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「空の衣をまとった王」~第二部.空なる竜神の章

作者: 野津敬
掲載日:2026/07/06

『空《くう》の衣をまとった王』



ー第二部 空《くう》なる竜神の章ー



王が「空《くう》の衣」をまとってから、いくつもの季節が巡った。


豊かな日々の恵みとともに、人々は盛んに行き来し、国は明るく息づいていた。

心のありようを学んだ民の暮らしは、活発でありながらも穏やかで、どこか温かかった。


この国のはずれ……

遠方に高い山々をのぞむ深い森のそばに、一人の農夫が住んでいた。

農夫は、若い妻と乳飲み子とともに、つつましくも満ち足りた日々を送っていた。


夏が近づいたある日、農夫は照りつける太陽を仰ぎ、ぽつりとつぶやいた。


「お天道さんよ……たまにはひと休みしてくれへんか。雨がちぃとも降らへん。

川の水は細るばっかりやし、井戸の底も浅うなってきたわ」


最初は「そのうち降るやろ」と高をくくっていた。

だが、やがて心配は現実のものとなった。


夏本番になっても、雨は一滴たりとも降らなかった。

鳥の声が消えた空の下、畑の作物は茶色に垂れ、収穫の望みも薄れていった。


妻はろくな食事が摂れず、日に日に細っていった。

乳の出も悪くなり、赤子の笑顔もめったに見られなくなった。


「女房には……せめて腹いっぱい食べさせたいやんか……子には、ようけ乳、飲ませたいやんか……」


農夫は乾ききった畑を見つめながら、誰にも聞こえぬ声で願った。


「王さまは、できることは全部やってくれとる。

せやけど……お天道さんのなさることだけは、どうにもならんわ……」


あきらめとも嘆きともつかぬ息が漏れた。



干ばつは近隣諸国にも及び、援助は望めなかった。


王は宝物庫を開き、遠方の国々から水と食べ物を買い求め、民が飢えぬよう配っていた。

その恵みは、干ばつの空の下、人々の心を支えるほのかな温もりとなっていた。


「ありがたいことや……けど、畑の痩せた芋を合わせても足らん。女房も子どもも、ますます細るばっかりや……」



農夫はある日、森に住む狩人の友の小屋を訪ねた。

なけなしの芋と、狩人の蓄え用の干し肉を交換してもらうためだった。


狩人は快く芋を受け取り、肉を差し出した。


「助かったわ。干し肉ばっかり食べとったら体が弱るでな。

森の獣らも山の奥へ行ってしもたらしくて、めっきり姿を見せへん。

ちょっとばかりやけど、持っていき。女房と子ども……亡くしてからじゃ、悔やんでも悔やみきれんでな」


「ほんま助かるわ……」


別れ際、農夫はふと思い出したように尋ねた。


「そういやな、ここ来る途中にな、森ん中に変わった葉っぱのツタがあったんやけど……あれ、なんか知っとるか?」


「ツタなんぞ、綱に使うばっかりで、葉の形なんぞ気にしたことないわ」


狩人は首を振った。


農夫は森を見渡し、「ほれ、あれや。あの葉っぱや」と狩人を連れていった。


「うーん……見ても分からんわ」


「子どものころにな、爺様がよう言うとったんや。

この葉っぱの形、よう覚えとけ。腹が減ったら、このツタの根っこ掘れって。

確か、こんな形やった気ぃするんや」


「へぇ、そんな話があったんか」


狩人は炭焼きの火かき棒を二本持ってきて、その一本を農夫に渡した。


「ほんなら、掘ってみよか」


二人はツタの根元の土を、根を傷つけぬよう丁寧に掘り進めた。


「なんやこれ……」


土の中から現れたのは、大人の太ももほどもある太い根だった。


狩人は腰のナイフを抜き、土を落として皮を少しむいた。

中からは、水気をたっぷり含んだ白い実が姿を見せた。


「うわぁ、こりゃうまそうやなぁ。ちょっとだけ食べてみよか」


狩人は小さく切り、農夫と自分の口に放り込んだ。


「うまいなぁ……芋のようで芋でない。でも、やっぱり芋や」


「おお……」


農夫は目を見開いた。


「これ、わしが病気んときに、爺様がすってくれた芋の味や。

山の芋や……これ食べたら、ぐんぐん力が湧いてくる。

お天道様からかくれんぼしてて、こいつったら……土の底で、ぐうぐう眠とったんやなあ……」


干ばつの夏のただ中……

土の奥深くにひそんでいた森の恵みが、静かに姿を現したのだった。


農夫は心を占めていた不安から解放され、久しぶりに大きな声で笑った。


◇


道すがら見かけた山芋のツタの数は、家族が厳しい夏をやり過ごすには十分だった。

無駄に食さなければ、狩人はもちろん、知り合いの農夫たちにも行き渡るだろう。


「せやけどな……」


農夫は汗を拭いながら立ち上がった。視線は森の奥へ向いている。


「おっと、おまえさんの言いたいこと、わしにも分かったで。

こんなええもん、わしらだけの秘密にしとったら罰が当たるわ。

まずは王さまに知らせんとな」


狩人の言葉に、農夫は深く頷いた。


「せやな。だから、それこそ国ん中の人に、ちょっとずつでも配れるぐらい山芋のツタがあるか、見てまわらんと」


二人は森の奥へ進んでいった。



奥へ進むほどに、山芋のツタは増えていった。

やがて二人は、干からびて土がむき出しになった池の岸辺に突き当たった。


「ふう……山芋、ようけあったなあ。王さまが聞いたら、きっと胸をなでおろされるわ。 隣の国にも、おこぼれをやれるかもしれん」


狩人の言葉に頷きながらも、農夫は足を止めなかった。


「おいおい、池ん中に芋なんかあるわけないやろ」


「わかっとるよ。でも、なんか、あの虹がな……わしを呼んどる気ぃするんや」


「虹?雨も降っとらんのに……」


干からびた池の中央に、小さな虹が薄くかかっていた。


「でも、やめとけや。この池には竜神様がおるって噂やぞ。

水がないからって入ってったら、どこからか出てくるかもしれん」


「王さまは言うとったやろ。恐れは、見える世界を変えてしまうって。恐れとったら、本当に竜が見えてしまうかもしれん。

それにな……竜神様に会えたら、それこそ願ったりや。雨を降らせてくださいって、手ぇ合わせるわ」


「まあ、そらそうやなぁ」


二人は笑いながら、硬くひび割れた土の上を歩いていった。



池の中央には、大人十人が手をつないだ輪ほどの大きさの穴が、ぽっかりと開いていた。

そこから霧が立ち上り、陽の光を受けて虹ができていた。


おそるおそる近づいてのぞいてみると…


「うわー、どないなっとる…」


穴の下には、大水が渦を巻いて流れていた。


「これ……地面の下を流れとる川や。

山のほうから流れてきた水が、もっと深く落ちて、渦になっとるんや」


狩人は、しばし言葉をなくして渦を見つめた。


「池が干上がり始めたころ、森の大虎が鼾《いびき》をかいとるような音がしとったけど……これが原因やったんやな」


二人は顔を見合わせ、口を揃えて言った。


「こいつも王さまに報告やな」


◇


「……うむ……うむ……」

王は、城を訪れた農夫と狩人の話を丁寧に聞いた。


報告を終えた二人は、顔を見合わせた。

その顔には、心底《しんそこ》からわき出るような、屈託のない笑みが浮かんでいた。


王は褒美を取らせようとしたが、二人は首を振った。


「王さま、わしらぁ、もう十分に報われております。

この知らせをお届けできたことこそ、わしらにとって何よりの褒美でございます」


王は静かに頷いた。


二人を見送った王の胸に、灯がともった。

その灯には、かつて頑なに守ろうとしていた硬さはなく、

胸を温め、心を広く照らすような柔らかな光がにじんでいた。


「……そうか」


王は、王家に伝わる伝承の一つを、なぞるようにそっと口にした。


――地が枯れたとき、竜神は環《たまき》の石をくわえ、地下の深みより浅きに出でる――


王は宝物庫へ向かった。

そこには、竜を型どった台座に置かれた、中心に穴の開いた巨大な円形の石があった。

その石は、「王家の始祖が天より授かったもの」と伝えられていたが、その意味は、遠い昔に忘れられていた。


「これこそが……環の石」


王は大工に環の石を運ぶ荷ゾリを作らせ、屈強な兵士たちに引かせ、森の池へ向かった。



池の土はひび割れ、熱を帯びて乾いていた。

耳を澄ませば、深い地の底で、渦を巻く水の音がかすかに聞こえた。


王は綱を通した環の石を、穴の中へ慎重に降ろした。

石が渦の中心と重なった瞬間――


ホ――ゥ――


大地の吐息のような低い音が響いた。


見る間にも、穴は水に満ちていった。


焼けた土に水が触れたときの、細かな音が一面に広がった。

干からびていた池は湿り始め、黒い土が水気を取り戻していく。


白い霧が立ち上り、やがて池全体を覆うほどの巨大な渦となった。

風が霧を巻き込み、空へと昇らせていく。


「王さま、見てください!ほら、あれ……!」


そばにいた農夫と狩人が空を指さした。


「竜神様や! 竜神様が現れはったで!」


叫んだあと、二人は、幻を見たことを恥じるように体を縮めた。

王は、二人を責めず、白い霧の向こうをじっと見つめた。


「……わしにも、見える」


王の目には、何か大きなものが、霧の中をゆっくりと動いているように見えた。


それが本当に竜神なのか。それとも、己の心が映したものなのかは分からなかった。

ただ、その気配の向こうから、豊かな水の音が聞こえてくるような気がした。


王は微笑み、二人の肩を優しく叩いた。


「竜神様かどうかは問わぬこと。わしらの世界を潤すものが、ここにある。それでよいのだ」


白い渦の中心で、目には映らぬ何かが、脈を打っていた。

それは形なき大いなる気配――大地と水の命そのものだった。



人智の及ばない大地の深みで、命の流れが、静かに動き始めた。


数日と経たぬうちに、変化は地上に現れた。

枯れていた川には水が戻り、井戸にも再び水が満ち始めた。

畑には緑が戻り、鳥たちの声も、少しずつ聞かれるようになった。


森に眠る山芋のことは、王の采配のもと、丁寧に人々へ伝えられた。



「王は、干ばつに心を曇らせかけていた我らに、空《くう》なる竜神様を遣わせてくださったのだ」


人々はそう言って王を称えた。


◇


王は城の織所の間に、一人静かに立っていた。

視線は、一台の機織り機に注がれている。

かつて二人の聖者が空の衣を織った機《はた》だった。


カタン。コトン。

カタン。コトン……。


機織りの音が、深く、優しく、王の胸の内に響いた。


「空《くう》を織るお二人の御心は、いつの間にか、民の心にも染み入っていた……」


そっと手を伸ばし、機に触れた。

王の心に、清涼な風が吹き抜けたようだった。


窓辺に止まっていた一羽の鳥が飛び立ち、

雲一つない青い空のかなたへ静かに消えていった。


カタン。コトン。

カタン。コトン……。


空《くう》は、人々の胸の奥で、いつまでも織られ続けた。



了


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