【番外編】灯りのともる前に
夜、ふっと何故か目が覚めた。
夢を見ていたような気もするし、
何も見ていなかったような気もする。
部屋は静かで、
窓の外の街灯が、薄く天井を照らしている。
喉が渇いたわけでもないのに、
胸の奥がそわっとして、
葵はゆっくりと上体を起こした。
そのときだった。
机の上のノートが、
開いたまま置かれていることに気づく。
寝る前は確かに閉じたはず。
でも、不思議と怖くはなかった。
ページの中央に、
見覚えのない筆跡で数行の文字が書かれている。
葵の字じゃない。
でも、誰のものかも分からない。
ただ──
その言葉は、
胸の奥がじんわり温かくなるほど優しかった。
---
及川さんへ。
君がこの言葉を読む夜が、
どんな夜なのかは分からない。
でも、きっと少しだけ胸がざわついて、
眠れなくなっているんじゃないかと思う。
そんな夜が、いつか君に訪れることを
未来の僕は知っている。
だから、ひとつだけ伝えたい。
焦らなくていい。
君がどんな速度で歩いても、
どんなふうに立ち止まっても、
未来の僕はちゃんと知っている。
君の歩幅は、いつだって君だけのものだ。
それから──
君はきっと、
「迷惑じゃないですか」
なんて言うんだろう。
あの日の君がそうだったように。
だから、未来の僕も同じように答える。
迷惑なわけないだろ。
君が頼ってくれることも、
弱さを見せてくれることも、
全部、僕にとっては大切なことなんだ。
君が笑っている未来を、
僕は知っている。
その笑顔に、
何度も救われてきた。
だから、どうか無理をしないでほしい。
君が君のままでいてくれたら、
それだけで十分なんだ。
君の心に、そっと灯りがともったら嬉しい。
それを僕は、心から願ってる。
---
葵はしばらく、
ページに書かれた文字を見つめていた。
胸の奥が、
ゆっくりとほどけていくような感覚がする。
誰が書いたのかなんて分からない。
見覚えのない筆跡。
思い当たる人もいない。
それでも──
その言葉は、
まるで自分のためだけに置かれた灯のように
静かに心を温めてくれた。
ページをそっと撫でると、
紙の感触が指先にやわらかく触れる。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、
自分でも分からないまま、
小さく呟いた。
部屋の空気が、
ほんの少しだけ軽くなった気がした。
葵はノートを閉じ、
布団に戻る。
さっきまで眠れなかったはずなのに、
まぶたが自然と落ちていく。
胸の奥に残った温度だけを抱えたまま、
静かに眠りへ沈んでいった。
---
朝。
窓から差し込む光で目が覚める。
机の上のノートは、
きちんと閉じられていた。
昨夜の文字も、
どこにもない。
夢だったのかもしれない。
そう思ってもいい。
でも──
胸の奥に残る温かさだけは、
確かにそこにあった。
葵はそっと息を吸う。
昨日より、少しだけ呼吸がしやすい。
それだけで十分だった。
---
光がゆっくりと部屋に満ちていく。
朝なのか昼なのか、はっきりしない。
ただ、柔らかい明るさだけが静かに漂っていた。
葵はふっと目を閉じる。
胸の奥に、遠い夜の温度がよみがえる。
──いつかの夢のこと。
机の上のノート。
見覚えのない筆跡。
「焦らなくていい」と書かれた言葉。
胸の奥がほどけていくような、あの感覚。
あの頃は、少し苦しかった。
呼吸が浅くて、眠れない夜もあった。
でも今は──
小さなことでも、すごく幸せだと思える。
そっと息を吸うと、
隣から静かな気配がした。
「……葵?」
大和が、柔らかい表情でこちらを見ていた。
その声だけで、胸の奥がゆっくり温かくなる。
葵は自然に返す。
「……ちょっと、夢のこと思い出しただけ」
大和は、そっと葵の手に触れる。
指先が軽く触れただけなのに、
それだけで十分だった。
「夢?怖かった?」
「ううん……すごく救われたの」
葵は目を伏せる。
あの夜の灯りが、
胸の奥でまだ静かに揺れている。
大和は少しだけ驚いたように目を瞬き、
すぐに柔らかく笑った。
葵はふと、大和の名前を呼んだ。
「ねえ、大和……」
大和は一瞬だけ目を見開き、すぐに優しく頷く。
「……うん」
光が二人の間にそっと流れる。
触れ合う指先も、
呼び方も、
全部が自然で、
全部が柔らかい。
葵は静かに息を吐いた。
「なんか……今はすごく楽なんだ」
大和は葵の手を包むように握り返し、
イタズラっぽく笑った。
「奇遇だな。俺もだよ」
そう言って、
葵の髪をそっと撫でた。
あの日の灯りみたいに、
胸の奥があたたかく灯った。




