44:私たちだけの秘密
「でも、もういいよ。全てが明るみになって、兄貴も他の奴らも動き出してくれた。野田はこれから相応の報いを受けることになるはずだ。先輩を苛む悪夢は終わった。だから、顔を上げてくれ」
「…………ありがとう」
床に滴を落とし、ようやく小金井くんは顔を上げた。
眼鏡を片手に持ち、手の甲で荒っぽく涙を拭う。
……なんだ。
小金井くんは、こんなふうに感情をむき出しにして泣いたり、人に謝ることだってできるんじゃないか。
そう思うと、もったいないな、という気持ちが胸のうちで膨れ上がった。
うん、凄く、もったいない。
「……ああ、全く、無様だな。人前で泣くなんて、一生の汚点だ」
小金井くんは再び眼鏡をかけ直しながら呟いた。
「そんなことないよ。ちっとも無様なんかじゃない。変に格好つけずに、感情のままに泣いて、謝って、お礼を言った小金井くんは、教室で偉そうにしているときより何倍も、何十倍も格好良かったよ。普段からそんなふうに素直でいればいいのに」
「…………」
ひねくれているという自覚があるのか、小金井くんは無言で口元を引き結んだ。
「いまの小金井くんのほうがずっと素敵だと思う。人としてとっても魅力的だよ」
私は心から笑った。
すると、小金井くんは戸惑ったような顔をした。
急に落ち着かなくなったかのように、ソワソワしながら赤くなった目をあちこちに転じ始めた。
あれ、漣里くんも何か不機嫌そう。
私が内心で首を傾げていると。
「……要するにそれは告白か? 深森は僕に惚れたと?」
「いやごめん全然違います。」
眼鏡をくいっと持ち上げ、格好つけてみせた小金井くんに、私は即座に手を振り、その盛大な勘違いをばっさり一刀両断した。
「なんだ、そうか」
ほんの少しだけ残念そうに、小金井くんは声のトーンを落とした。
漣里くん、横から疑惑の目で私を見ないでください。
心配しなくても私はあなた一筋ですから!
「ただ思ったことを言っただけだよ。いまの小金井くんを見て、普段の小金井くんは自分から魅力を捨ててるように見えたから、もったいないなって――」
「――だそうなんで、念頭に置いとけばいいことあるかもしれない」
ぐいっと、漣里くんが私の肩を掴んで引き寄せた。
自然と、頬を漣里くんの胸に押し付ける格好になる。
えっ? えっ?
こ、これはもしや、こいつは俺の彼女なんだぞっていうアピール……!?
漣里くんの胸に顔を埋めながら、私は激しく狼狽えた。顔が燃え上がるように熱い。
「話も終わったし、行くぞ真白」
「えっ? は、はい」
漣里くんは強引に話を打ち切り、私の手を引っ張って歩き出した。
「あ、あの、漣里くん? 怒ってる?」
「ちょっと」
漣里くんは即答してきた。
……あ、これはちょっとどころじゃなく、だいぶ怒ってる。
空気がぴりぴりしてるもの。
「ご、ごめん。本当に他意はなくて、ただのアドバイスのつもりだったの。小金井くんはいつも偉そうで、人を見下したような態度だから、改善したほうが良いんじゃないかなって……でも、私が好きなのは漣里くんだけだから! それは間違いないから! 他の人なんて眼中にないもの!」
「本当に?」
漣里くんはぴたっと立ち止まり、拗ねたような顔で念押ししてきた。
「うん。当たり前でしょう?」
「……じゃあ許すけど、あんまり他の男を勘違いさせるようなこと言わないで」
漣里くんの手が離れた。
「ご、ごめん……」
気まずい雰囲気の中、歩き出す。
許す、と言ったのに、漣里くんは私を見ようとはしない。
ああ、せっかく小金井くんが謝ってくれて、良い雰囲気だったのに……。
「あの、さっき小金井くんが頭を下げたとき、よく驚かなかったね。あんなことするような人じゃないって思ってたから、私、びっくりしちゃった」
私はどうにか彼の怒りを解くべく、焦りながら言った。
「ああ……」
漣里くんはそれだけ言って、背後を振り返った。
廊下にはまだ小金井くんが立っている。
この話は本人に聞かれると都合が悪いと判断したらしく、漣里くんは私を渡り廊下の端っこへと連れて行き、小声で教えてくれた。
「四月に俺があいつを助けたときのことなんだけど」
「うん」
漣里くんにつられて、私も小声で相槌を打った。
「助けた後、あいつ、号泣しながら鼻水垂らして俺に礼を言ったんだ」
「へ」
ぽかんとしてしまう。
……号泣しながら鼻水を垂らした?
あの、小金井くんが?
……脳がその光景を想像することを拒否し、軽い眩暈すら覚えた。
「だから屋上で話したとき、偉そうなあいつを見て、あまりのギャップに俺、ちょっと笑いそうになってた」
え、笑いそうになってたの?
漣里くんはあくまで無表情なので、本気なのか冗談なのかとてもわかりにくい。
ああ、でも――だから、漣里くんはあのとき『小金井はひねくれてるだけで、根はそんなに悪い奴じゃないと思う』なんて庇う発言をしたんだ。
この学校で、きっとただ一人、漣里くんだけが小金井くんの素顔を知っていたから。
酷い悪評にも耐えて、彼を庇い続けていたんだね。
「……そっか」
ようやくこれまでの漣里くんの行動、その全てに納得することができた。
「でも、これは内緒な」
「……小金井くんの名誉のために?」
どこか悪戯っぽい眼差しで言ってきた漣里くんに、私は笑った。
「ああ。あいつの名誉のために」
漣里くんが小さく顎を引く。
「わかった。それじゃあ、内緒にするね。私たちだけの秘密ってことで」
言われなくてもそのつもりだったけれど、私は唇に人差し指を当て、漣里くんと笑い合った。




