01. 冷笑罪
ベッドから身を起こして目をこする。スマートフォンで日時を確認すると、いつも起きている時間より少し早かった。
昨夜酒を飲んだせいで、眠りが浅かったのか。まだ少し寝足りない感じがしたが、今から二度寝をすると確実に寝過ごす。ため息を吐いたあとに、起床のためにかけていたアラームを解除した。そのあとインターホンが鳴った。
例えば、なにか物事を始めようとするときに、それが絶望的に馬鹿らしく、くだらないものであったとする。
家にある調味料を全部混ぜて舐め、どんな味がするか確かめてみるとか、自分が一番つまらないと思っている小説を、あえて暗唱できるようにしてみるとか。とにかく、それがどんなに無意味なことであったとしても、その取組を行おうとすること自体を嘲笑う行為は、良くないことだと思う。どんなことでも、それにより何かを発見したり、自信が付いたり、成長を得たりすることは必ずあるからだ。
何かを始めようとすることに対して、そのすべてをくだらないと嘲笑うこと。それには名前がなかったが、ある日突然名前がつけられた。
冷笑。
且つてインターネットでも現実でも、そこら中で見られる行為だったが、名前がついて、認識された途端に忌避されるようになった。
世界で最も人を殺している生物が蚊だというのは有名な話だ。しかも蚊は絶滅しても人間にとって大きな被害はないという。
冷笑は、蚊と同じだった。数え切れないほどのアイデアと挑戦を亡き者にする癖に、冷笑自体はなにも利益を生み出さない。
2020年以降、日本では冷笑が禁止されている。冷笑罪。冷笑をしたものはみな、矯正施設での懲役が科せられ、従わない場合は強制的に収容される。
流石に息苦しいのではないかという批判もあるが、五年経ったいまでは、その批判も治まってきた。
冷笑がなくなると途端にアイデアを出しやすくなったし、冷笑するのを我慢することで、精神が健全になっていく感じがあったからだ。
だから僕も、冷笑罪に対して文句はなかった。変える必要はないし、むしろ良い法律だと思っていた。今朝までは。
インターホンのモニターを確認すると、そこには二人組の警官が映っていた。
どちらも青色の制服を着ている。僕の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
警官は、白髪交じりの年老いた者と、メガネを掛けた若者の二人組みだった。
「朝早くからすみません。通報がありまして、捜査にご協力いただけますか?」
年老いたほうが、警察手帳を開いて言った。手帳には「警部補 安達敏和」とある。
「通報? 捜査ってなんのことですか?」
「細かいことは対面でお話させていただきたいのですが」
「すぐ開けます」
半袖半ズボンのパジャマの上にパーカーを羽織ると、大慌てで玄関に移動する。
声を出して初めて、自分の喉がかなり枯れていることに気づいた。酔っ払っていたせいで、記憶が曖昧だが、昨晩かなり笑ったことだけは覚えている。
嫌な予感がする。
何に笑ったのだろうか。酔っ払っているときの僕は、なんにでも笑う。一度酒を飲みながら麻雀をしているとき、友達が「初音ミク」といいながら發をきっただけで、一時間以上笑ったことがある。どうせくだらないことだろう。くだらないことであってくれ。
ドアの鍵を開けると、いきなり手錠をかけられた。抵抗はしなかったが、二人のうち一人、若い方の警官が、かなり強い力で腕を掴んできて、痛かった。
「ちょっと、痛い。痛いです」
「午前七時十一分。容疑者確保!!」
「ちょっと! なんなんですか、急に」
「吾妻弘樹さん。あなたに昨晩、冷笑罪の通報が入っています」
「僕に? 僕がですか? 絶対なにかの間違いですよ」
「詳しい話は署でさせてください」
***
学生時代は真面目だったので、万引きしたり補導されたりしたことはなかった。
二十代後半にして、生まれて初めてパトカーに乗った感想は、案外普通だなということだ。
通りすがる通勤中のサラリーマンや歩行者にじっと見られること以外は、タクシーと殆ど変わらない。
二人の警察官は、車中で僕が何を質問しても、「詳しい話は署でさせてください」としか答えてくれなかった。きっと移動中に詳細を説明しないことが規則で決まっているのだろう。
冷静になってきた僕は、車中で職場に欠勤の連絡をした。これまで当日の連絡で欠勤したことはなかったが、高熱が出て出勤出来なくなった旨を伝えると、上司は特に叱責することなく、「分かりました。お大事に」といった。
連絡を済ませたついでに冷笑罪についても調べる。それによると、冷笑罪が認定されてしまった場合、矯正施設への収監が決まるらしい。ただ、冷笑罪については、当然だが他の犯罪と区別されている。道路交通法違反と同様に前科はつかないし、職場へ連絡が行くこともない。
また、仮に職場が冷笑罪を認識したとしても、それを原因に、リストラしたり、職位を下げたりなどの人事をすることは出来ないよう、労基法でも定められているらしい。僕としては、一先ずの危険がなさそうで安心した。
矯正施設への収容期間は、一週間から最大一か月だが、三日で釈放された例もある。実際に冷笑罪を受けた者の体験談が綴られたブログを発見した。それによると、本人に反省の意思が認められる場合は短期で開放されるようだ。
一先ず様子を見て、収容が長期間に及ぶ場合のみ、職場に冷笑罪となったことを伝えよう。そう決めたところで、目的地の警察署に辿り着いた。
パトカーを降りると、そのまま大きな自動ドアから警察署へ入った。裏口などではなく、最も目立つ通常の出入り口から入るのは、罪が軽いからなのか、他の犯罪も同様なのかはわからない。たくさんの警官が事務作業をしているオフィスを横切り、最終的に小さな会議室のような場所に通された。
部屋は六人掛けの長机にパイプ椅子。そしてホワイトボードとプロジェクターがあり、照明含め、全体的に明るかった。
頭の中に思い浮かべていたのは、無骨な灰色の机に、ホコリの被った小さな照明だけがある、ドラマの中に出てくるような取調室だ。
「もっと薄暗い場所に案内されるかと思ってました」
気が抜けてそういうと、ベテランの警察官、安達の方から返答があった。
「まあ、冷笑は厳密には刑事罰ではないですからね。冷笑罪というのもあくまで俗称ですから」
声は低いが丁寧な言葉遣いで、こちらを威圧するような雰囲気はない。
朝いきなり警察に突撃され、手錠を掛けられたときは驚いたが、少しずつ緊張が溶けてきた。
「じゃあ、早速本題に入りますか」
その様子を見て、頃合いと考えたのだろう。安達が言った。
僕としても構わない。無言で頷くと、安達は説明を始めた。
「通報を受けたのは昨晩です。夜遅く、近所の居酒屋で、冷笑を受けたと」
僕は再び頷いた。
「なにか覚えていることはありますか?」
そういわれ、目をつむって思い出す。昨晩何があったか。
「友人と。多分その通報を行った人と、仕事終わりに呑みに行ったことは覚えてます。でもそこでどんな話をしていたかは、正直覚えてないです」
「ははは。まあ、呑みの席でのことですもんね」
安達がそういうと、隣に座る今藤がジッとにらみつけた。安達は目をそらして、気まずそうに苦笑する。
冷笑罪が制定されたのは最近のことで、特に高齢者には、その必要性に対して疑問を抱いているものが多い。
安達がそうなのかは分からないが、自分に対して多少同情してくれる警官が担当なのは幸運なことだろう。
安達が黙ると、今藤はそのままイライラした口調で言った。
「ご友人からの通報だけじゃないんです。冷笑の様子が、冷笑カメラにも記憶されています」
「そうですか」
僕は平然と返事をしたが、心の中では絶望していた。終わった。
冷笑カメラは、日本全国の飲食店やアミューズメント施設、歓楽街など、とにかく人が集まる施設すべてに設置が義務付けられている最新鋭の監視機器だ。
全方位カメラと高性能マイクを搭載し、記録した映像と音声に対して、AIがリアルタイムで顔の表情や文字起こしした会話文の解析を行い、冷笑が行われた事実を精確にとらえる。
冷笑カメラが冷笑を認識し、その上でここに僕が呼ばれたということは、人が確認した上でも、カメラに記録された映像と音声が、確かに冷笑であると認定されたということだろう。
今藤が立ち上がり、天井に巻き取られているプロジェクターのスクリーンを降ろした。
「映像を確認しましょう」
だから、これから録画を確認するのは、反証のためではない。矯正施設での収容で更生を促すために、どのように冷笑を行ったのかを僕に確認させるためだ。
無言でうなずくと、今藤がリモコンを天井に吊り下げられたプロジェクターに向け、ボタンを押した。
すぐにスクリーンに映像が映し出される。
映像は中央が膨らみ、端が歪んでいる。全方位カメラで撮った映像を切り取って補正したからだろう。
中心には、僕と海老川が映っている。
僕は会社帰りだったので、ノーネクタイの半袖シャツにスラックスという格好で、海老川の方は、オーバーサイズの白Tにスウェット。黒いキャップを被っていた。
テーブルの上には酒とつまみが乗っていて、僕が眠そうな目をこすりながら酒をあおろうとし、海老川が口を開きかけているところで、一時停止していた。
「冷笑が検知される直前で止めています。再生します」
今藤がそういって再度リモコンを操作すると、映像が動き出した。