「空の衣をまとった王」~第二部.空なる竜神の章
『空の衣をまとった王』
ー第二部 空なる竜神の章ー
王が「空の衣」をまとってから、いくつもの季節が巡った。
豊かな日々の恵みとともに、人々は盛んに行き来し、国は明るく息づいていた。
心のありようを学んだ民の暮らしは、活発でありながらも穏やかで、どこか温かかった。
この国のはずれ……
遠方に高い山々をのぞむ深い森のそばに、一人の農夫が住んでいた。
農夫は、若い妻と乳飲み子とともに、つつましくも満ち足りた日々を送っていた。
夏が近づいたある日、農夫は照りつける太陽を仰ぎ、ぽつりとつぶやいた。
「お天道さんよ……たまにはひと休みしてくれへんか。雨がちぃとも降らへん。
川の水は細るばっかりやし、井戸の底も浅うなってきたわ」
最初は「そのうち降るやろ」と高をくくっていた。
だが、やがて心配は現実のものとなった。
夏本番になっても、雨は一滴たりとも降らなかった。
鳥の声が消えた空の下、畑の作物は茶色に垂れ、収穫の望みも薄れていった。
妻はろくな食事が摂れず、日に日に細っていった。
乳の出も悪くなり、赤子の笑顔もめったに見られなくなった。
「女房には……せめて腹いっぱい食べさせたいやんか……子には、ようけ乳、飲ませたいやんか……」
農夫は乾ききった畑を見つめながら、誰にも聞こえぬ声で願った。
「王さまは、できることは全部やってくれとる。
せやけど……お天道さんのなさることだけは、どうにもならんわ……」
あきらめとも嘆きともつかぬ息が漏れた。
干ばつは近隣諸国にも及び、援助は望めなかった。
王は宝物庫を開き、遠方の国々から水と食べ物を買い求め、民が飢えぬよう配っていた。
その恵みは、干ばつの空の下、人々の心を支えるほのかな温もりとなっていた。
「ありがたいことや……けど、畑の痩せた芋を合わせても足らん。女房も子どもも、ますます細るばっかりや……」
農夫はある日、森に住む狩人の友の小屋を訪ねた。
なけなしの芋と、狩人の蓄え用の干し肉を交換してもらうためだった。
狩人は快く芋を受け取り、肉を差し出した。
「助かったわ。干し肉ばっかり食べとったら体が弱るでな。
森の獣らも山の奥へ行ってしもたらしくて、めっきり姿を見せへん。
ちょっとばかりやけど、持っていき。女房と子ども……亡くしてからじゃ、悔やんでも悔やみきれんでな」
「ほんま助かるわ……」
別れ際、農夫はふと思い出したように尋ねた。
「そういやな、ここ来る途中にな、森ん中に変わった葉っぱのツタがあったんやけど……あれ、なんか知っとるか?」
「ツタなんぞ、綱に使うばっかりで、葉の形なんぞ気にしたことないわ」
狩人は首を振った。
農夫は森を見渡し、「ほれ、あれや。あの葉っぱや」と狩人を連れていった。
「うーん……見ても分からんわ」
「子どものころにな、爺様がよう言うとったんや。
この葉っぱの形、よう覚えとけ。腹が減ったら、このツタの根っこ掘れって。
確か、こんな形やった気ぃするんや」
「へぇ、そんな話があったんか」
狩人は炭焼きの火かき棒を二本持ってきて、その一本を農夫に渡した。
「ほんなら、掘ってみよか」
二人はツタの根元の土を、根を傷つけぬよう丁寧に掘り進めた。
「なんやこれ……」
土の中から現れたのは、大人の太ももほどもある太い根だった。
狩人は腰のナイフを抜き、土を落として皮を少しむいた。
中からは、水気をたっぷり含んだ白い実が姿を見せた。
「うわぁ、こりゃうまそうやなぁ。ちょっとだけ食べてみよか」
狩人は小さく切り、農夫と自分の口に放り込んだ。
「うまいなぁ……芋のようで芋でない。でも、やっぱり芋や」
「おお……」
農夫は目を見開いた。
「これ、わしが病気んときに、爺様がすってくれた芋の味や。
山の芋や……これ食べたら、ぐんぐん力が湧いてくる。
お天道様からかくれんぼしてて、こいつったら……土の底で、ぐうぐう眠とったんやなあ……」
干ばつの夏のただ中……
土の奥深くにひそんでいた森の恵みが、静かに姿を現したのだった。
農夫は心を占めていた不安から解放され、久しぶりに大きな声で笑った。
◇
道すがら見かけた山芋のツタの数は、家族が厳しい夏をやり過ごすには十分だった。
無駄に食さなければ、狩人はもちろん、知り合いの農夫たちにも行き渡るだろう。
「せやけどな……」
農夫は汗を拭いながら立ち上がった。視線は森の奥へ向いている。
「おっと、おまえさんの言いたいこと、わしにも分かったで。
こんなええもん、わしらだけの秘密にしとったら罰が当たるわ。
まずは王さまに知らせんとな」
狩人の言葉に、農夫は深く頷いた。
「せやな。だから、それこそ国ん中の人に、ちょっとずつでも配れるぐらい山芋のツタがあるか、見てまわらんと」
二人は森の奥へ進んでいった。
奥へ進むほどに、山芋のツタは増えていった。
やがて二人は、干からびて土がむき出しになった池の岸辺に突き当たった。
「ふう……山芋、ようけあったなあ。王さまが聞いたら、きっと胸をなでおろされるわ。 隣の国にも、おこぼれをやれるかもしれん」
狩人の言葉に頷きながらも、農夫は足を止めなかった。
「おいおい、池ん中に芋なんかあるわけないやろ」
「わかっとるよ。でも、なんか、あの虹がな……わしを呼んどる気ぃするんや」
「虹?雨も降っとらんのに……」
干からびた池の中央に、小さな虹が薄くかかっていた。
「でも、やめとけや。この池には竜神様がおるって噂やぞ。
水がないからって入ってったら、どこからか出てくるかもしれん」
「王さまは言うとったやろ。恐れは、見える世界を変えてしまうって。恐れとったら、本当に竜が見えてしまうかもしれん。
それにな……竜神様に会えたら、それこそ願ったりや。雨を降らせてくださいって、手ぇ合わせるわ」
「まあ、そらそうやなぁ」
二人は笑いながら、硬くひび割れた土の上を歩いていった。
池の中央には、大人十人が手をつないだ輪ほどの大きさの穴が、ぽっかりと開いていた。
そこから霧が立ち上り、陽の光を受けて虹ができていた。
おそるおそる近づいてのぞいてみると…
「うわー、どないなっとる…」
穴の下には、大水が渦を巻いて流れていた。
「これ……地面の下を流れとる川や。
山のほうから流れてきた水が、もっと深く落ちて、渦になっとるんや」
狩人は、しばし言葉をなくして渦を見つめた。
「池が干上がり始めたころ、森の大虎が鼾をかいとるような音がしとったけど……これが原因やったんやな」
二人は顔を見合わせ、口を揃えて言った。
「こいつも王さまに報告やな」
◇
「……うむ……うむ……」
王は、城を訪れた農夫と狩人の話を丁寧に聞いた。
報告を終えた二人は、顔を見合わせた。
その顔には、心底からわき出るような、屈託のない笑みが浮かんでいた。
王は褒美を取らせようとしたが、二人は首を振った。
「王さま、わしらぁ、もう十分に報われております。
この知らせをお届けできたことこそ、わしらにとって何よりの褒美でございます」
王は静かに頷いた。
二人を見送った王の胸に、灯がともった。
その灯には、かつて頑なに守ろうとしていた硬さはなく、
胸を温め、心を広く照らすような柔らかな光がにじんでいた。
「……そうか」
王は、王家に伝わる伝承の一つを、なぞるようにそっと口にした。
――地が枯れたとき、竜神は環の石をくわえ、地下の深みより浅きに出でる――
王は宝物庫へ向かった。
そこには、竜を型どった台座に置かれた、中心に穴の開いた巨大な円形の石があった。
その石は、「王家の始祖が天より授かったもの」と伝えられていたが、その意味は、遠い昔に忘れられていた。
「これこそが……環の石」
王は大工に環の石を運ぶ荷ゾリを作らせ、屈強な兵士たちに引かせ、森の池へ向かった。
池の土はひび割れ、熱を帯びて乾いていた。
耳を澄ませば、深い地の底で、渦を巻く水の音がかすかに聞こえた。
王は綱を通した環の石を、穴の中へ慎重に降ろした。
石が渦の中心と重なった瞬間――
ホ――ゥ――
大地の吐息のような低い音が響いた。
見る間にも、穴は水に満ちていった。
焼けた土に水が触れたときの、細かな音が一面に広がった。
干からびていた池は湿り始め、黒い土が水気を取り戻していく。
白い霧が立ち上り、やがて池全体を覆うほどの巨大な渦となった。
風が霧を巻き込み、空へと昇らせていく。
「王さま、見てください!ほら、あれ……!」
そばにいた農夫と狩人が空を指さした。
「竜神様や! 竜神様が現れはったで!」
叫んだあと、二人は、幻を見たことを恥じるように体を縮めた。
王は、二人を責めず、白い霧の向こうをじっと見つめた。
「……わしにも、見える」
王の目には、何か大きなものが、霧の中をゆっくりと動いているように見えた。
それが本当に竜神なのか。それとも、己の心が映したものなのかは分からなかった。
ただ、その気配の向こうから、豊かな水の音が聞こえてくるような気がした。
王は微笑み、二人の肩を優しく叩いた。
「竜神様かどうかは問わぬこと。わしらの世界を潤すものが、ここにある。それでよいのだ」
白い渦の中心で、目には映らぬ何かが、脈を打っていた。
それは形なき大いなる気配――大地と水の命そのものだった。
人智の及ばない大地の深みで、命の流れが、静かに動き始めた。
数日と経たぬうちに、変化は地上に現れた。
枯れていた川には水が戻り、井戸にも再び水が満ち始めた。
畑には緑が戻り、鳥たちの声も、少しずつ聞かれるようになった。
森に眠る山芋のことは、王の采配のもと、丁寧に人々へ伝えられた。
「王は、干ばつに心を曇らせかけていた我らに、空なる竜神様を遣わせてくださったのだ」
人々はそう言って王を称えた。
◇
王は城の織所の間に、一人静かに立っていた。
視線は、一台の機織り機に注がれている。
かつて二人の聖者が空の衣を織った機だった。
カタン。コトン。
カタン。コトン……。
機織りの音が、深く、優しく、王の胸の内に響いた。
「空を織るお二人の御心は、いつの間にか、民の心にも染み入っていた……」
そっと手を伸ばし、機に触れた。
王の心に、清涼な風が吹き抜けたようだった。
窓辺に止まっていた一羽の鳥が飛び立ち、
雲一つない青い空のかなたへ静かに消えていった。
カタン。コトン。
カタン。コトン……。
空は、人々の胸の奥で、いつまでも織られ続けた。
了




