3、ゾマからの最後通牒
三:
結局あの女を捕えることはできなかった。追いかけた部下たちの話によると、女は煙の中を歩いていき、そのまま姿をくらませたのだという。視界の悪いなか追い続けた者もいたが、焼死体になって見つかった。
ノールザルツは七割近い人口を失い、助かった住民も親戚などを頼って他の町に移り住んでしまったので、町は事実上滅びることになった。ダニエルの故郷と同じだ。
ダニエルたちはシュタインブルクに帰り、怪我の手当てを受けながらバスコに報告をした。
なお、横にはやっぱりマリエ。
「通信部隊からも連絡を受けている。出立が遅すぎたと言うべきか……私の責任だな」
「お兄さま」
「マリエ、おまえは怪我はなかったか?」
「私はちょっと肘をすりむいただけで済んだわ。それよりダニーが、あの炎でひどい火傷を……」
シュタインブルクの公国立病院に詰める、バイスラント最高レベルの医師たちの頭脳を以てしても、ダニエルや部下の負った火傷を治療するのは難しいと言われた。
曰く、これは単なる怪我ではない。肉体の損傷だけならまだしも、精神体の治癒に関しては我々は専門外の人間だ、とのことだ。
ダニエルにはまったく意味がわからなかったので、マリエに説明を乞うたところこのように言われた。
バイスラント医学では、人間の身体は肉体と精神体とで構成されると考えられている。死とは肉体から精神体が失われることであり、肉体とともに精神体が傷つけられると、薬や手術では直すことができなくなってしまう。
これを霊的負傷、または霊傷と呼ぶらしい。
ただし通常の武器では精神体まで傷つけることはできない。呪いを施したものにより、初めてそれは可能になる。しかし呪いが失われて久しい現在、霊的負傷が起こることはなくなったとされていた。
つまり、同時に治療方法も失われたのだ。
「ふむ、私もこれは初めて見る。痛むのか?」
「いいえ。むしろ、そこだけあまり感覚がありません」
ダニエルが火傷を負ったのは右足の膝のあたりで、その箇所だけ肌が鉛色に変化していた。表面は妙につるりとして不気味だ。
幸いにして足が動かなくなる事態は避けられたので、ダニエルは少しだけほっとしている。
「ともかくノールザルツへの襲撃はゾマ帝国の仕業とみて間違いはなさそうだな。どうやら戦争は避けられんようだ」
バスコの言葉にマリエは小首を傾げた。
「お兄さま、それってどういうこと? ノールザルツでは女がひとりで暴れてただけで、ゾマ軍なんて影も形もなかったわよ」
「おまえたちが出立した後だから知らないのは無理もないが、ゾマから通告があったのだ。
『我らゾマはこれから神を司る国となる。
大陸に建つ十余の国は、我々に従うのなら永遠の栄を手にし、従わぬものは、古の呪炎に滅ぶことになるだろう』とな」
ダニエルは絶句した。なんと高圧的で一方的な最後通牒なのだろう。とはいえ横でマリエがすごい勢いで怒り始めたので、自分では何も言わないでおいたが。
呪炎、というのがあの黒い炎を指すのだろうか。
「ああ、そういえばこのことに関して博士からダニエルに話があるそうだ」
「は、ジェミニ博士ですか?」
「そうだ。ただし博士はお忙しいから、自分のほうで足を運ぶと仰っていた。おまえに出向かせても応対できるかどうかわからない、とな」
「は……わかりました」
頷きつつも、ジェミニ博士がいったいダニエルに何の用があるのかわからなかった。だいたい会ったこともない相手なのだ。それに多忙ならそれこそダニエルを呼んだほうが早い気もするのだが。
まあ話というのはノールザルツ襲撃の件だろうから、単に連合部隊長だったから指名されただけだろう。
そんなことよりもダニエルはあの黒衣の女の情報が欲しかった。バスコならあるいはと思ったが、彼にもあまりわかっていない部分が多いらしい。
ただ、バイスラントの持っているゾマ軍の軍備情報とは一致しないので、恐らくは件の組織の一員ではないかとのことであった。
一体あれは何だったのだろう。
そもそも掌から黒炎を吹き出すような人間が現実に存在するのだろうか。たしかにこの眼で見たというのに、あれから三日ほど経った今では夢だったような気がしていた。
エリサの姿をして、呪炎を巻き散らす怪物。
もちろんあれは夢ではないのだ。ダニエルの脚に残された気味の悪い火傷が何よりの証拠である。
ダニエルは静かに奥歯を噛みしめた。あの女を捕えていれば、何かがわかったかもしれないのに。村を滅ぼした犯人やその目的が。
復讐のためにバイスラント騎士になったつもりはない。
だがもしかしたらダニエルは、心のどこかで思っていたのかもしれない。騎士になれば、いつか村を焼いた炎に行きつくだろうと。あの化け物との出逢いを、待ちわびていたのかもしれない……。
「あら? 誰かしら」
不意にマリエが扉を見た。ダニエルもつられてそちらを向くと、たしかにこつこつと控えめなノックの音がしている。
応対しようとしたマリエを片手で制し、バスコが立ち上がった。
「私が出よう。ついでにそろそろ詰所に戻らねばな。
マリエ、ダニエルを頼んだぞ」
「ええ、お兄さまに言われるまでもないわ」
ありがたくないやりとりにダニエルはこっそり溜息を吐く。
バスコが扉を開けると、見えたのは寒々しい公都病院の廊下だけで、一瞬そこには誰もいないかのように思えた。というのも訪問者を目視するには僅かばかり視点を下げる必要があったのだ。
車椅子に乗った、巻き毛の青年である。
「あなた様はハウゼンバウアー騎士団長ですね?」
「いかにも。そちらは?」
「私はダニエル・ギュルテンの旧友で、フレデリク・ベルンケと申します。ダニエルが入院したと聞いて……」
「ああ、例の村の生き残りだね」
聞こえてきたやりとりに、ダニエルは顔を上げる。
「リッツか!」
「やあダン、具合はどうだい」
フレデリクはひらりと右手を振って尋ねた。温厚そうな顔立ちに、田舎くさいそばかすが似つかわしい。
彼はダニエルの幼馴染みで、かの呪炎によって滅ぼされたシニツァ村の出身である。つまりあの悲劇からダニエルが唯一助けることができた相手であり、ただひとりの同郷の友だ。
両足は七年前に呪炎に焼かれ、マリエの言う「霊傷」のために動かなくなってしまったので、こうして車椅子がなければ自由に動けない身となってしまった。
「ではダニエル、よく休め」
バスコはフレデリクを病室内に入れてやると、そう言い残して去っていった。マリエが呑気に手を振って見送る。
一方フレデリクは久々に会ったダニエルの顔をまじまじと見ていたが、思ったより元気そうだなどと言って、顔をくしゃくしゃさせて笑った。
「それにしても驚いたな。ダニエルにこんなかわいらしいお嬢さんがいるとは」
「誤解するなよ、部下だ」
「私はバスコミュールの妹の、マリーリア・ハウゼンバウアー。マリエって呼んで。それから私、“お嬢さん”なんて歳じゃないわ」
「これは失礼」
ない胸を張って偉そうに言ったマリエに、フレデリクはやんわり微笑んで返す。無愛想なダニエルには逆立ちしてもできない芸当である。
マリエが嬉しそうに鼻の穴をふくらませたのを見て、これ以上このふたりの会話が弾むと厄介なことになると察したダニエルは、話題を転換すべく口を開いた。
「ところでリッツ。おまえのことだから、単に俺の見舞いに来たわけじゃあないんだろう」
ダニエルの問いにフレデリクは頷いた。
なにせその不自由な足だ。それにダニエルの職業は命を危険に晒すのが常なのであって、負傷のたびいちいち見舞いをされてははきりがない。
フレデリクがダニエルの見舞いに来るときは、ダニエルがよほど重篤か、あるいは彼の家から病院までの短くない距離を、車椅子を転がしてでも話さなくてはならない用事がある場合に限られる。
今回に関してはなんとなくわかっていた。恐らくフレデリクはどこかで、ダニエルがノールザルツで遭遇した女のことを聞いているのだ。
彼は今、シュタインブルク市内の新聞社で経理事務をしている。
「ダン、きみの部下がうちの取材部に話していた内容は、ほんとうなのか?」
「……そいつは何て言ってるんだ」
「『敵は女で、ギュルテン隊長とは知り合いのようだった。攻撃を躊躇っていた』……と」
言いながらフレデリクの手は震えていた。
恐らく実際にはもっと長々と語られたのだ。女の外見や、黒い炎を出していたこと、あるいはダニエルが彼女を見てなんと呟いたのかも。あのときダニエルの言葉を聞いたのがマリエだけだという可能性は低い。
エリサという単語が出たから、フレデリクはじっとしていられなかったのだろう。
「ああ、事実だ。俺はノールザルツでエリサそっくりの女に逢った」
そう告げた瞬間、鳶色の瞳が見開かれた。
「生きて……いたのか」
そこに浮かぶ色が何を表わしているのか、ダニエルにはわからなかった。理解してはいけない気がした。
「いや、あれはエリサじゃない」
「どうしてそう思うんだ? ダン、遺体を埋葬したとき、用意した墓穴がひとつ余ったのは覚えているだろう」
「ああ覚えてる。だがあのとき、誰かを見つけ損ねたんだと言ったのはおまえだぞ、リッツ」
言いながら頭が痛くなった。冷静になっている今だからわかるが、きっとノールザルツにいたときのダニエルはこうだったのだろう。その証拠にマリエが先日と似たような顔をしている。
どんな形でもいいから、生きていてほしい。その想いがダニエルやフレデリクの判断を狂わせているのだ。
「けれど結局、瓦礫の下からはもう誰も出てこなかったじゃないか。ダン、きっとエリサは炎に巻かれる前に腕を落として、逃げおおせたんだよ」
「違う……あれがエリサであるはずがない」
でも、と食い下がってくるフレデリクに、あれをどう説明したらいいのか、ダニエルは悩んだ。
顔かたちはエリサそのもの。それなのに、その実態は恐るべき破壊者でしかない、人形のような女。フレデリクが聞いたらとても冷静ではいられないだろうし、ダニエルの口からはとても言えない。
逡巡していると、見かねたマリエが加勢してきた。
「そうね、そもそも人間かどうかすら怪しいわ。
残念だけどフレデリク、私たちが見た、そのエリサとかいう人に似てる女は、手から黒い炎を出すような化け物だったの」
彼女の言葉は部外者であるだけに残酷だ。ダニエルとフレデリクにとってエリサがどういう存在なのか知らないからこそ、まっすぐに真実を突きつける。
「そして確実にあの女はテロ組織の一員。つまりね、私たちにとっては敵なの。たとえ、ほんとうにあの女が昔の知り合いだったとしても、次会ったときには殺さなきゃならないわ」
「な、」
「……マリエの言うとおりだ。リッツ、悪いが、このことは忘れてくれ。俺もそうする……」
苦々しいダニエルの言葉に、しかしフレデリクは返事をしなかった。握った拳を膝に押し当てて俯いている。
車椅子に乗っているせいもあろうが、旧友の姿はとても小さく見えた。
気持ちはわかる。シニツァ村でダニエルとエリサのことをいちばんよく知っていたのはフレデリクなのだ。ダニエルがエリサらしき人物に出逢ったのに、それを忘れようとしていることが、きっと許せないのだろう。
それにたぶん、フレデリクは……。
「ダン、俺、その女性を探すよ」
急にフレデリクが顔を上げて、不意に言い放った。
「エリサが生きている可能性が僅かにでもあるのなら、それを信じる。仮に彼女が今は犯罪者のもとに身を寄せていたとしても、そこから連れ戻せばいい」
「リッツ、落ち着け」
「落ち着いてるさ。ダンこそどうして諦められるんだ!」
フレデリクの激しい声にダニエルは眩暈を覚えた。
──そんなもの俺だって信じたい。今でもその想いは心のどこかに燻っている。エリサが生きているなら、どこへでも迎えに行きたい。
だがあれはエリサの形をしているだけの怪物だ。それだけじゃない、あの黒い炎が村を滅ぼしたものと同一であれば、悲劇を起こした張本人かもしれない。
だとしたら、考えたくもない想像だってできる。
もしかしたらあれがエリサで、同時に村を焼いたのも彼女の仕業だった……その可能性がまったくないわけではない。ダニエルはそれを確かめるのが怖いのだ。
「……今日はもう、帰るよ」
車椅子の車輪がぎゅうと唸る。フレデリクはダニエルの寝台に背を向けて、そのまま扉へ向かってしまった。
マリエが困惑顔でこちらを見るので、黙って頷く。残念だが、今のフレデリクを説得する言葉をダニエルは持っていなかった。引き留めることはできない。
少女は少し納得いかなそうに眉をひそめつつも、身体の不自由なフレデリクのために扉を開けた。
フレデリクはマリエに礼を言うと、のろのろと病室を後にする。去り際小さな声で何やら呟いて、マリエがそれに頷いていた。
無情な音を立てて閉じた扉は、まるでダニエルとフレデリクの隔絶を表わしたようだった。
「ダニエルの世話を頼むって。けっこういい人ね」
振りむいたマリエが肩をすくめて言う。まあなと短く返し、ダニエルは眼を閉じた。
「リッツは人が好すぎる。俺の代わりに怒ってるんだ」
「……ねえところで、私まったくの蚊帳の外なんだけど、ちょっとは事情を教えてくれないの?」
相変わらず直球なマリエの言葉に、ダニエルは深く息を吐いた。やはり避けては通れないか。
たしかにノールザルツでダニエルの言動を目の当たりにしている彼女からしてみれば、いい加減エリサが何者であるのか知りたいところだろう。
それにマリエがダニエルについて知りうる情報は、すべて兄のバスコ経由だ。国外から来たこと、故郷を失っていることなどを、こちらから直接話してやったことはない。
というか話してやるつもりは毛頭なかったのだが、いつの間にかマリエの側で仕込んできた。彼女は良家の子女であるくせにまったく奥ゆかしさとは無縁なので、いつも憚ることなく尋ねてきたものだ。
故郷はどんな場所? どうして滅んだの?
言いたくないと突っぱねれば、じゃあ言いたくなったら教えてね、と返された。そんなときは一生こないものと思っていたが。
「エリサは俺の婚約者だった」
大きな若葉色の瞳が瞬きをする。エリサもこんな色の眼をしていたな、と思った。
「働き者で、裁縫が上手な娘だ。歳は俺よりひとつ下で、リッツと同い歳だ。顔はノールザルツにいた女とそっくり同じだと思えばいい……」
「フレデリクとも親しかった?」
「ああ。俺よりも付き合いは長かった」
シニツァは小さな村だったから、お互い子どもの頃から知っている。それでも鍛冶屋の息子としてかなり制限された生活をしていたダニエルは、あまり同世代の子どもと触れあう機会がなかったように思う。
それでも、珍しいことにダニエルとエリサは、親の決めた結婚相手というわけではなかった。互いの親がそういうことを意識し始める前にふたりは恋に落ち、ダニエルが真摯にエリサの親と向き合って、ふたりの婚約を認めてもらったのだ。
そしてダニエルは、この世にただひと揃いの指環を作り、愛の証としてエリサに贈った。
マリエの眼がじっとダニエルの右手を注視する。そこには今でも誓いに縛られた指があるのだ。七年間、どうしても外すことができずにいた指環。
「ああ──そういう、ことなのね……」
半ば呻くようにしてマリエが呟く。ダニエルはその意味を察し、けれども何も言わず、襟許に手をやった。
首にかけている鎖を引っ張り上げると、その末端には指にしているのと同じ指環がぶら下がっている。エリサの燃え残った手から外したものだった。腕とともに埋葬してもよかったのだが、それではエリサの死を肯定するようで、当時のダニエルには耐えがたかったのだ。
この指環を棄てることが、やっとできそうな気がした。
→