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独身でおばさんと言われる私、乙女ゲームの猫に転生しました

作者: momotarou
掲載日:2026/06/04

私には、好きな人がいた。


といっても、現実の人ではない。


乙女ゲームに出てくる悪役キャラだ。


黒いコートに身を包み、赤い目を光らせ、鋭い目で世界を睨む男。


名前は、ノア・ヴァルツァー。


攻略対象ではない。


王子でも騎士でもない。


最後にヒロインたちに倒される悪役だった。


決め台詞は、


「私がこの世を支配する」


初めてその台詞を聞いた時、私は思った。


格好いい。


友人にそう言ったら、全員に変な顔をされた。


「え、そこ?」


「普通は王子様じゃない?」


「最後に倒されるキャラだよ?」


分かっている。


悪役なのも分かっている。


最後に殺されてしまうことも分かっている。


でも、好きなのは好きなのだ。


私は三十代後半の独身女で、恋愛にも結婚にも、もう夢を見なくなっていた。


猫が好きで、仕事から帰った夜に、乙女ゲームを開いて、推しの悪役が出てくる場面だけを何度も見返す。


そんな生活をしていた。


寂しくないと言えば、嘘になる。


けれど、不幸だと思いたくもなかった。


私は私なりに、ちゃんと生きていた。


たぶん。


少なくとも、そう思うようにしていた。


だから、乙女ゲームの中でノアが死ぬたびに、私は画面の前でため息をついた。


どうして、あなたは毎回そうなるの。


どうして、そんなふうにしか生きられないの。


どうして、誰もあなたを止めてくれないの。


そんなことを思っても、ゲームの結末は変わらない。


ノア・ヴァルツァーは、何度プレイしても悪役だった。


最後には黒いコートを翻し、赤い目で笑う。


「私がこの世を支配する」


そして、ヒロインと攻略対象たちに倒される。


何度見ても、胸が痛かった。


それでも私は、彼が好きだった。


好きなものは好きなのだ。


その日も、仕事から帰って、猫動画を見て、乙女ゲームを起動して、ノアが登場する場面を見返していた。


眠かった。


目が重かった。


画面の中で、ノアが赤い目を細めて笑っていた。


ああ、やっぱり格好いい。


そう思ったところまでは覚えている。


次に目を覚ました時、私はふかふかしたものの上にいた。


やけに視界が低い。


体が軽い。


手を動かそうとしたら、白くて小さな前足が見えた。


前足。


私は固まった。


え。


前足?


もう一度、動かしてみる。


白い前足が、ちょい、と動いた。


私は叫ぼうとした。


「ミャ~」


口から出たのは、猫の声だった。


待って。


どういうこと。


私は起き上がろうとして、ころんと横に転がった。


足が四本ある。


尻尾もある。


耳も、たぶん頭の上にある。


私は猫になっていた。


意味が分からない。


分からないけれど、猫になっている。


夢?


いや、夢にしては毛の感触がはっきりしすぎている。


床の冷たさも、布の匂いも、遠くで燃える暖炉の音も、全部やけに生々しい。


私は周囲を見回した。


広い部屋だった。


暗い色の家具。


重そうなカーテン。


壁には見覚えのある紋章。


そして、椅子の背にかけられた黒いコート。


私の胸が跳ねた。


この部屋、知っている。


ゲームで見たことがある。


ノア・ヴァルツァーの部屋だ。


そう気づいた瞬間、低い声がした。


「……起きたのか」


私は固まった。


ゆっくりと顔を上げる。


黒いコート。


赤い目。


鋭い目つき。


画面の向こうで何度も見た、私の大好きな悪役キャラが、そこにいた。


本物だ。


ノア・ヴァルツァーがいる。


動いている。


息をしている。


こっちを見ている。


その声を聞いた瞬間、胸がどきりと跳ねた。


え。


なに、今の。


もしかして、これが人生初のトキメキというやつですか。


三十代後半にして。


猫になってから。


推しに声をかけられて。


遅い。


いや、でも、人生初なら仕方ない。


混乱している私に向かって、ノアが一歩近づいた。


赤い目が、じっと私を見る。


格好いい。


顔が良い。


怖い。


近い。


無理。


好き。


感情が大渋滞した。


けれど、猫の体は私の思考より先に動いた。


「シャーッ!」


全力で威嚇してしまった。


終わった。


推しに向かって威嚇した。


人生初のトキメキの直後に、全力のシャー。


終わった。


けれど、ノアは怒らなかった。


むしろ、少し困ったように目を細めた。


「どうしたんだ、ミャー。僕だよ」


ミャー。


……え。


それ、私の名前?


「寝ぼけているのかな」


そう言うと、ノアは私をそっと抱き上げた。


大きな手が、私の体を包む。


黒いコートの袖が頬に触れた。


近い。


推しが近い。


私は頭の中で絶叫していた。


待って。


推しに抱っこされている。


推しに触られている。


しかも、落とさないようにちゃんと支えてくれている。


ノアは片腕で私を抱き、もう片方の手で背中を撫でた。


優しい手つきだった。


ゲームの中で、あれほど冷たく笑っていた悪役とは思えないほど、手が優しい。


「怖い夢でも見たのか」


低い声が、耳の近くに落ちてくる。


私は答えようとした。


違います。


夢ではなく、現実の方が大変です。


あなたは私の推しです。


私はたぶん、あなたの飼い猫になっています。


状況が何ひとつ分かりません。


そう言いたかった。


けれど、口から出たのは猫の声だった。


「ミャ~……」


しかも、背中を撫でられていたら、喉が勝手に震え始めた。


ゴロゴロゴロ。


……なぜ鳴る。


心の中では大混乱なのに、猫の体は正直だった。


撫でられると気持ちいい。


とても気持ちいい。


悔しい。


でも気持ちいい。


ノアは私の喉の音を聞いて、ほんの少しだけ笑った。


ゲームでは見たことのない顔だった。


冷たい笑みではない。


誰かを見下す笑みでもない。


ただ、安心したような、柔らかい顔。


「元気ならいい」


私は固まった。


この人、こんな顔をするんだ。


ゲームでは見たことがなかった。


画面の中のノアは、いつも冷たかった。


世界を憎んでいるような目をしていた。


誰も信じていないような声をしていた。


最後には、赤い目でヒロインたちを見下ろして、あの台詞を言う。


「私がこの世を支配する」


けれど、今、私を抱いているノアは違った。


猫を落とさないように抱き、背中を撫で、寝ぼけたのかと心配している。


この人、猫を飼っていたんだ。


何度も繰り返して遊んだゲームだが、猫を飼っている場面は思い出せなかった。


ノアは私を抱いたまま、窓辺の長椅子に腰を下ろした。


そこには、小さな毛布が敷かれていた。


猫用の寝床らしい。


近くには、水の入った皿と、小さな食器もある。


全部、きれいに整えられていた。


猫を大事にしているのが分かる。


ノア・ヴァルツァー。


乙女ゲームのラスボス。


王国を混乱させ、ヒロインたちの前に立ちはだかり、最後に倒される男。


その男が、猫のために寝床を用意している。


猫の水を替えている。


猫に「怖い夢でも見たのか」と言っている。


何それ。


聞いてない。


そんなの、好きになるに決まっている。


いや、元から好きだったけれど。


もっと好きになるに決まっている。


「腹は減っていないか、ミャー」


ノアが言った。


ミャー。


私はそこで、改めて名前を噛みしめた。


この猫は、ミャ~と鳴く。


だから名前も、ミャー。


雑。


ものすごく雑。


けれど、ノアが低い声で優しく「ミャー」と呼ぶと、それだけで胸が温かくなった。


自分の名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。


前世の私は、三十代後半の独身女だった。


仕事では名前を呼ばれた。


病院でも、役所でも、宅配便でも呼ばれた。


でも、それは私を必要として呼ぶ声ではなかった。


確認のため。


用事のため。


義務のため。


誰かに、こんなに優しく呼ばれたことがあっただろうか。


たぶん、なかった。


少なくとも、思い出せなかった。


ノアは私を膝に乗せると、皿に小さく切った肉を置いた。


「食べられるか」


私は肉を見た。


美味しそうだった。


いや、猫の体だからそう感じるのかもしれない。


でも、美味しそうだった。


私はおそるおそる口を近づけ、食べた。


美味しい。


悔しいほど美味しい。


ノアはそれを見て、また少し笑った。


「よし」


その一言だけで、胸がきゅっとなった。


なんなの。


猫になった私の情緒、忙しすぎる。


しばらくして、ノアは机に向かった。


私を膝に乗せたまま。


机の上には、古い本と書類が積まれている。


魔法陣のような図もある。


私はそれを見て、背筋が冷えた。


知っている。


この図、ゲームで見た。


終盤でノアが使う、王都を闇で覆う魔法陣だ。


この魔法が発動したことで、ヒロインたちはノアを止めるために動き出す。


そして最終決戦になる。


その先にあるのは、ノアの死。


私の喉が、さっきとは違う音を立てそうになった。


違う。


駄目。


このままだと、この人は死ぬ。


ノアは本を開き、羽ペンを手に取った。


私は膝の上から、彼の横顔を見上げた。


黒い髪。


赤い目。


鋭い輪郭。


冷たく見える表情。


でも、その手はさっきまで私を優しく撫でていた。


この人は、ただの悪役じゃない。


ゲームでは描かれなかっただけで、猫に優しくする時間がある。


ミャーと呼ぶ声がある。


怖い夢を見たのかと心配する顔がある。


なのに、最後は殺される。


私はそれを知っている。


知ってしまっている。


ノアが羽ペンを動かそうとした。


私は反射的に前足を出した。


ぺし。


羽ペンを叩いた。


インクが少し跳ねた。


ノアがこちらを見る。


「ミャー」


私は固まる。


やってしまった。


しかし、ノアは怒らなかった。


「遊んでほしいのか」


違います。


違うけど、半分くらい合っているかもしれません。


私はもう一度、前足で書類を押さえた。


この魔法陣は駄目。


これは死亡フラグです。


書かないでください。


死にます。


あなた、死にます。


そう伝えたいのに、口から出るのは、


「ミャ~」


だけだった。


ノアは私をじっと見た。


それから、ゆっくりと羽ペンを置いた。


「今日はやめておくか」


え。


やめるの?


本当に?


「お前が邪魔をする時は、大抵ろくなことがない」


ノアはそう言って、私の頭を撫でた。


私は目を丸くした。


もしかして。


この猫、以前から何かやっていた?


いや、私ではない。


元のミャーだ。


でも今は、私がミャーだ。


私は書類の上に前足を置いたまま、ノアを見上げた。


彼の赤い目は、やはり怖い。


でも、もう怖いだけではなかった。


寂しそうにも見えた。


疲れているようにも見えた。


誰にも止めてもらえなかった人の目に見えた。


ゲームの中で、私は何度も思った。


どうして、誰もあなたを止めてくれないの。


でも今、私はここにいる。


猫だけど。


言葉は話せない。


人間のように抱きしめる腕もない。


説得もできない。


作戦会議にも参加できない。


できることは、鳴くこと。


引っかくこと。


書類の上に乗ること。


膝から降りないこと。


そして、死亡フラグになりそうなものを叩き落とすことくらい。


十分ではないかもしれない。


でも、何もしないよりはずっといい。


ノアが私の顎の下をくすぐった。


私はまた、勝手に喉を鳴らしてしまった。


ゴロゴロゴロ。


だから、なぜ鳴る。


でも、ノアはその音を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。


その顔を見た瞬間、私は決めた。


この人を死なせたくない。


画面の向こうでは、何度も救えなかった。


でも今、私はこの人の膝の上にいる。


この人の手の温かさを知っている。


この人が猫に優しいことを知っている。


この人が、ゲームで描かれた悪役だけではないことを知っている。


だから。


猫だけど。


まずは、この人の死亡フラグを引っかいて折ってみせる。

しばらく、短編を毎日11:50分に更新予定です。

お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

できるだけ斬新なアイデアをひねり出して書いています。

評価を入れていただけると、とても励みになります。

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