愛してくれない騎士を忘れるため、皇帝と結婚した魔女は皇帝を殺した
断罪の広場に、悲痛な声だけが響いていた。
「私、夫を殺しただけよ。浮気して私を蔑ろにした夫を! それの何が悪いのよ!」
叫ぶ声は震えていたが、瞳だけは誰よりも静かだった。
クローディアの言い分を、周りの誰一人として理解できなかった。
確かに彼女は夫を殺した。
なぜなら、夫オスカーは彼女を騙した。
たった一人の妻として迎えると約束したのに、愛人がいた。
「愛人と別れて! 約束を守なければ殺すわ」と懇願した。
「殺せるもんなら殺してみろ。愛人と別れるつもりはない」
夫はそう返してきた。だから、殺しただけだ。
約束を守り、クローディアを愛するよう努力すれば夫は死なずに済んだ。
夫が皇帝でなくて、ただの平民だったらクローディアは死を隠蔽できた。
そして、おそらく平民であれば殺したことが露見しても彼女は罰せられなかった。
(高位貴族以上を殺すと処刑なのよね⋯⋯分かっていたけれど)
クローディアは魔女。
他国が攻めて来たら結界を張れるし、相手に攻撃を返すこともできる。
たった一人で百万の兵を超える戦力を持っているのだ。
ーーしかし、クローディアの殺した夫オスカー・ディ・ドリータは皇帝だった。
彼女からすれば、約束を守らない夫が悪い。
夫が殺せるもんなら、殺せと言ったから殺しただけだ。
(私は何も悪くないわ)
なのに、この国の誰もそれを信じようとはしない。
魔女の力を欲して、皇帝の妃にクローディアを欲したのに勝手なものだ
「クローディア・ディ・ドリータ! 狂った魔女め」
「この帝国の為に尽くす気はないのか、贅沢するだけのクズ女が!」
クローディアは自分の魔力を帝国の為に尽くすことを結婚式に誓った。
でも、その結婚は「妻になるクローディアだけを愛する」という約束を元にされたもの。
その約束が反故になったのだから、結婚は無効、結婚が無効ならば帝国の民に尽くす約束も無効ーーこれがクローディアの考え方だ。
「鬱陶しい。民ね。無力なくせに人を利用することばかり考えて⋯⋯」
クローディアは呟いた。
彼女から見たら民は非常に怠惰で無能に見えた。
そんな人間の為に尽くすと誓ったのは、愛を得られると思ったから。
別にオスカーを愛していたわけではない。
彼女が愛している男は別にいる。
しかし、その男は彼女を愛していない。
それどころか、誰か人を愛するような男でさえない。
だから、クローディアは妥協して結婚した。
オスカーは皇帝で他の人間に比べれば力を持っている。
一途に愛されれば、いつか自分も彼を愛せるようになるのではないかと期待したのだ。
そして、いつか見つめたところで見つめ返してもくれないあの男を忘れられるのではないかと。
クローディアはため息をつき、いっそ自分を理解しない愚民どもを再び魔法で皆殺しにしようかと考えた。
ーー実際、彼女は今まで何度も世界を終わらせてきた。
その時、抜き放たれた剣が、陽光を弾いて紅く光った。
その切っ先を向けたのは、他でもない。
彼女が誰よりも信頼し、密かに思いを寄せてた騎士、カリストだった。
(ああ、そうか⋯⋯最後に裏切るのが、あなたなのね)
クローディアに不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ、笑ってしまいそうだった。
誰も彼も自分を利用しようとするこの世界で、たった一人、信じることを許してくれた男。
彼はクローディアの魔力を利用しようとしなかった。
彼女を魔女ではなく、ただの人と同じように扱った。
ただ人に興味がなかっただけだとしても、彼女にとって彼は特別だった。
その男の手で終わるのなら、こんなに幸福な最期はない。
クローディアは、血のように紅い瞳をゆっくりと閉じた。
「嬉しい。カリスト」
その一言に、カリストの剣を握る手が止まった。
心臓が凍りついたように、指一本動かせない。
(なぜ、この女は自分の名前を知っている?)
そしてなぜ、殺されようとしている今、こんなにも優しく笑いかけてくる。
答えの出ない問いだけが、彼の中で反響していた。
時が止まったのは、カリストの心だけではなかった。
広場を埋め尽くしていた民衆の怒号も、風に揺れていた処刑台の垂れ幕も全てが静止したかのように感じられた。
ただ一人、クローディアだけが、まるでこの瞬間を何度も経験したかのように微笑みを浮かべたまま動かない。
「早く」
彼女が囁いた。
「早くしないと、また同じことの繰り返しよ、カリスト」
ーーまた?
その言葉の意味を問い質す間もなく、カリストの手がまるで彼自身の意思を裏切るように勝手に動いた。
振り下ろされた剣。
民衆が歓声を上げる。
「魔女が死んだ!」
「これで王国は救われる!」
だが、その歓声は長くは続かなかった。
クローディアの体が地に崩れ落ちたその瞬間、彼女の胸から溢れ出した血が地面に触れる前に、紅く輝く光の粒子となって舞い上がったのだ。
「なっ⋯⋯? なぜだ? 魔女は確かに殺したはずなのに!!」
カリストは剣を落とした。
光の粒子は渦を巻き、一つの文字を、いや一つの紋章を宙に描き出す。
それは、王家の誰もが封印してきたはずの【時を喰らう者】の紋章だった。
「馬鹿な⋯⋯これは、三百年前に滅んだはずの⋯⋯やはり魔女を人として見てはいけなかった。魔女は人を脅かす化け物だ⋯⋯」
呆然と呟く神官の声を遮るように、光の中心から声が響いた。
それは、たった今絶命したはずのクローディアの声だった。
「ごめんなさいね、カリスト。今度こそと思ったのだけれど。私は死ねないの。いや、死なないのよ⋯⋯」
声は次第に若く、幼くなっていく。
まるで時間を巻き戻すように。
「また、最初からやり直しましょう。どこからにしようかしら?」
光が爆発的に膨れ上がり、広場にいた者全員の視界を白く塗りつぶした。
そして光が収まったとき、そこにいたのは、処刑台でも、崩れ落ちた死体でもない。
十年前、まだ幼いクローディアと、剣術を師匠に教えてもらっている若き日のカリストの姿だった。
彼は、何も覚えていない目をしていた。
けれど、幼いクローディアだけは、血のように紅い瞳に、深い哀しみと確かな覚悟を宿して彼を見つめていたのだった。
幼いクローディアは、剣を教わる若きカリストの背を見つめながら心の中で静かに呟いた。
(ああ、また、この顔だ⋯⋯。好きよ。カリスト⋯⋯)
何も覚えていない、穢れのない優しい目。
彼女は知っている。この十年後、この男が自分に剣を向けることを。
けれど、それを恨む資格が自分にあるとは、どうしても思えなかった。
なぜなら、クローディアは魔女だから。
人が人を裁くとき、そこには必ず「善悪」という物差しがある。
夫を殺したのが正当防衛か、殺意によるものか。
本来ならば、それを量ってくれる者がいるはずだった。
けれど魔女には、その物差しが最初から与えられていない。
魔女が涙を流せば「演技だ」と嗤われ、
魔女が助けを求めれば「呪いだ」と怯えられ、
魔女が誰かを守れば「利用しているだけだ」と断じられる。
(私が何をしても、それは「魔女がしたこと」でしかない)
善悪の彼方に置かれた存在。
それが、クローディアという女だった。
それでも、貴族たちや皇帝までも彼女の美しさに魅せられ、彼女の力を利用しようとし妻とした。
しかし、思ったようにはいかなかった。
クローディアは魔女だ。
人の物差しで計れない。
彼女を喜ばせようとしても、うまくいかない。
彼女の感情は誰にも読めない。
オスカー皇帝は、いつしか美しいだけの人形から逃げ他に癒しを求めた。
魔女は高潔で、その浮ついた心を許さなかった。
浮気したから、殺した。
相手が皇帝だろうと、関係ない。
自分に非がある可能性など考えない。
悪いのは自分を不快にさせる対象。
それを排除するのは当然であり、罪悪感などない。
クローディアは何百回この時間を繰り返しても、決して弁明をしない。
弁明したところで、誰も「人」として聞いてはくれないのだから。
ただ、一つだけ。彼女が唯一諦めきれなかったのはカリストという男。
いつの巡り目でも、彼女を「魔女」ではなく「クローディア」と扱ってくれた瞬間があった。
たとえ最後には裏切られるとしても、彼女は彼を求めていた。
「先生!!」
幼いクローディアは、精一杯の無邪気さを装ってカリストを呼んだ。
「えっと? 俺はまだ先生じゃなくて⋯⋯」
将来、剣術の達人となる青年はまだ教えを乞う立場だ。
クローディアの言葉に照れるカリストを見て、彼女はほくそ笑んだ。
カリストの感情の動きがクローディアにとっての楽しみ。
クローディアにはどうして彼を目で追ってしまうのかも、世界の中心を彼だと感じてしまうのかも分からなかった。
ただ、彼のいる世界は面白く。
人生を始めたのは不本意だったが、終わりは彼にお願いしたいと思っていた。
楽しくて仕方がない。
その気になれば何でもできる自分が剣術で一目置かれて調子に乗っている人間を煽てて遊んでいる。
(終われなかったけれどね)
「私、きちんと強くなれますか?」
おどけたように言うクローディアの言葉に、五歳ばかり年上のカリストは屈託なく笑って振り返る。
「訓練を怠らなければ、強くなれる」
カリストの言葉に、嘘はなかった。
彼は剣術にしか興味がなく、ひたすら訓練していた。
その努力する背中がクローディアは好きだった。
この帝国は魔女の少女クローディアを要する。
故に、恐れながらも、いざとあれば彼女に助けて貰えば良いと誰もが思っている。
でも、カリストはいつも自分を磨いていた。
その姿はクローディアには眩しく感じていた。
クローディアの紅い瞳に一筋の涙がこぼれ落ちた。
(知っているわ、カリスト。貴方って本当に馬鹿みたいに人を信じない。私と同じなの)
なんでも出来る自分に剣術しか取り柄のない彼が言った言葉。
クローディアは涙を拭うこともせず、カリストの稽古を見つめていた。
剣術の稽古の時間が終わり、幼いクローディアが去った後。
カリストは一人、稽古場に立ち尽くしていた。
(今のは、何だ?)
あの少女の目に、一瞬だけ見えた「絶望」。
それは、とても十歳の子供が浮かべていい表情ではなかった。
まるで、何百年も生きた老人が、最後の希望を捨てる直前に見せるような目だった。
「気のせいだ」
そう自分に言い聞かせながらも、カリストの胸の奥では説明のつかない疼きが疼き続けていた。
紅い瞳を持つ魔女の力を持った令嬢が皇太子の妃候補になったと聞いた。
「あの子がクローディア?」
帝国はクローディアの力を欲していた。
彼女が剣術をやって見たいと主張し、カリストを先生にと指名すればその通りになった。
訓練すれば、みるみる上達し無垢な表情で喜ぶクローディア。
いつからか、彼女の表情が態度が演技に見えてきた。
でも、演技だからと言ってなんなんなのだ。
感情を無視し演技ができるくらいの方が理想の皇太子妃に⋯⋯ゆくゆくはこの帝国の母である皇后になれる。
そして、十年後。
処刑台の上で、彼は再びクローディアと対峙する。
「クローディア! 狂った魔女め!」
「人を殺めるのがそんなに楽しいか! まずはお前が死んで、その苦しみを知れ!」
「どうせお前は帝国を守る気などないだろう!」
クローディアは今では皇帝になった皇太子オスカーの妃になることを断った。
その後、多くの貴族から求婚されたが全てを断った。
一生独身主義を貫くつもりだった。
ーーカリストに愛されないのならば。
なんでも魔法でできる彼女がカリストから剣術を学び楽しそうにしていた。
それなのに、ある日、カリストの婚約者であるレティシア・アーデン公爵令嬢を殺してしまった。
レティシアは下級貴族でありながら武功をおさめたカリストに対する褒賞のような令嬢だった。
皇帝になったオスカーはカリストを讃え、美しい黄金の髪と瞳を持つレティシアを与えた。
褒賞の令嬢をカリストは丁重に扱った。
女同士のいざこざがあった話も聞かないのに、クローディアは許せなかったようだ。
皇族の親戚であるレティシアを殺した罪は死罪一択だ。
カリストが剣を振り上げた、その瞬間。
(知っている!)
唐突に、脳裏に流れ込んできた光景。
何度も、何度も繰り返してきた、この処刑の記憶。
その度に彼女が浮かべていた、あの微笑み。
その度に彼女が囁いた「嬉しい」という一言。
剣を握る手が、震えた。
「待て! 待ってくれ!!」
頭の中で混乱する自分が叫んだ言葉は口を出ていた。
だが、遅かった。
「いいのよ先生⋯⋯」
クローディアは薄く笑う。
今世で、彼女は彼の視界に常に入ることはできた。
師匠と弟子として。
剣に没頭する彼を見ては幸せを噛み締めた。
たとえ弟子相手でも、命令されればカリストは処刑人になる。
そして、彼はクローディアの気持ちを知らない。
彼女がどれだけ彼を思っているかなんて分からない。
それ程に、クローディアの行動は気まぐれに見えていた。
彼の刃は、既に振り下ろされていた。
崩れ落ちるクローディアを抱き留めながら、カリストは初めて絶叫にも似た慟哭を上げた。
「すまない。すまない、クローディア! 俺は、俺は一体、何度お前を⋯⋯」
光の粒子が舞い上がる中、クローディアは薄れゆく意識の中で、微かに笑った。
「思い出してくれたの? ただの人間なのに⋯⋯あなたが私を殺したのは二回! たった二回よ。気にしないで!」
そして世界は、再び白く塗りつぶされた。
目覚めたカリストは、十五歳の自分の体に戻っていた。
あの日と同じ、剣術の稽古場。
あの日と同じ、幼いクローディアの姿。
「先生!!」
同じ台詞。同じ笑顔。
けれど、カリストにはもう分かっていた。
この笑顔の裏に隠された、途方もない絶望の深さを。
まだ、十五歳の未熟な騎士である自分に⋯⋯将来自分を殺す自分に近づいてきた彼女の意図は分からない。
それでも、カリストから見れば人に執着などないクローディアが自分には執着している。
「クローディア様⋯⋯」
彼は膝をつき、幼い彼女と目線を合わせた。
「今度は何があっても、絶対に君を殺したりしない」
その言葉に、クローディアの紅い瞳が、大きく見開かれた。
(嘘⋯⋯)
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
そんなはずはない、カリストは命令に忠実な騎士だ。
騎士の忠誠心はクローディアには理解できない。
それでもカリストが皇帝に命令されれば何でもやる人間だと知っている。
そして、彼女は彼のそんな一途な心も好きだった。
(今度は?)
今、彼の言葉の中には、初めて「記憶」があった。
「信じても、いいの? カリスト。私をあ⋯あ⋯⋯」
震える声で、彼女は尋ねようとした。
「愛してくれる?」と聞こうとした自分の口を必死に理性で塞ぐ。
善悪の区別のつかない彼女にも分かった。
そんなことを尋ねてもカリストは困るだけだ。
人々は魔女を恐れ、クローディア自身もまるで何もかも思うがままになる全能の神のように自分を感じていた。
でも、今、クローディアは魔女でありながら無力感に打ちひしがれていた。
(愛されたい、カリストに。絶対無理だけど⋯⋯でも愛し合っても結ばれないのだから私の片思いで良い)
何もかも思い通りのようで何一つ思うようにならない環境と、願ってもないのに繰り返す人生。
絶望の中で恋をして、どうせ殺されるなら彼に殺されたいと思っていた。
これ以上のことはないと思っていたのに⋯⋯。
(何度繰り返す人生の中でも私だけに彼を思わせて欲しい⋯⋯)
「クローディア、怖がらなくて良い」
カリストは、力強く頷いた。
クローディアは泣きそうになった。
十歳の自分だが何度も時を繰り返している。
魔法で何でも可能にする魔女だ。
カリストに年下の普通の女の子のように扱われる日々は、クローディアにとってこの上ない幸せだった。
だが、幸福は長くは続かなかった。
数年後、王城の書庫で、カリストはある一冊の禁書を見つける。
【魔女の輪廻について】
そこに記されていたのは、残酷な真実だった。
ーー魔女は、時を渡るたびに、その魂に前世の記憶を刻み込まれる。呪いのように。罰のように。
ーーだが、魔女と共に時を渡った人間の魂は、輪廻を経るごとに摩耗し完全に消滅する。
ーー故に、魔女と真に結ばれることは、人間には決して赦されない。
本を持つ手が、震えた。
「クローディア⋯⋯」
クローディアが決して弁明せず、決して未来に希望を持たなかった理由。
それは、人として扱われない孤独のせいだけではなかった。
彼女は誰かを愛するたびに、その相手の魂を少しずつ壊してしまうことを最初から知っていたのかもしれない。
その夜、カリストは眠るクローディアの元を訪れた。
紅い瞳を閉じて眠る彼女は、何百年分の孤独を抱えているとは思えないほど、穏やかな顔をしていた。
「クローディア」
小さく名を呼ぶ。
彼女は目を覚まさない。
「俺の魂が擦り切れて消えても構わない。それでも今度こそ、最後までお前の隣にいさせてくれ」
カリストは、彼女の手をそっと握った。
(孤独を怖がる彼女が誰より人間らしくて愛おしい)
窓の外では、紅い月が、二人を静かに見下ろしていた。
けれど、その願いが本当に叶うのかどうか知る者は、まだ誰もいなかった。
「クローディア。お前は今まで、誰にも本当のことを話さず、誰にも縋らず、一人で全部を背負ってきたんだろう。何百年も」
「⋯⋯」
「もう、その仮面は要らない。俺の前でくらい、外していい」
その言葉に、クローディアの中で、何かが軋んだ。
長い年月をかけて固めてきた、鎧のような諦め。
その表面に、初めて小さな罅が入った。
「知らないくせに」
震える声で、彼女は呟いた。
「知らないくせに、簡単に言わないで。私はあなたが好きなのよ。きっとこれが恋なのよ。剣にしか興味のないあなたには分からないでしょうけど」
「知らなかった⋯⋯俺は剣以外にも興味があったようだ」
カリストは頷いた。
「今まで気づかなかったが、俺もクローディアが好きだ。君を愛おしく感じるこの気持ちに名をつければ、きっとこれは恋だ」
「え?」
「今度は、俺が聞く番だ。今まで、君が誰にも話せなかった全部を」
その瞬間、何百年分の孤独が、堰を切ったように溢れ出した。
クローディアは、気づけばカリストの胸に縋りつき、声を上げて泣いていた。
子供のように。人間のように。
「怖かった! ずっと、怖かった」
「ああ」
「誰にも愛されない魔女は死にたいの。殺されるなら、大好きなカリストに殺されたい。ねえ、私ってわがまま?」
カリストは、彼女の背を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「そのわがままは可愛いだけだ。君のわがままを聞ける俺は幸せなんだ」
その言葉に、クローディアの中の「魔女」が、初めて静かに涙を流した。
善悪の外に置かれた存在ではなく。
利用されるだけの道具ではなく。
ただの、一人の女として。
「ずるいわ、カリスト。ずるいけど、あなたが好き。自分でもなんでか分からないけれど、あなただけが好きなの」
涙を拭いながら、クローディアは小さく笑った。
窓の外、紅い月が、雲間からゆっくりと顔を出す。
それはまるで、何百年分の呪いに、初めて差し込んだ一筋の光のようだった。
けれど、魂が擦り切れるという真実は、まだ何も変わっていない。
二人が選んだこの想いの先に待つのが、救いなのか、それとも新たな悲劇なのか。
それを知るのは、まだ、もう少し先のことになる。
それから幾日か。
クローディアとカリストは、禁書に記された真実を二人で何度も読み返した。
「魂が擦り切れて、消える」
その一文から逃れる術を、どれだけ探しても見つからなかった。
「本当にいいの?」
ある夜、クローディアは静かに口を開いた。
「クローディア」
「擦り減って、苦しんで死ぬ結末で本当にいいの?」
彼女は、紅い瞳でまっすぐにカリストを見つめた。
カリストは、彼女の手を強く握り返した。
「構わない。お前と生きたその時間こそが、俺の魂そのものになる」
二人は、覚悟を込めて、互いの唇を重ねた。
その瞬間、世界が紅く輝いた。
驚いて身を離す二人の周りに、無数の光の粒子が舞い上がる。
それは、これまで何百回と見てきた「輪廻の光」と、同じでありながら決定的に違っていた。
温かかったのだ。
呪いのような、強制的な巻き戻しの光ではなく。
まるで祝福するかのような、優しい光。
『ようやく、条件が満たされた』
声が響いた。
それは、クローディア自身の声でありながら、もっと古く、もっと大きな何かの声だった。
「これは?」
『我が名は、初代の魔女。この輪廻の呪いを、この身に刻んだ者』
光の奥から現れたのは、クローディアと瓜二つの、しかしどこか超然とした女性の姿だった。
『魂が擦り切れる。それは、真実であり、同時に「試練」でもあった』
「試練?」
『愛する者の破滅を恐れて逃げるならば、輪廻は永遠に続く。だが、破滅を知ってなお、共に在ることを選ぶならば⋯⋯』
初代の魔女は、微笑んだ。
『その覚悟こそが、呪いを打ち破る鍵となる』
「そんな」
クローディアの声が震えた。
『この呪いは、罰ではない。かつて私自身が、愛する者の破滅を恐れて逃げ続けた。その後悔から生まれたもの。同じ後悔を、後の魔女たちに繰り返させないための試練だったのだ』
『お前たちは、私が果たせなかったことを果たした。だからもう、輪廻を刻む必要はない』
光が、二人を優しく包み込む。
『魂は擦り切れない。むしろ⋯⋯覚悟を共にした二つの魂は、これより固く結びつき、共に歳を重ねていくだろう』
初代の魔女の姿が、光の中に溶けていく。
『長い間、苦しませてすまなかった。クローディア。そして』
その視線が、カリストに向けられた。
『カリスト。もう、剣を愛する女の首に振り落とす必要はない』
光が、完全に消え去った後。
残されたのは、呆然と立ち尽くす二人。
「終わったの?」
クローディアが、恐る恐る呟いた。
「終わったんだと思う」
カリストが、彼女の手をぎゅっと握りしめた。
「本当に、終わったんだ」
その言葉を確かめるように、二人はもう一度、強く抱きしめ合った。
紅い月は、もうそこにはなかった。
代わりに、東の空には、何百年ぶりかの朝日が、静かに昇り始めていた。
五十年後。
帝国の外の小国で、小さなを営む夫婦がいた。
「先生、私、強くなりたい!!」
無邪気に尋ねる少年に、白髪の混じり始めた騎士は、目を細めて笑った。
「訓練を怠らなければ、強くなれる」
その隣で、紅い瞳の女性が、穏やかに微笑んでいる。
もう二度と、その瞳に絶望の色が浮かぶことはなかった。
輪廻は終わり、そして物語は、ようやく「その後」を歩み始めたのだった。
クローディアがドリータ帝国から姿を消した日を境に、帝国の歴史はゆっくりと、しかし確実に崩れ始めた。
かつてのドリータは、大陸でも屈指の大国だった。
広大な領土、豊かな鉱山、強大な軍隊。そして何より、宮廷に仕えた「魔女様」クローディアの存在が、帝国に得体の知れない威圧感を与えていた。彼女の魔術は敵国への抑止力であり、帝国の繁栄を象徴するものでもあった。
だからこそ、クローディアが何の説明もなく去ったことは、帝国にとって致命的だった。
最初に揺らいだのは外交だった。
周辺諸国は、クローディアという最大級の切り札を失ったドリータを、それまでとは別の目で見るようになった。かつては帝国の機嫌をうかがっていた国々が、次々と過去の条約を持ち出し、国境問題や賠償問題を突きつけ始めたのである。
「魔女を失った今、ドリータ帝国に何ができる?」
そんな言葉が諸外国の宮廷で囁かれた。
帝国政府は強気に反発したが、その態度はかえって周辺国の警戒を強めた。
かつてクローディアの名のもとに抑え込まれていた不満が、一斉に噴き出したのだ。
北方の王国は国境地帯への軍を増派し、西方諸国は帝国製品への関税を引き上げた。
南の都市国家群はドリータ帝国との交易を縮小し、周辺諸国に対抗する同盟を結成した。
それでも皇帝は、事態を認めようとしなかった。
宮廷では「魔女は戻ってくる」という楽観論が繰り返された。だが、月日が流れてもクローディアは戻らなかった。
やがて帝国内では、責任の押し付け合いが始まった。
軍部は宮廷を非難し、貴族は軍部を疑い、官僚たちは皇帝の政策を批判した。地方領主の中には、中央政府への納税を渋る者まで現れた。
そして最も惨めだったのは、帝国そのものが「魔女様に見捨てられた国」として語られ始めたことだった。
酒場では帝国兵を嘲る歌が歌われ、他国の新聞には「魔女に逃げられた帝国」という見出しが躍った。かつて大陸を震え上がらせたドリータの名は、いつしか皮肉と同情を込めて口にされるようになった。
経済も急速に悪化した。
戦費と外交的圧力によって国庫は空になり、政府は増税を繰り返した。農民たちは土地を捨て、商人たちは国外へ逃げ、都市では失業者があふれた。帝国を支えていたはずの巨大な官僚機構も、給料の遅配によって機能しなくなっていった。
最後の決定打となったのは、地方軍の反乱だった。
中央からの命令を拒否した諸侯が相次いで独立を宣言し、帝国軍はそれを鎮圧するどころか、兵士自身が反乱側へ寝返った。
皇都では、皇帝になったオスカーの命令がもはや城壁の外まで届かなかった。
玉座の脇には、求婚を断られても無理にでも座らせようと思っていたクローディアのために用意された椅子だけが残されていた。
誰も座らない椅子だった。
そして帝国暦最後の冬、ドリータ帝国は正式に解体された。
北では諸侯が領地を奪い合い、西では独立国家が成立し、南では旧属州が共和国を名乗った。皇帝は退位し、帝国の国章は宮殿から降ろされた。
その知らせを聞いたクローディアが何を思ったのか、記録には残っていない。
ただ後世の歴史家たちは、ドリータ帝国の崩壊について一つの奇妙な一致を見いだしている。
帝国を滅ぼしたのは、外国の軍勢だけではなかった。
自らが絶対に失わないと思い込んでいたものを失った瞬間、その穴を埋める力を帝国自身が持っていなかったのだ。
かつて大陸に君臨した帝国は、魔女様の去った後、誰からも恐れられなくなった。
そして最後には、誰からも救われなかった。
「魔女様に逃げられた帝国」。
それが、栄華を誇ったドリータに残された、最も惨めな呼び名となった。
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