第4話「旅立ちの朝」
早朝、桜は母の部屋を訪れた。障子戸を開けると、柔らかな朝の光が差し込む部屋に、母が布団に横たわり穏やかな寝息を立てている。桜は静かに母の枕元に座り、小さく声をかけた。
「母上...」
母がゆっくりと目を覚まし、かすかに目を開けて桜の顔を認めると、弱々しいが温かい声で応えた。
「桜...おはよう」
「おはようございます、母上」
「今日、出発なのね」
母の言葉に、桜は思わず目を見開いた。予想外の母の言葉に、驚きを隠せない。
「どうしてそれを?」
母は静かに微笑むと、ゆっくりと語り始めた。
「昨晩、影虎さんがいらして教えてくれたわ。あなたが旅立つこと。影虎さんは、あなたが王女様と道場に来た時から予感していたそうよ」
(師匠が...昨晩のうちに)
桜の胸に、影虎への感謝が溢れる。母を想う師匠の優しさに、心が温かくなった。
「影虎さんはあの子たちに私の身の回りのお世話をお願いするそうよ。きっと賑やかになるわ。楽しみよ」
母の言葉には、寂しさではなく前向きな期待が込められていた。弱い力ではあるが、母は桜の手を握りしめる。その確かな温もりに、桜は母の想いを感じ取った。
「桜」
母の声が、少しだけ真剣になる。
「あなたは、ルナガルド家の使命を果たしなさい」
桜は母の目を見つめた。その瞳には、決意と誇りが宿っている。
「はい」
答える桜の声が少し震える。
「あなたの父上も、きっと喜んでいるわ」
母は桜の頭に手を伸ばした。
「娘が、先祖の使命を果たすのだから」
(父上...)
桜の脳裏に、亡き父の笑顔が浮かぶ。
「お墓にある剣も一緒に連れて行ってあげて」
桜は頷いた。目頭が熱くなるが、涙は流さない。
「母上...必ず、戻ってきます」
桜の声には、強い決意が込められていた。
「ええ。待っているわ」
母が桜の頭を撫でる。幼い頃と同じ、優しい手つきだ。
「いってらっしゃい、桜」
母の穏やかな声に、桜はかすかに震える声で応えた。
「いってまいります」
桜は母に深く頭を下げ、立ち上がると、振り返ることなく部屋を後にした。
(母上...必ず、戻ります)
◆ ◆ ◆
桜は先祖の墓へ向かった。昇り始めた朝日が墓前を照らし、立ち込める朝靄が幻想的な雰囲気を醸し出している。桜は墓前に静かに座ると、しばらく無言で手を合わせた。
「父上。ご先祖様」
桜は静かに語りかける。
「我は今日、旅立ちます」
吹き抜ける風が桜の髪を揺らす。まるで父が答えているかのようだった。
「昨夜、エスペラ様と誓約を交わしました」
桜は墓石を見つめながら、強い決意を込めて続けた。
「ルナガルド家の使命を果たすため、エスペラ様に仕えます」
「先王より下賜されたこの剣を、共に連れて参ります」
桜は墓前に供えられている王家のレイピアを手に取った。鞘が朝日を受けて輝き、刀身に刻まれた刻印が目に入る。
「月の守護者ルナガルドへ - 我が想いと共にあれ」
桜は刻まれた言葉を静かに読み上げると、レイピアを腰に差した。
その重みが腰に伝わってくる。深く一礼し、桜は誓いの言葉を口にした。
「必ず、使命を果たします。そして、必ず帰ってきます」
桜は立ち上がり、墓を後にする。
その表情は引き締まり、ただ強い決意だけがそこにあった。
朝日が桜の背中を照らす。
◆ ◆ ◆
桜が道場に向かうと、影虎が道場の前で待っていた。
どうやら今日はまだ酒を呑んでいないらしい。
その手には、いつもの稽古用の刀ではなく、鞘に納められた真剣が握られている。
桜は思わず足を止めた。
「よう、桜」
影虎がいつもの調子で声をかけてくるが、その目は真剣そのものだ。
「師匠」
桜は影虎の前に立った。
「お前さんが旅立つ前に、最後の稽古だ」
桜の背筋に緊張が走る。
「真剣で...ですか?」
わずかに震える声で問いかけると、影虎は真剣に頷いた。
「ああ。お前がどこまで強くなったか、見極めさせてもらう」
影虎は一振りを桜に差し出す。桜がそれを両手で受け取ると、真剣の重みがずしりと手に伝わってきた。
影虎はもう一振りの真剣を腰に差す。
「免許皆伝がかかった試合だ」
影虎の声が低く響く。
「お前が俺に一撃でも攻撃を入れたら、お前の勝ちだ」
桜は息を呑んだ。これは最後の試練だ。
隅では、子供たちが固唾を飲んで見守っている。誰も声を出さない。
桜は日本刀を抜いた。刃が朝日を受けて輝く。構えを取り、呼吸を整える。
「いきます!」
桜が踏み込んだ。一閃。刀が風を切る。
影虎は微動だにせず、刀で軽々といなした。鋭い金属音が響き渡る。
影虎の目が鋭く光り、その口元にわずかな笑みが浮かぶ。
(やるじゃねえか!)
桜は間髪入れず、縦斬り、横斬り、突きと連続して打ち込む。
しかし影虎は、その場から一歩も動くことなく、刀を斜めに構えて桜の攻撃を全て受け流していく。
子供たちが息を呑んだ。
「すごい...」
「師匠、動いてない...」
桜の額に汗が滲み、呼吸が荒くなる。
(このままでは...一撃も入らない)
桜は一度、距離を取った。
影虎はその場に立ち尽くし、その表情には余裕が満ちている。
桜は深呼吸した。
(落ち着け...集中しろ...師匠の隙を見つけるんだ)
桜は目を閉じる。周囲の音が消えていく。
師匠の呼吸、筋肉の動き、重心の移動──全てを感じ取る。
風の音。子供たちの息遣い。
そして──
桜の目が開いた。瞳に、鋭い光が宿る。
桜は全力で踏み込んだ。風を切る音。
桜は影虎の左側へ回り込む。
影虎が刀を構える──
一閃。
布が裂ける音。
桜の一撃が影虎に届いた。
静寂。時が止まったかのようだ。
桜は刀を構えたまま、息を殺す。
影虎は袖を見た。斬れた袖から、布が風に揺れている。
影虎はにやりと笑った。
桜の全身から、緊張が抜ける。
「桜、お前さんの勝ちだ」
影虎の声が優しい。
「もう俺が教えることはなにもない」
その瞬間、子供たちが歓声を上げた。
「桜お姉ちゃん、すごい!」
「師匠に勝った!」
子供たちの声が道場に響き渡る中、桜は刀を納めた。
その手が、わずかに震えている。
影虎は桜の前に立ち、その肩に手を置いた。
「最後に、一つだけ教えておく」
影虎の声が真剣になる。
「はい」
桜は影虎の目を見た。
「お前は強い。剣の腕も、心も」
影虎は言葉を続ける。
「だが、一つだけ弱点がある」
「...弱点?」
桜は首を傾げた。
「お前は、優しすぎる」
桜は黙って聞く。影虎は遠くを見た。
「刀を抜かずに済む方法を知っているやつが本当に強い侍っていうのは昔教えたな」
「はい」
「敵を殺さないことは素晴らしいことだ」
影虎は桜の目を見る。
「だが、時には刀を抜かなくてはいけないときもある」
桜は唇を噛んだ。
「お前もすでにわかっているはずだ。お前が守るべきものは、王女様だ。王女様を守るためなら、迷うな。主君を守り抜くのが侍の道だ」
桜は影虎の目を見つめ返した。
「はい」
桜の声には、決意が込められている。
「いい目をするじゃねえか──そんじゃ、あれを持っていけ」
影虎は道場の奥へ入っていくと、一振りの日本刀を取り出した。
鞘は黒漆塗り。柄には赤い組紐が巻かれている。
桜の目が見開いた。
「師匠...これは」
「お前の父親が俺に預けていった、守月家の刀だ」
桜は息を呑んだ。
(父上の...!)
桜の胸が熱くなる。
「お前が免許皆伝を果たすまで預かっていた。今、お前に返す」
「お前の父も、お前の先祖も、この刀を振るってきた」
影虎は桜に刀を差し出した。
「お前が次の継承者だ」
桜は震える手で刀を受け取る。重い。
父の想い、先祖の想い、すべての重みが手に伝わってくる。桜は刀を胸に抱いた。
(父上...ご先祖様...)
桜は目を閉じる。涙が一筋、頬を伝った。
「父上の刀...大切に使わせていただきます」
桜の声は、決意に満ちている。
影虎は笑った。
「ああ。うっかり無くしたりするんじゃねえぞ」
影虎の声に、いつもの軽さが戻る。
「お前さんの父親に文句言われちまう」
桜は涙を拭い、笑顔を見せた。
「はい!」
桜は影虎に深く頭を下げる。
「師匠、今までありがとうございました」
「礼はいらねえ。達者でな」
桜の腰には、日本刀と、レイピアの二刀。東国と西国の剣が並んでいる。
◆ ◆ ◆
影虎との最後の稽古が終わり、桜は道場に置いてある物資で旅支度をしていた。
荷物をまとめながら道場を見回す。
(この道場で...何年、稽古をしてきただろう)
子供たちが桜の周りに集まってくる。
リーダーの少年が前に出た。
「桜さん、本当に行っちゃうの?」
桜は荷物をまとめる手を止め、子供たちを振り返った。
「ああ。我は、エスペラ様に仕えることになった」
桜は優しく微笑む。
「そっか...」
少年は寂しそうに俯いた。桜はしゃがみ込み、少年の目を見る。
「お前は立派なやつだ。お前たちがいれば、師匠も母上も安心だ」
桜はリーダーの少年の肩に手を置く。
その声には、信頼が込められている。
少年の目が見開かれた。
「しっかり頼んだぞ」
桜は少年の目を、まっすぐ見つめる。
「...はい!」
少年は、力強く頷いた。
狛犬の仮面を斜めに被った小さい女の子が、桜の袖を引っ張った。
「お姉ちゃん...」
小さい声。か細い声。
桜はしゃがみ込み、女の子と目線を合わせた。
「どうした?」
桜は優しく声をかける。
「...また会える?」
女の子の目には、涙が浮かんでいる。
桜の胸が痛んだ。桜は女の子を優しく抱きしめる。
「ああ、また会える」
「本当?」
女の子の声が震える。
「本当だ。約束する」
桜は女の子の背中を優しく撫でた。
女の子は桜にしがみつく。小さい体が、震えている。
しばらくして、女の子は桜から離れた。
涙を拭いながら、笑顔を見せる。
「...いってらっしゃい、お姉ちゃん」
「ああ、いってくる」
桜は立ち上がり、子供たち全員を見渡した。
「皆、元気でな。そして、師匠と母上をよろしく頼む」
「はい!」
子供たちは元気に返事をする。その声は、力強い。
桜は荷物を背負い、道場を後にした。
子供たちが手を振っている。桜も手を振り返す。
桜は道場を出る。振り返ると、子供たちがまだ手を振っている。
桜は深く一礼し、道場に背を向けた。
(さようなら...皆)
◆ ◆ ◆
村の入り口では、エスペラ、ウォード、リリア、アルフレッドが馬車の準備をしていた。
馬が荷物を引く質素だが丁寧に整備された馬車。
エスペラが桜に気づき、振り返った。
「桜さん、準備はできましたか?」
エスペラの優しい声に、桜は頷いた。
「はい」
桜は身の回りの物だけを入れた軽い荷物を馬車に積む。
ウォードが桜に近づき、右手を差し出した。
「守月殿、これからは我々が仲間です」
「ウォード殿、よろしくお願いします」
桜はウォードの手を握る。
騎士の手は、大きく、力強い。
リリアが桜の隣に駆け寄ってきた。
その顔には、笑顔が咲いている。
「桜さん、一緒に頑張りましょうね!」
リリアの明るい声に、桜も笑顔で応えた。
「リリアさん、よろしく」
アルフレッドが荷物を馬車に積み終え、桜に向き直る。
「桜様、道中の安全は私にお任せください」
老執事の声には、誇りが込められている。
「アルフレッド殿、お願いします」
桜は深く頭を下げた。
エスペラが桜の隣に立つ。
「では、出発しましょう」
エスペラは前を向いた。
「はい」
桜も前を向く。馬車が動き出し、車輪が地面を軋ませる。
桜は村を振り返った。村が、遠ざかっていく。
見慣れた風景。育った場所。母がいる家。師匠の道場。
(さようなら、故郷)
(我は、必ず使命を果たす)
(そして、必ず帰ってくる)
桜は前を向いた。王国への道が、まっすぐ伸びている。
エスペラが桜を見つめる。
「桜さん」
「はい」
桜はエスペラを見る。
「私たちの旅が、今始まります」
エスペラの声には、決意が込められている。
「はい、エスペラ様」
桜の声にも、同じ決意がある。
二人の目が合う。言葉はいらない。
互いの想いは、すでに通じ合っている。
桜は決意を胸に、まっすぐ前を見据えた。
腰の二刀が、陽光を受けて輝く。
守月家の日本刀と、王家のレイピア。
東国と西国、二つのルーツを背負い、桜は旅立つ。
馬車は王国への道を進んでいく。
空は青く、雲ひとつない。
風が、桜の髪を揺らす。
まるで、父が背中を押してくれているかのようだ。
新たな旅の始まりだ。
【第4話終了──第5話に続く】




