独身でおばさんと言われる私、乙女ゲームの猫に転生しました
私には、好きな人がいた。
といっても、現実の人ではない。
乙女ゲームに出てくる悪役キャラだ。
黒いコートに身を包み、赤い目を光らせ、鋭い目で世界を睨む男。
名前は、ノア・ヴァルツァー。
攻略対象ではない。
王子でも騎士でもない。
最後にヒロインたちに倒される悪役だった。
決め台詞は、
「私がこの世を支配する」
初めてその台詞を聞いた時、私は思った。
格好いい。
友人にそう言ったら、全員に変な顔をされた。
「え、そこ?」
「普通は王子様じゃない?」
「最後に倒されるキャラだよ?」
分かっている。
悪役なのも分かっている。
最後に殺されてしまうことも分かっている。
でも、好きなのは好きなのだ。
私は三十代後半の独身女で、恋愛にも結婚にも、もう夢を見なくなっていた。
猫が好きで、仕事から帰った夜に、乙女ゲームを開いて、推しの悪役が出てくる場面だけを何度も見返す。
そんな生活をしていた。
寂しくないと言えば、嘘になる。
けれど、不幸だと思いたくもなかった。
私は私なりに、ちゃんと生きていた。
たぶん。
少なくとも、そう思うようにしていた。
だから、乙女ゲームの中でノアが死ぬたびに、私は画面の前でため息をついた。
どうして、あなたは毎回そうなるの。
どうして、そんなふうにしか生きられないの。
どうして、誰もあなたを止めてくれないの。
そんなことを思っても、ゲームの結末は変わらない。
ノア・ヴァルツァーは、何度プレイしても悪役だった。
最後には黒いコートを翻し、赤い目で笑う。
「私がこの世を支配する」
そして、ヒロインと攻略対象たちに倒される。
何度見ても、胸が痛かった。
それでも私は、彼が好きだった。
好きなものは好きなのだ。
その日も、仕事から帰って、猫動画を見て、乙女ゲームを起動して、ノアが登場する場面を見返していた。
眠かった。
目が重かった。
画面の中で、ノアが赤い目を細めて笑っていた。
ああ、やっぱり格好いい。
そう思ったところまでは覚えている。
次に目を覚ました時、私はふかふかしたものの上にいた。
やけに視界が低い。
体が軽い。
手を動かそうとしたら、白くて小さな前足が見えた。
前足。
私は固まった。
え。
前足?
もう一度、動かしてみる。
白い前足が、ちょい、と動いた。
私は叫ぼうとした。
「ミャ~」
口から出たのは、猫の声だった。
待って。
どういうこと。
私は起き上がろうとして、ころんと横に転がった。
足が四本ある。
尻尾もある。
耳も、たぶん頭の上にある。
私は猫になっていた。
意味が分からない。
分からないけれど、猫になっている。
夢?
いや、夢にしては毛の感触がはっきりしすぎている。
床の冷たさも、布の匂いも、遠くで燃える暖炉の音も、全部やけに生々しい。
私は周囲を見回した。
広い部屋だった。
暗い色の家具。
重そうなカーテン。
壁には見覚えのある紋章。
そして、椅子の背にかけられた黒いコート。
私の胸が跳ねた。
この部屋、知っている。
ゲームで見たことがある。
ノア・ヴァルツァーの部屋だ。
そう気づいた瞬間、低い声がした。
「……起きたのか」
私は固まった。
ゆっくりと顔を上げる。
黒いコート。
赤い目。
鋭い目つき。
画面の向こうで何度も見た、私の大好きな悪役キャラが、そこにいた。
本物だ。
ノア・ヴァルツァーがいる。
動いている。
息をしている。
こっちを見ている。
その声を聞いた瞬間、胸がどきりと跳ねた。
え。
なに、今の。
もしかして、これが人生初のトキメキというやつですか。
三十代後半にして。
猫になってから。
推しに声をかけられて。
遅い。
いや、でも、人生初なら仕方ない。
混乱している私に向かって、ノアが一歩近づいた。
赤い目が、じっと私を見る。
格好いい。
顔が良い。
怖い。
近い。
無理。
好き。
感情が大渋滞した。
けれど、猫の体は私の思考より先に動いた。
「シャーッ!」
全力で威嚇してしまった。
終わった。
推しに向かって威嚇した。
人生初のトキメキの直後に、全力のシャー。
終わった。
けれど、ノアは怒らなかった。
むしろ、少し困ったように目を細めた。
「どうしたんだ、ミャー。僕だよ」
ミャー。
……え。
それ、私の名前?
「寝ぼけているのかな」
そう言うと、ノアは私をそっと抱き上げた。
大きな手が、私の体を包む。
黒いコートの袖が頬に触れた。
近い。
推しが近い。
私は頭の中で絶叫していた。
待って。
推しに抱っこされている。
推しに触られている。
しかも、落とさないようにちゃんと支えてくれている。
ノアは片腕で私を抱き、もう片方の手で背中を撫でた。
優しい手つきだった。
ゲームの中で、あれほど冷たく笑っていた悪役とは思えないほど、手が優しい。
「怖い夢でも見たのか」
低い声が、耳の近くに落ちてくる。
私は答えようとした。
違います。
夢ではなく、現実の方が大変です。
あなたは私の推しです。
私はたぶん、あなたの飼い猫になっています。
状況が何ひとつ分かりません。
そう言いたかった。
けれど、口から出たのは猫の声だった。
「ミャ~……」
しかも、背中を撫でられていたら、喉が勝手に震え始めた。
ゴロゴロゴロ。
……なぜ鳴る。
心の中では大混乱なのに、猫の体は正直だった。
撫でられると気持ちいい。
とても気持ちいい。
悔しい。
でも気持ちいい。
ノアは私の喉の音を聞いて、ほんの少しだけ笑った。
ゲームでは見たことのない顔だった。
冷たい笑みではない。
誰かを見下す笑みでもない。
ただ、安心したような、柔らかい顔。
「元気ならいい」
私は固まった。
この人、こんな顔をするんだ。
ゲームでは見たことがなかった。
画面の中のノアは、いつも冷たかった。
世界を憎んでいるような目をしていた。
誰も信じていないような声をしていた。
最後には、赤い目でヒロインたちを見下ろして、あの台詞を言う。
「私がこの世を支配する」
けれど、今、私を抱いているノアは違った。
猫を落とさないように抱き、背中を撫で、寝ぼけたのかと心配している。
この人、猫を飼っていたんだ。
何度も繰り返して遊んだゲームだが、猫を飼っている場面は思い出せなかった。
ノアは私を抱いたまま、窓辺の長椅子に腰を下ろした。
そこには、小さな毛布が敷かれていた。
猫用の寝床らしい。
近くには、水の入った皿と、小さな食器もある。
全部、きれいに整えられていた。
猫を大事にしているのが分かる。
ノア・ヴァルツァー。
乙女ゲームのラスボス。
王国を混乱させ、ヒロインたちの前に立ちはだかり、最後に倒される男。
その男が、猫のために寝床を用意している。
猫の水を替えている。
猫に「怖い夢でも見たのか」と言っている。
何それ。
聞いてない。
そんなの、好きになるに決まっている。
いや、元から好きだったけれど。
もっと好きになるに決まっている。
「腹は減っていないか、ミャー」
ノアが言った。
ミャー。
私はそこで、改めて名前を噛みしめた。
この猫は、ミャ~と鳴く。
だから名前も、ミャー。
雑。
ものすごく雑。
けれど、ノアが低い声で優しく「ミャー」と呼ぶと、それだけで胸が温かくなった。
自分の名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。
前世の私は、三十代後半の独身女だった。
仕事では名前を呼ばれた。
病院でも、役所でも、宅配便でも呼ばれた。
でも、それは私を必要として呼ぶ声ではなかった。
確認のため。
用事のため。
義務のため。
誰かに、こんなに優しく呼ばれたことがあっただろうか。
たぶん、なかった。
少なくとも、思い出せなかった。
ノアは私を膝に乗せると、皿に小さく切った肉を置いた。
「食べられるか」
私は肉を見た。
美味しそうだった。
いや、猫の体だからそう感じるのかもしれない。
でも、美味しそうだった。
私はおそるおそる口を近づけ、食べた。
美味しい。
悔しいほど美味しい。
ノアはそれを見て、また少し笑った。
「よし」
その一言だけで、胸がきゅっとなった。
なんなの。
猫になった私の情緒、忙しすぎる。
しばらくして、ノアは机に向かった。
私を膝に乗せたまま。
机の上には、古い本と書類が積まれている。
魔法陣のような図もある。
私はそれを見て、背筋が冷えた。
知っている。
この図、ゲームで見た。
終盤でノアが使う、王都を闇で覆う魔法陣だ。
この魔法が発動したことで、ヒロインたちはノアを止めるために動き出す。
そして最終決戦になる。
その先にあるのは、ノアの死。
私の喉が、さっきとは違う音を立てそうになった。
違う。
駄目。
このままだと、この人は死ぬ。
ノアは本を開き、羽ペンを手に取った。
私は膝の上から、彼の横顔を見上げた。
黒い髪。
赤い目。
鋭い輪郭。
冷たく見える表情。
でも、その手はさっきまで私を優しく撫でていた。
この人は、ただの悪役じゃない。
ゲームでは描かれなかっただけで、猫に優しくする時間がある。
ミャーと呼ぶ声がある。
怖い夢を見たのかと心配する顔がある。
なのに、最後は殺される。
私はそれを知っている。
知ってしまっている。
ノアが羽ペンを動かそうとした。
私は反射的に前足を出した。
ぺし。
羽ペンを叩いた。
インクが少し跳ねた。
ノアがこちらを見る。
「ミャー」
私は固まる。
やってしまった。
しかし、ノアは怒らなかった。
「遊んでほしいのか」
違います。
違うけど、半分くらい合っているかもしれません。
私はもう一度、前足で書類を押さえた。
この魔法陣は駄目。
これは死亡フラグです。
書かないでください。
死にます。
あなた、死にます。
そう伝えたいのに、口から出るのは、
「ミャ~」
だけだった。
ノアは私をじっと見た。
それから、ゆっくりと羽ペンを置いた。
「今日はやめておくか」
え。
やめるの?
本当に?
「お前が邪魔をする時は、大抵ろくなことがない」
ノアはそう言って、私の頭を撫でた。
私は目を丸くした。
もしかして。
この猫、以前から何かやっていた?
いや、私ではない。
元のミャーだ。
でも今は、私がミャーだ。
私は書類の上に前足を置いたまま、ノアを見上げた。
彼の赤い目は、やはり怖い。
でも、もう怖いだけではなかった。
寂しそうにも見えた。
疲れているようにも見えた。
誰にも止めてもらえなかった人の目に見えた。
ゲームの中で、私は何度も思った。
どうして、誰もあなたを止めてくれないの。
でも今、私はここにいる。
猫だけど。
言葉は話せない。
人間のように抱きしめる腕もない。
説得もできない。
作戦会議にも参加できない。
できることは、鳴くこと。
引っかくこと。
書類の上に乗ること。
膝から降りないこと。
そして、死亡フラグになりそうなものを叩き落とすことくらい。
十分ではないかもしれない。
でも、何もしないよりはずっといい。
ノアが私の顎の下をくすぐった。
私はまた、勝手に喉を鳴らしてしまった。
ゴロゴロゴロ。
だから、なぜ鳴る。
でも、ノアはその音を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
その顔を見た瞬間、私は決めた。
この人を死なせたくない。
画面の向こうでは、何度も救えなかった。
でも今、私はこの人の膝の上にいる。
この人の手の温かさを知っている。
この人が猫に優しいことを知っている。
この人が、ゲームで描かれた悪役だけではないことを知っている。
だから。
猫だけど。
まずは、この人の死亡フラグを引っかいて折ってみせる。
しばらく、短編を毎日11:50分に更新予定です。
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