女帝
外は暑かった。もうすぐ日が暮れようというところだが。
むしろそれが当然と言えた。ここはほぼ赤道直下、熱帯なのだ。
もちろん、先ほどの戦いの舞台、〈ルイーナ〉と呼ばれる闘技場が熱帯雨林をかきわけたところに存在しているわけではない。
剣闘士たちの戦いの場、それ以上に、世界で最大の人口をもつと思われるここは、人工島だった。
島民たちから〈アイランド〉と味もそっけもない名で呼ばれるこの島は、一辺が約三キロの正六角形を形作っている。そして、日が昇れば、およそ人がいないところはどこにもなくなり、メインストリートは人でごった返すのだ。
「おっと――」
カントが間一髪で避けたのは、『底が抜けた』地面だった。
全てが人工物でできているとなれば、自然のもの以上に劣化する場所もある。メインストリートはきちんと整備されているが、カントが通っているような雑然とした路地では、いろいろと綻びが多かった。
〈アイランド〉は島民が自力で作り上げたものではない。かといって、誰が計画し、誰が作り、何に使ったのかもわからない。遺跡だった。
数十年前に、大きな大きな災害があった。あまりにも巨大な異変で、全貌をつかんでいる者はほとんどいなかった。もしかしたら、最終戦争が起きたのかもしれないし、大地震だったのかもしれない。どちらにしろ、真相を知る者がいたとすれば、その人物が真っ先に死んでいたようなありさまだった。
生き残った人類はどれだけだっただろうか。ともあれ、彼らのうちで行動力がある者のうちの誰かが、この遺跡を見つけた。全てを流され、吹き飛ばされた人々は、潮風にもまれ、強烈な太陽にさらされても、鉄とコンクリートに守られたこの地を住処とした。
島民の先祖がたどり着いたときに、島で生きている者は誰もおらず、彼らは、ただひたすら生きていくための依代として島を用いた。
巨大な災厄は、人類から文明を根こそぎ奪い取ったが、科学の結晶であるここに住み着いた人々にとって、それは歪な生活にほかならなかった。
流れ着いた者の中には、機械に詳しい者もいたため、最低限の動力などは確保することが出来た。そして、彼らは文明を取り戻そうと、もはやオーバーテクノロジーの産物となった、さまざまな機械の『解析』を開始した。
たとえば、ここ数年で、壊れた空調が急速に復活しているのは、長い『解析』が実を結んだ結果だった。
「……よっと」
すこし大きめの『底抜け』をカントは飛び越えた。すでに完成して百年以上が立っている〈アイランド〉も、かなり老朽化しているのだ。
路地を抜け、メインストリートに出た。島の北東にある闘技場――〈ルイーナ〉近くの、多種多様な店が立ち並ぶ地域だった。数百メートルにわたって、にぎやかな道が続く。
「あっちを右か……よし」
別になんのことはない。アーティーから頼まれた、ただの使い走りだった。工具がすり減ってきたから、代えが欲しいと頼まれてのことだ。本人は先ほどの言葉通り、機体に張り付いて細々とした検査を続けている。
角を曲がった突きあたり、作業着姿の男が数人たむろす店を認めたカントは、手書きの地図とその位置を照らし合わせた。
「あそこか」
入れば、雑然とした通りにお似合いの雰囲気の工具店だった。地図の下に殴り書きされた整備器具の規格と、陳列棚を交互に見比べていると、後ろで女の声が聞こえた。
「もう、ちょっとは安くならないの? 何回ここで買ってると思ってるのよ?」
「?」
作業職の男たちにしか縁がないと思われたこの店では、およそ浮き立つ声の主は、店員と熾烈な値引き合戦を繰り広げていた。
「はあ、ですが――」
「こんなドライバーの二本や三本で、なにケチケチしてって? 分かってないわね、私は金惜しさにこんなことしてるんじゃないわ!」
「そ、そうですか」
「ええそうですとも! 店主さん、これは戦いよ! あなただって、闘技会に興味ないわけじゃないでしょう? ちょっとは貢献したいと――」
そこらで昼飯を頼む程度の額の値札がついたドライバーをにぎりしめて、女性は熱弁をふるった。彼女の後ろ姿からは、やや無造作にまとめた長い黒髪しか、その特徴を見つけられない。
いや、人並み以上の筋肉が体を覆っていることにカントは気付いた。決して自己主張する類のたくましい物ではない。それでも、そこから生み出される瞬発力が、彼にはそこはかとなく想像がついた。
「――それでは、これで手打ちにしましょうか?」
彼女の粘り強い交渉は十五分におよび、ついに元値の半分でドライバー一本を「お買い上げ」した時は、幾重にもなっていたギャラリーから、やんやの喝采を受けた。
ひゅうひゅうと口笛が鳴る中、にこやかに手を振る女性を見物していた誰かが言った。
「さすが『女帝』、やることが違うぜ――」
「なっ――」
気付かない自分が馬鹿だった。
何度も新聞で、ポスターで、雑誌で、見かけていたのに。
なにより、自分が殺されかけたのに。
ギャラリーが散り始め、それを受け流すように飄々と立っていた『女帝』ことイーナ・アドウェルは、人の流れに逆らって突っ立っているカントに目をやった。
「なにか?」
本当は、今すぐ聞きたいことがあった。あの日、どうして。
彼女は、ゆっくりこちらに歩み寄って来た。あのとき、レイピアをこちらに向けていた、そのままの雰囲気で。
「い、いえ」
思わず背を向け、数歩歩いた時、『女帝』は納得の声を上げた。
「ああ、あなたは――あの日の――」
「えっと――あの――」
恐怖とすり替わって妙な当惑を覚えながら、どもっているうちに、イーナが先に口火を切った。
「さっきの試合はうまくいったようね、新人さん」
先手を取られたカントは、馬鹿正直にうなずいた。
「あら、私だって、その日の試合は全部チェックしてるのよ。午前中の試合もよ。私だって、そこから上がって来たんですもの」
「はあ……」
まあ、この調子で頑張りなさい。
そう言ってイーナは、先日殺そうとした有象無象の二流に手を振って踵を返した。
「ま――ま、待ってください!」
「あら、なあに?」
タンクトップの上に、ラフなジャケットを羽織った『女帝』は上品に振り返った。剣奴たちに君臨する女帝にとって、これがドレスだった。
「どうして――どうして、あの時、最後まで――」
ここまできても、まともに言い切ることも出来ない。いったい何がこんなに落ち着かなくさせるのか、カントには分からなかった。
「どうしてひと思いに殺してくれなかったかって? 決まってるじゃない――」
イーナは微笑んで、彼の頭を指差した。
「頭突きなんてしてきたの、あなただけだったから」