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11、女神を創りし者

十一:


 ダニエルは走っていた。心がどんなに潰れそうでも、身体のほうで勝手に動いているらしい。どうしてなのかはダニエルにもわからない。

 ただ今度はエリサと女を前にして、憎しみに狂ってしまうことはなかった。

 平原にはかつて第八部隊だった黒い遺体が転がって地獄絵図だ。その中央に立つエリサは果たして何の女神なのだろう。ただ一方的で邪悪な、暴力の具現でしかない彼女が神なら、それを崇めているのは何者だろう。

 黒服の女はエリサにべっとりと纏わりついて、まるで彼女が自分のもののように振る舞っている。

 ダニエルが再び立ちはだかると、女は困ったようにダニエルを見た。大きな眼に通った鼻筋、しみのない肌、どこをどう見ても作りものでしかない奇妙な顔の女だ。

 横に佇んでいる無表情のエリサより、よほどこちらのほうが人形に見える。

 女はエリサに何ごとか囁いた。エリサは何か言い返すでもなく、黙って腕をダニエルに向ける。ああノールザルツのときのように火を出すのだな、とダニエルは思った。

 エリサは女神の器にされたのだとジェミニは言った。解放できるのはダニエルだけだと。


「エリサ」


 ダニエルは七年間の想いを絞り出すように彼女の名前を呼ぶ。エリサの反応はない。

 ただ、その掌から迸るはずの呪炎も、まったく吹き出す気配がない。


「あら、再調整も失敗かしら」


 苦々しげに女が言った。

 そのとき、変わらないはずのエリサの顔がかすかに歪んだのをダニエルは見た。ふたりは離れた位置にいて、ほんとうにわずかな変化だったが、たしかにエリサの目尻が悲しげに歪んでいる。

 ──泣きたいのか、エリサ。

 ダニエルは歩み寄った。右膝がじくじく痛んだが、構ってなどいられなかった。

 ただエリサを抱きしめたい気持ちだけが、ダニエルの胸に溢れていた。彼女にこれ以上の殺戮はさせない。きっと、誰より苦しんでいるのはエリサ自身だ。

 ジェミニの言葉を信じる。

 自分ならエリサを解放できるはずだと、信じる。ダニエルにできるのはそれだけだ。

 それには一本槍は要らない。長槍を背に納め、エリサの前に立つ。それから腕を伸ばしたが、これは人形女に弾かれた。

 女は汚いものを見るような眼でダニエルを見る。


「女神に触れないことよ、下種」


 そのまま女はエリサを抱きしめる。まるで年端のいかない少女が気に入りの人形に頬ずりするように、ぴったりと身を寄せて。

 虫唾の走る光景だ。女に対しダニエルが不快感をあらわにした瞬間、右足が痺れるように一層強く痛んだ。突然のことに踏ん張ることもできず、腰が砕けてがくりと地面に膝をつく。

 そういえば妙ではないか。今まで膝は痛むどころか感覚さえなかったのに、今日になってこうなるとは。

 思い返せばその痛みは、エリサに近づいてからだった。


「エリ、サ……」


 どくどくと疼痛が脈を打っている。歯を食いしばって立ち上がろうとするが、筋肉の緊張は痛みを増幅させた。

 エリサと女は静かにダニエルを見下ろしている。


「ねぇ女神ちゃん、あの男、とっても痛そうにしているわ。楽にしておあげなさい?」


 ふと楽しそうな声音で女は囁いた。遠回しにダニエルを殺せと言っているのだ。だが、相変わらずエリサはぴくりとも動かない。

 女は明らかに機嫌を損ねたようすでエリサを見つめる。


「創り主たるあたくしの言うことが聞けないの?」


 エリサは答えない。


「まあ、なんて悪い子──」

「……エリサに悪いも何もあるか、下種はどちらだ」


 吐き捨てるようにダニエルが言うと、女がものすごい顔で睨んできた。ああ、やっと人間味がでてきたな、とぼんやり思った。この女だって所詮は人間だ。

 エリサだってそうだ。ごくふつうの人間だった。

 ごくふつうの幸せを、ダニエルとふたりで掴むはずだった。

 どこの誰だか知らないし、どんな思想の持ち主かもわからないが、この女がろくでもないのは見てわかる。エリサを利用して何もかも破壊しようとしているのだから。

 こんな奴のために、故郷は、家族は、エリサは、どれほどの苦痛を強いられたか。

 ダニエルは女を睨み返す。この怒りは、復讐のためのものではない。エリサや故郷のための胸の痛みだ。


「あぁ身の程知らずの愚かな男。我が女神の手を煩わせるまでもない……」


 女は丸腰に見えたが、ダニエルはその言葉を警戒した。

 あの帽子男や長髪の剣士も、形がどうであれある程度の実力の持ち主ではあった。その彼らを従えていた女だ。何か策でもあるのだろう。

 疼痛を堪えつつ一歩下がったダニエルに、女はふうっと息を吐きかけてきた。

 反射的に身を逸らした。女の吐息は紫色の煙になって、ダニエルの顔に纏わりつこうとする。これを吸ってはならないと本能的に理解したダニエルは、かぶりを振って逃れようとした。

 じゅうと嫌な音がする。見ると鎧にひと筋、融け流れたような痕ができていた。

 この煙には酸でも含まれているのか。


「くっ」


 どうしたらいい。息が届かないように間をとって、外から長槍で攻撃するか。ただ女に届く前に槍をだめにされてしまう可能性が高い。

 それに脚を負傷して機動力の落ちたダニエルでは、女の間合いから逃げること自体が難しい。

 ダニエルは腹を括り、普段はほとんど使わない剣を腰から抜いた。もちろん、これは愛用の槍などよりずっと間合いが狭い。


「あたくしは人智を超え、真理を越え、神を従えた存在。

 そして世界をも創り変える……!」


 女が息を吹き散らしながら迫ってくる。一瞬目前が紫に染まり、わずかに身を捩らせたダニエルの左肩が、強酸の吐息をまともに浴びた。

 肉が生きながら焼ける臭いと、想像を絶する鋭い痛みにダニエルは悲鳴を上げた。

 いや、それは雄叫びだったかもしれない。身体のあちこちで同じ激痛を味わいながらも、ダニエルは脚を引きずって女を迎え撃った。

 自らこちらに寄ってきていた女に、その一撃を避ける暇はない。

 ふくよかな胸のすぐ下、人体の急所を狙った刃は、外れることなく女を襲った。少なくともダニエルはそう思ったが、実際にはわずかに横にずれたらしい。

 またダニエル側の被害も大きく、とくに両腕がほとんど酸に焼かれてしまったので、攻撃の威力がかなりそがれてしまった。結果として女は即死せず、ふたりは呻きながらよろめいて地に倒れ伏す。


「お……おのれぇぇ!」


 女は鳩尾の傍に剣が刺さったまま、血の海を這いつくばりながらダニエルを罵った。ダニエルもまた、負傷のために身体が動かず、黙ってそれを聞く。

 きれいな顔とは裏腹の口汚い罵声にダニエルは薄く笑うしかできない。見た目はいくら取り繕えても、やはりこいつは人間なのだ。むしろ外観が整っているほど、その身の内の醜悪さが透けて見える。

 女神を創ったなどと嘯いても、ちっぽけな存在には変わりない。


「ふ、ふふ……あたくしを殺しても、まだまだあたくしの配下……日陰の者たちがいる……。忍びよる宵闇を阻むことは……できなくってよ……?」


 さすがに最期の時が近づいてきたか、女の声はかすれて途切れ途切れになってきた。それでもなおダニエルに一矢報いようと女は息も絶え絶えになりながら口を開く。

 絡みつくような、その視線はエリサへ。


「──」


 ダニエルは驚いた。女は歌を歌い始めたのだ。

 それはバイスラント語ではなく、節もダニエルの知らない曲のようだったが、声の調子に聞き覚えはあった。前にこれを聞いたのはノールザルツだったか。

 あのときエリサを撤退させた歌は、この女が歌っていたのだ。

 そして同時に、聞きとれない詩が、シルベスター=ジェミニの口にしていたそれと似ているのに気がついた。そういえば彼らはこう言っていた……彼らは古代精神医学をやっている、僕らと同じで……と。

 エリサが動いた。からくり人形のような、素早いがどこかぎこちない歩みで、ゆっくりとダニエルに近寄ってくる。

 今まで女の指示には従っていなかったのに。

 口頭の命令よりも、この歌のほうがエリサに対して強制力があるのだろうか。ダニエルが女に眼をやると、女は壮絶な顔で歌を紡いでいた。命を削っているかのような凄みに、思わず息を呑む。

 この女は間違いなく狂っている。

 左右で色合いの違う腕が伸びてきて、ダニエルの目前に掌を拡げた。初めて再会したときしたように、花を模した形にしている。

 ずず、と中心に渦を巻きながら黒い炎が現れた。

 表情は変わっていない。相変わらず眉さえ動かないのに、眼だけがどこか悲しげだ。


「エリサ……」


 身体に少しも力が入らなくて、どうしても動けないのが辛い。できることならエリサを抱きしめたい。

 もう暴れなくてもいいのだと、言ってやりたい。

 どくん、と右膝が脈打った。満身創痍に追い打ちをかけるような鈍い痛みに、眼の前が一瞬白む。ダニエルは小さく呻いて、右膝を見た。

 そして絶句した。



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