12、フレデリクの想い
十二:
ダニエルに別れを告げ、新聞社を退職したフレデリクは、不自由な足で戦場を駆けずり回っていた。
少しでもエリサらしい目撃情報があれば、危険を顧みずにそこへ向かった。ときにゾマ軍と遭遇し、捕縛されかけたこともあったが、優秀なバイスラント騎士の助けによりどうにか命だけは助かっている。
そうまでしてもなお、エリサは見つからない。
かなり有力だと思われる情報があっても、フレデリクが辿りつくころにはもういないのだ。そこにはただ焼け焦げて炭化した遺体や、黒い火傷を負った兵士がいるばかり。
自分の脚も同じように黒ずんでいる。だからそれが何者の攻撃によるものか、フレデリクにはよくわかる。これはあの黒い炎を浴びてなったのだ。
エリサが、その襲撃者かもしれない。
忘れもしないことだが、フレデリクは最後にエリサが余所からきた集団に腕を掴まれていたのを見ている。今にして思えばあれは左腕だったのだろう。ダニエルからの愛の証が施されていた、象徴的な腕だ。
腕を斬り落とされたのは、ダニエルに愛されていたエリサの人生そのものを断ち切る行為だったのかもしれない。
でもダニエルは否定していた。あれはおぞましい怪物で、絶対にエリサではなかったと、いつも冷静な彼らしくなく動揺していた。ダニエルにはわかっていたのだ。
黒い遺体を前にした今のフレデリクには、その裏に肯定を見てとることができる。
──俺は、もしいつかエリサに会えたら、何と言うつもりなのだろう。
空回りなのは理解している。きっとエリサにフレデリクの言葉は届かないのだ。七年前にそうだったように。
彼女はダニエルを選んだ。
フレデリクではなく、彼を。
「……女神を止められるのはダニエル・ギュルテンだけ。きみの言うことは多角的に正しい」
荒れた戦場のど真ん中で、突然いるはずのない子どもの声がしたので、フレデリクはぎくりとしながら背後を振り返った。誰かいる。風に銀髪を泳がせる、小さな人影。
こんな場所に似つかわしくない、見知らぬ少年だ。
白と黒の奇妙な形をした服に、歳のわりに知的な風貌がなんとも言えない空気を醸し出している。首許だけ覗く肌も青白く、色味があるのはあやめ色の瞳だけだ。
……いや、この眼は冷たく澄んでいる。
「誰だい、きみは。ここは危ないよ」
「むろん承知だ。それでも僕らジェミニは忙しいんだ、フレデリク・ベルンケ」
少年に名前を呼ばれてフレデリクは驚いた。それに彼は今、なんともなしにジェミニと名乗らなかったか。
フレデリクは新聞社に勤めていたころ、何度かその名前を耳にしている。ジェミニ博士が新しい医療技術を開発した、実用化された、云々といった知らせを国民に告知していたのである。
「きみがジェミニ……?」
「そうだね、そう言えるだろう。忙しすぎて身体がひとつじゃあ足りないくらいさ」
「……大人をからかうんじゃない。ジェミニ博士がシュタインブルク学術会で博士号を得たのは、今から六十年も前のことなんだぞ」
「正しくは六十四年前の藤の月二十二日かな。号なんてあってもなくてもいいんだけど、邪魔にはならないだろうとシルヴァが言ってね」
少年はすらすらとそう言って、まだ驚いているフレデリクの顔を覗きこんだ。車椅子がぎしりと軋む。
底知れない不気味さを感じて、フレデリクは無意識のうちに唾を飲み込んでいた。
「フレデリク・ベルンケ、繰り返すが僕らは忙しい。要するに雑談をしにフォルテガルドまできたわけじゃない。本題に入ろう」
どうしてだかフレデリクはこのジェミニを自称する少年を無視することができなかった。それは彼が生来お人好しであることや、とくに老人と女子どもに優しいことなどとはまったく関係がない。
自称ジェミニは幾度となくダニエルの名前を出して、またエリサと思われる黒服の女について女神と称し、なにやら難解な話をした。
それ自体はフレデリクがこれまで生業として集めた知識を総動員しても、まるで理解の及ばぬ内容だった。しかしダニエルとエリサについて触れてくれた点については有用性を感じる。フレデリクはようやく事態の大きさを感じとることができた。
エリサを救うには、やはりどうしてもダニエルの力が必要になる。それだけが明確な事実。
そしてフレデリクにできることは少ない。
わかっていたし諦めもついていたはずなのに、今さら胸の奥がじりじりと痛んだ。
別れを告げたとき、ダニエルは頑として動かなかった。そのとき一瞬、勝った、と思ったのを覚えている。エリサへの想いの強さで、ダニエルに勝ったと思った。
なんて浅はかだったんだろう。
「それにしても……俺にそんな話をするために、わざわざシュタインブルクから?」
「それがジェミニの意志だから」
少年はどこか遠くを見つめながら曖昧に答えた。それからフレデリクに向き直り、またじっとこちらの眼を覗く。
心の内を見透かされるような気がするのはなぜだろう。
「たとえば、きみの呪いは“開いて”いる」
「呪い?」
「これは女神の感情の発露と言い換えてもいい。精神を害するのは精神以外にありえないからね。
そして同時に、呪われる側の精神状態によって炎の浸食の度合いは異なる。無防備であればあるほど、受ける傷は深くなる……きみのように、常に心が開かれている素直な人間なら、受ける傷は深いが、同時に治療も容易い」
「こ……この脚が治るのか!」
もう二度と動かないだろうと思っていた脚が。フレデリクの切実な問いに対し、ジェミニが浮かべたのは曖昧な微笑だけだった。
不可能ではない、と囁くようにジェミニは言った。
「きみはまだいいが、ダニエル・ギュルテンは最悪の状態だよ。ひどく深いうえ、傷口は閉じきっている。当人に開く気がないからなおさら性質が悪い」
ジェミニの言葉に、フレデリクは先日ダニエルが頑なだったことを思い出した。エリサが生きているかもしれないというのにまったく心を動かさなかったダニエル。
……いや、動かすまいとしていた。たぶん彼の脳裏には最悪の可能性が提示されていたからだ。もしもノールザルツを襲ったのがエリサなら、村を滅ぼしたのもまた彼女だったということになる。
「先日、施術を試みたが弾かれて失敗してね……
仕方なく物理的に開いてちょっと仕込みをした。女神に触れることで発動するようにね」
困ったような口調でジェミニが言う。しかしフレデリクには彼の声が二人ぶんに聞こえた気がして、なんとなく周囲を見回した。黒ずんだ遺体のほかには、……フレデリクとジェミニしかいない。
たしかにジェミニは双子だと聞いているが、ここにはひとりしか来ていないはずだ。聞き間違いだろうか。
そこでふと少年を見ると、何か妙な感じがした。
なんだろう。
「それにしても風に当たるのはいつぶりだろう、アリース。
……そうだね、シルヴァを連れ出したのは久しぶりだ」
明らかに彼は自分自身に話しかけていた。そしてそれに返答するように喋っている。フレデリクはぞっとした。
それに──両眼の色が、違う。
最初はたしかにどちらの虹彩もあやめ色をしていたと思ったが、今はどう見ても右眼だけ赤味を失って青に近い紫になっている。
どうなっているのだろうか。じっと眼を見つめるフレデリクに気づいたジェミニは、ふっと口の端に笑みを浮かべた。
なんだか嫌な感じがする。
「アリース……彼は……。
シルヴァ、彼のことは気にしなくていい。それよりあちらはどうだろう。そろそろ始まるのじゃないか。
ああ、どうやら女神と接触したようだよ。
……だそうだ、フレデリク・ベルンケ。ダニエル・ギュルテンはついに女神を破壊することになるだろう」
ジェミニの一言にフレデリクは眼の前が真っ白になった。
今なんと言った? ダニエルが女神を──つまりエリサを、破壊、する?
「どういう意味だ、ジェミニ! いや……ダンがそんなことをするはずがない……!」
「そう思うなら、直接その眼で確かめるかい。ここから八時の方向に彼らはいるよ。
……ただし、近づきすぎないようにね」
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