞましい姿。
しかし女王は少しも動揺せずに、ああ、とぼやいただけだった。
「これはジークの報告が楽しみになってきたわね。
さあハイゲン、急いで女神ちゃんをあたくしの部屋に運んでちょうだい。再調整の必要があるわ」
さすがに女王の名を恣にするだけあってか、肝が据わっている。ハイゲンは短く頷くと七七四番を引っ張り上げた。
銀色の瞳がハイゲンを貫いて、どこか遠くを睨んでいる気がした。
そのまま女王が己の部屋と称している実験室に入る。
眼に飛び込んできた巨大な装置が、今から七七四番が入れられる場所だ。外観は暗い灰色で、主な部分は円筒型をしている。その周囲を同色の管が幾本も絡み合いながら走り、鳥の巣のよう。
装置の中に七七四番を押し込む。服の裾などがはみ出さないように留意して、蓋を閉じた。
それを確認した女王が、操作を施す。
ハイゲンからは、七七四番と装置とが一体化したように見えた。壁面が融けるように崩れ、七七四番の肌と装置の隙間をなくしていく。嫌な光景だ。
七七四番はいつものようにじっとしていたが、ある瞬間を境に、見開いていた眼をさらに開いた。
「ヴアアアアアアアアア!」
それは獣の断末魔の叫びのようだった。
先ほどまでぼんやりと開かれていただけの口が、今やその絶叫のためにぱっくりと開いて、赤黒い舌の色まで露わになっていた。
苦しんでいるようにしか、見えなかった。ハイゲンは驚いて女王を窺ったが、彼女は涼しい顔でそれを見ている。何も感じていないらしかった。
「ミストレス、これは……その」
「心配ないわ。神経に干渉するから、その関係で声帯が震えているだけ。彼女は何も感じていない」
ほんとうだろうか。ハイゲンは些か信じられない気持ちで七七四番の悶絶を見る。仮にそうだとしても、これを前にして動じない女王とは、なんと冷酷な女。
それでこそ、この闇を率いるには相応しいということか。
「ふふ……泣いている」
女王が呟く。見れば七七四番の瞳から、透明な液体がひと筋零れていた。
恐らく先ほどの沐浴槽に張ってあった洗浄液が、眼窩のどこかに残っていたのだろう。それが振動によって流れ出た、それだけのことだ。考えればわかる。
でなければ彼女に涙を流す理由などないのだから。
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