10、血だまりの一本槍
十:
ダニエルは走った。というのも彼の目前に、求めていた姿が映ったからであった。
夜を想わせる漆黒のドレスに身を包んだ女。ダニエルは彼女に駆け寄りたかったが、その周囲にまだ何人もいるのを見とめて立ち止まる。彼らはもちろんバイスラント騎士ではないようだった。
ひとりはエリサのものとよく似た黒い衣装の女。もうひとりは風に長髪をなびかせた剣士風の男。
ふたりはダニエルが近づいてきたのを見ても、少しも表情を変えなかった。
「あら、王子がお越しよ、ハイゲン」
「やはりジークひとりに任せたのでは不足だったか……いかがいたしましょう、ミストレス」
「好きにお遊びなさいな。あたくしは女神ちゃんとお散歩でもするわ」
女はエリサの肩を抱いて、ダニエルに一瞥もくれない。
ダニエルはどうにかエリサを奪い返したかったが、男のほうがダニエルに斬りかかってきたため、それに応戦しなければならなかった。
向かい合う男の眼差しは冷たく凍えている。こんな眼をダニエルは見たことがあった。七年前、悲劇においてすべてを失った瞬間の、ダニエル自身の眼だ。
だからといって、この男に親近感の類を覚えるわけではなかったが。
男は何か言うでもなく剣を突きつけてくる。帽子男のような突飛な動きや速さはないが、明らかにその剣筋は、人を殺し慣れている感じがした。眼の色といい、この男は常から戦場を経験しているに違いない。
きっとドゥンケルハイトの連中はみんなそうなのだ。
あちこちに戦場を作り、いたずらに人の命を奪うテロ組織。古代精神医学だかなんだか知らないが、よくわからないもののためにエリサの人生を奪った彼ら。
憎い。ダニエルの中で誰かが唸った。
こいつらが憎い。
「エリサを、……返せ……!」
ダニエルはそう叫んだ。自分を奮い立たせるために。
男は瞬きをしてそれを聞いた。なぜだかそれは、心底驚いたという顔だった。ダニエルはそれを見逃さず、躊躇なく槍の先端を男に押し込む。
ぐう、と男が呻いた。
流れ出るものをダニエルは冷徹な視線で見る。これでこの男は脅威ではなくなった。ダニエルとエリサを阻むものでは、なくなった。
薄汚い感情がダニエルの中で膨らむ。復讐するべき相手をこの手で屠った満足感が、全身に沁み渡っていくようだ。
次は女だ。そう思って振り返ると、すでに彼女らの姿は見当たらなかった。逃げられた。
手が震える。
早くあの女を殺してやりたくて、うずうずしている。
足許で誰かが呻いた。見るとさきほどの男が哀れな姿で転がっている。まだどうにか息があるらしく、かすかに肩が動いていた。
「き、さま」
男が血泡を吐きながら、かすれそうな声で言った。
「なぜ、妻の名を、知っている……」
それはまったく意味のない問いだった。ダニエルはひどく残酷な気持ちで男を見下ろし、知ったことか、と呟いて男の喉笛を一突きした。
勢いよく溢れ出る鮮血は、まるでダニエルの怒りを表すようだった。
こいつにもう興味はない。死んだ以上なんの価値もない。
それより早くエリサを探さねば、そう思いダニエルが歩き出すと、そう歩かないうちに前方からまた忌々しいものが近づいてくるのが見えた。
大きな帽子。羽根飾り。
へらへらと笑うその顔に、ダニエルは新たな怒りがふつふつと湧き出すのを感じた。どうしてこいつがここにいる。マリエはどうした。
そんなもの聞かずともわかるが、どうしても口にせずにはいられなかった。
「マリエはどうした」
対する帽子男は人の神経を逆なでする笑みを抑える気配もなく、くるりとつま先で一回転した。
それで充分だった。これ以上はもう何も聞かなくていいとダニエルは理解した。
必要なのは血だ。ダニエルの大切なものを尽く奪っている者たちの血で、このおかしな世界を洗い清めなくてはならない。それが復讐というものだ。
ダニエルは容赦なく帽子男に襲いかかった。速さでは競るべくもないが、間合いの広さにおいてはこちらのほうが断然有利だ。奴が近づいてくる前に突く。それだけでいい。
しかしダニエルの思惑とは裏腹に、帽子男は近づいてはこなかった。ただ間合いの外で円舞のステップを踏みながら、怒りに取りつかれたダニエルを嘲笑っている。
「やあ、滑稽、滑稽」
しかも帽子男の邪な眼差しは、仲間であろう倒れ伏した男にさえ注がれていた。少なくともダニエルにはそう見えた。そう思えた。そういう人間だと考えた。
……来ないならこちらから来るまで。ダニエルは踏み込み、自らの間合いに帽子男を収めようとする。
帽子男はひらりと身を交わす。決して向こうからは攻撃をしかけてこない。彼は間違いなく遊んでいた。
ダニエルは奥歯を噛みしめて、帽子男を罵ろうとした、そのときだった。
誰かがダニエルの名を呼んだ。聞き慣れた太い声が、まるでダニエルを叱咤したような気がした。どうしてだろうと振り向くと、鋭い眼がダニエルを睨んでいる。
そして、眼はたったのひとつだけ。それが何を意味するかはダニエルがよく知るところであった。
隻眼のバスコミュール、バイスラント騎士団長である。
彼の背後にはすでに騎士団が控えていて、ここへ至るまでに疲弊しきっていたものの、皆がバスコの背後を守っているのは一目瞭然だ。
ダニエルははたと気がついた。そういえば自分の後ろには、誰もいない。マリエと別れたとき連れてきていたはずの部下たちはどこに行ったのだ。
ようやくそれに思いいたって周囲を見回すと、人の形をした黒い物体がいくつも平原に横たわっていた。
「ダニエル! いつまで一本槍に甘んじている気だ!」
バスコの怒号がダニエルを貫く。その瞬間息が止まった。
ダニエルを支配していた真っ黒い感情が、どろどろと溶け崩れていくようだ。
周りが見えていなかった。
手は血塗れで、ずきずき痛む。無理な戦いかたをして痛めたようだ。それにさえ気づいていなかった。
もう一度バスコを見る。
彼の顔に、マリエの笑顔がダブって見える。
その瞬間ダニエルを襲ったのは懐かしくも息苦しい喪失の感覚だった。マリエが死んだ。ダニエルの見ていないところで、まだ謝罪も礼もしていないのに。
ダニエルのようすがおかしいと気づいたのか、バスコは剣を抜いた。
「……マリエは、どうした」
何と言えばいいかわからない。ダニエルは黙ったまま首を振った。
情けない話だが、口を開いたらそのまま泣き叫ぶのではないかと思ったのだ。
ただバスコはそれで理解したらしかった。彼の隻眼は帽子男に向けられ、そいつこそが妹の仇であることを察し、視線で殺す気なのかというほどに強く睨みつける。
「ダニエル、おまえに第八部隊を任せる。件の女の目撃情報があるから、そちらに向かえ」
バスコは静かにそう言った。帽子男に手を出すなと、言外に言っているようだった。
→




