06:おまじないを君に
一週間が経った水曜日の夕方、午後五時半過ぎ。
カランカラン。
『深森食堂』の扉につけられたドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
『深森食堂』と書かれた従業員用の赤いエプロンをつけ、テーブルを拭いていた私は顔を上げた。
来客を確認して、そのまま固まる。
店に入ってきたのは漣里くんだった。
「あ!」
私は目と口を丸くした。
「あ、って何。来たらまずかった?」
英語のロゴが入った黒のシャツ。
ジーパンというラフなスタイルの漣里くんは、睨むように私を見た。
眼力があるから睨んでるように見えるだけで、本当は怒ってない、はず。
「ううん、ううん、全然! いまちょうどお客さんが少なくて暇だし、漣里くんが来ないかなって思ってたから、びっくりした! 凄いタイミング! テレパシーが通じたのかも!」
両手を合わせて笑う私を、漣里くんは無言で見た。
どうやら呆れられてるみたいだ。
年下の男の子に。これはちょっと恥ずかしい。
「……すみません、テンション上げすぎました。いらっしゃいませですお客様」
私はかしこまって頭を下げた。
「……別にいいけど」
漣里くんは『別に』というのが口癖のようだ。
「先輩は表情がころころ変わって面白い」
「え」
呆れられたかと思えば、突然褒められてしまった。
にこやかに笑ってそう言ってくれたら、私もときめいたりできるんだけど。
仏頂面でそう言われると反応に困る。
いや、そもそも面白いっていうのは褒め言葉なの?
ありがとうっていう返答はおかしいよね?
「……えーと。とりあえず、こっちに来て。座って」
結局、私はスルーを決め込むことにして、漣里くんをテーブルに案内した。
テーブルの端に置いてあるメニュー表を手に取り、差し出す。
「漣里くんに助けてもらったことは親も知ってるから。もし漣里くんが来たらご馳走するって決まってたの。だから値段は気にせず、何でも好きなの頼んで……って、あれ? どうしたの、その手」
メニュー表を受け取った漣里くんの手。
左手の人差し指に、切ったような傷があった。
まだ新しい傷だ。
「ああ。昼食を作ってたときに、油で滑って。切っただけ」
漣里くんは傷を隠すように、メニュー表の後ろに指を隠した。
「『だけ』じゃないよ。結構酷い怪我じゃない。ちゃんと消毒したの?」
「いや、この程度の怪我なら放置しても治るだろ」
小さな怪我なんてどうでも良い。
そんな彼の態度に、私はムッとした。
「ご飯の前に、怪我の手当てが先だね」
お店には万が一に備えて救急箱がある。
私は漣里くんの向かいの席に座り、彼の指に絆創膏を貼った。
「痛いの痛いのとんでけー」
漣里くんの左手を包んで唱える。
「…………」
はっ!
漣里くんが何か言いたそうな顔をしている!
厨房から、お母さんがニヤニヤしながらこっちを見てる!!
私はリンゴみたいに顔を赤くしながら、ぱっと手を離した。
「ご、ごめん。子どもっぽかったね。怪我の手当をした後はお母さんがいつもやってくれるの。深森家では恒例になってて、つい」
私は照れ笑いを浮かべた。
「子どもが転んだときとかさ。一人だと転んでも泣かないのに、お母さんが『大丈夫?』って声をかけると、途端に泣き出しちゃうことってあるじゃない?」
「ああ。あるな」
「あれは自分を守ってくれるお母さんの存在に安心して、気が抜けちゃうからだと思うんだよね。このおまじないもそう。痛いの痛いのとんでけーって誰かに言われると、ああ、この人は自分がいま、痛くて苦しいことをわかってくれてるんだなって、安心するんだ。そうしたらどんなに痛くても、苦しくても、その言葉が支えになる。痛みに立ち向かう勇気をくれる」
「…………」
「なので、なんというか、その……気休めにでもなればなーと……思います」
私はだんだん頭を低くしていった。
漣里くんが何も言わないから、恥ずかしい。
子どもっぽいと思われたかな……痛い奴だって思われたらどうしよう。
上目づかいに様子を窺うと、漣里くんは無表情。
左手の絆創膏を見下ろして黙っている。
もう馬鹿にされてもいい。
なんでもいいから、お願いだから何か言ってください……!
「大怪我ならともかく、たかがかすり傷に大げさじゃないか」
沈黙の果てに、漣里くんが言った。
そこでやっと私も顔を上げて、言い返すことができた。
「そんなことないよ。『大事は小事より起こる』って、ことわざにもあるでしょう? 小さな傷だって化膿したら大変なことになるんだから。私も小学生のとき、足の小さな傷を放置したことがあるの。そしたら凄いことになったんだよ。赤く腫れてね、透明な液体が滲み出てきて、それから膿が……」
「わかった。俺が悪かった」
詳しく伝えようとすると、漣里くんが私の言葉を遮った。
グロテスクな話を好んで聞きたいと思う人は、そう多くはないだろう。
漣里くんも例外じゃなかったらしい。
『体験談を通じてわかってもらおう作戦』は成功だ。
「そうだよ」
私は大きく頷いて、テーブルの上の救急箱を閉じた。
「自分のことは誰よりも大切にしなきゃダメ。痛いのも苦しいのも、他人はそれを想像して心配することはできても、本当の意味で理解することはできないの。誰も代わってあげられないの。だから、どんな小さな痛みでも、無視するのは絶対にダメ」
これは身体の怪我に限ったことじゃないよ、と私は言った。
外から見える傷はわかりやすいから、他人が心配することができる。
でも、心の傷は誰にも見えない。
辛くても悲しくても気づけない。
自分を大切にできるのは自分だけなんだ。
「漣里くんが不幸になったら悲しむ人がいるっていうこと、忘れないで」
「…………」
漣里くんは呆けたような顔をしている。
「かすり傷ならこんなふうに血が滲んだりしないよ。痛いでしょ?」
私は絆創膏を見て顔をしかめ、再び漣里くんを見つめた。
「痛くない」
「嘘」
「本当。おまじないしてもらったから」
漣里くんは指先に力を入れて、私の手を少しだけ握り返してきた。
まるで、ありがとう、と伝えるかのように。
――あ。
私は目を見開いた。
ほんの少しだけだけど、漣里くんの口元が緩んでる。
笑ってる……。
そうか。
漣里くんは、こんな顔で笑うんだ。
初めて見る笑顔に、胸の奥がほんわり温かくなった。
「……そっか。良かった」
気休めでしかないおまじないでも、心配する気持ちが伝わったなら嬉しい。
自然と、私も笑っていた。




