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第六話

 ――夏の気息が淡く漂う頃。

 薄曇りの空は白銀の光を拡散させ、そよ風が石畳を撫でるたび、屋敷は柔らかな呼吸を返す。


 石造りの回廊を這い上がる熱気は床の文様を揺らし、壁を打つ日差しは絹のカーテンを透かして白銀の刃を刻む。

 息を吸えば優しい風が唇を撫で、胸にそっと柔らかな温もりが満ちる。

 

 魔術訓練はもはやザハルとの実戦同等の模擬試合へと進化していた。


 魔力封印は、幾度もの巡礼のような鍛錬の末に、内殻の支配権はほぼ掌中にある。

 思念ひとつで魔力が指先へ届き、魔力回路が光に染まる感覚が、いまや私の“常”になりつつあった。


 もっとも、回帰前の絶巔にはまだ遠い。

 だが同年代の魔術士と比較すれば、私はずっと雲の上を歩いているだろう。

 

 しかしそんな比較には意味がない。

 学院卒業までに大魔導士中位を超える計画だ。

 そう考えると1日たりとも休む暇などない。

 時間は剣呑な砂時計だと、私は思う。


 ◆


 夜。

 訓練場の余熱を抱えたまま私室に戻り、就寝前の魔力循環を始める。

 外殻を開き、さらに奥の内殻まで水面を沈めるように意識を落としてゆく――途端、肉体が蒸気機関のように唸りを上げた。

 夏季の循環は苦行だ。

 集中を保つほど汗は噴き、蝋燭の炎が揺れて影が舞う。


 十分後、外殻を静かに閉じる。

 滝から引き揚げられたような躯を拭い、卓上の魔道具《涼風の匣》を指で二度叩いた。

 鈍い瑠璃色の魔石が脈光を放ち、小さな羽根車が回転を始める。

 吐き出される冷風は驚くほど弱々しいのに、肌へ触れた瞬間、熱が霧散した。

 

 魔道具とはかくも便利な文明の利器だ。

 しかし高価な魔石を惜しみなく喰らう貪欲なる箱でもある。

 その瑠璃に灯る魔石の重さは金貨の重さに等しいといわれる。

 貴族でなければ、吹いて飛ぶような一片の魔石だけで一月やり過ごさなければならない。

 ゆえに夜半の街角では、今なお獣脂のランプや蜜蝋の蝋燭が橙の鼓動を震わせている。


 貴族である私とて例外ではない。

 私の好みということもあるが、寝室の書机には常に蝋燭を点し、揺らめく炎が天井に波のような影を落とすさまを眺めるのが習わしだ。

 炎が吸うたびに細く伸び、吐くたびに丸く身を縮める呼吸は、どんな魔道具の青白い照明よりも遥かに詩的で、心を澄ませば蜜蝋のほの甘い芳香が薄衣のように肌を包む。


 さらに言えば、魔道具は総じて嵩張る。

 《涼風の匣》ほど小ぶりな装置ですら革装丁の大書に匹敵する厚みがあり、長旅の荷馬車では積み荷を圧迫する。

 工房の職人たちが魔石共振回路を縮撰し、掌に収まる携行灯を世に送り出すのは、今から十年余りも先の未来である。


 《氷結》(ᛁイサ)のルーンを己に刻めば一瞬で凍えるほどの冷気を得られる。

 だがルーン魔術は発動中、術者の魔力を蝋燭の芯のように燃やし続けるため、安眠とはほど遠い。

 

 我が家の書庫に積まれた財産目録に傷を増やすよりは、蝉時雨の夜を蝋燭の灯とともに過ごすほうが趣深い。


 琥珀の炎を眺めつつ、私は悩みへ帰還する。――悪魔ことだ。

 内殻を殆ど掌握した今なら討滅は可能だと踏んだが、奴は帝都から西へ位置するリンスカイ領ケリュエン近郊の霧林へ潜む。

 この屋敷があるヘルヴェスタ領ロクーシャから馬車で二週間はかかる場所だ。

 1ヶ月もの子供の独行には、常識も母上の許しも壁として聳えた。


 母上は家の利権より研究を愛し、常識など持たぬ人だと思ったが、子供の一人旅にはさすがに首を縦に振らない。

 私は枕元の月光を見上げ、屋敷を脱出する詭計を数えながら眠りへ滑り込んだ。


 

 ◆


 

 そして翌朝。

 意外なところからあまりにも都合の良い提案が転がり込んできた。


「リンスカイ領ケリュエンに暮らす友人から至急の書状が届きました。

 そのため私は1月この屋敷を離れます。

 それに伴い訓練を休止しようかと思ったのですが――ロキ様、よろしければご同行いただけませんか?」


 酷暑を避け、庭ではなく石窓の食堂に満ちるアルニア謹製の紅茶は、朝露を宿した薔薇弁と熟れた柑果の気配が静かに重なり合い、空気を淡い琥珀へと変えていた。

 その芳香の向こう、銀髪の師ザハルが静かに微笑んでいた。


 椅子の脚が古い樫板の床をかすかに軋ませ、私が立ち上がると同時に、淡琥珀の紅茶面に天窓の光が跳ねた。

 胸郭を震わせた衝動はその反射光と共振し、思考より早く声が滑り出る。


「お供したいです!」――言葉は刃のきらめきのように瞬き、空気に輪郭を刻んだ。


 母上への説得はザハルが引き受け、父上へは書状で静かに連絡を入れることとなった。

 準備という歯車は潤滑油を得た機械のように噛み合い、装備の点検表、旅程の地図、予備の魔石が机上で一つずつ位置を定めるたび、現実味を増していく。


 そして二日後の黎明――薄藍の天幕を切り裂く晨星の下、私たちは南西へ伸びる街道に馬車の初動を刻む手筈となった。


 胸奥に宿る決意は、夏の微風よりわずかに冷えた刃のごとく冴え渡り、歩を進めるたび鈴音に似た震えを骨髄へ伝えた。

 悪魔狩り――その言葉は遠雷の裔のように避けがたく迫り、ついに現実となって私の靴底を動かし始める――。



 ◆



 ガタゴト――錆びた車軸が擦れる乾いた音が、雲母を砕いたような微かな振動となって腰骨に染み込む。

 車輪と舗装石の細かな衝突が、脈打つ鼓動の裏返しのように一定の間隔で胸腔を叩いていた。

 

 屋敷を発って十日。

 厚布で囲われた四輪馬車の内側は、日陰の薄闇と革張りの匂いが薄荷のように混じり合い、外気より幾分涼しい。

 行軍用に敷かれた石畳はくぐもった揺れしか伝えず、五分と経たぬうちに瞼の裏側が眠りの泥で満たされる。


 向かいの座席、旅装を崩さぬまま腕を組むザハルは、頬杖をつくでもなく反芻する波岸で揺蕩う船を漕ぎ出す。

 

 なんとも気の抜けた空間だ。

 

 今は私の訓練相手として気安く談笑すら交わしていた男だが、私だけは彼の修羅のような一面を知っている。

 視線の底にひそむ鈍い赤胴色を見ると、私は時折、剣の切っ先を喉許に感じる錯覚に襲われる。

 まるで回帰前に私が見た、ザハル・ヴァンクリフが、滲み出る瞬間がある。


 そんな男と長閑な旅をしている世界線があるとは、あの時の私であれば想像も付かなかっただろう。

 最初は警戒していたものの、今ではすっかり気を緩めているのは自然なことか。


 頁をめくる指が暑さで汗ばみ、活字が滲む。

 集中の糸がふと緩み、頭蓋の内側を薄靄が漂い始めた。

 私は魔導書を静かに閉じた。


 深呼吸。

 肺胞に澄んだ空気を満たし、丹田へ緩やかに沈める。

 続いて、胸骨の奥に潜む魔核へ意識を落とし込み、そこから湧き出る魔力を、静脈と動脈の網のごとき巡る魔力回路へ送り、土属性の魔力へ変換する。

 

 固く、重く、あたかも湿り気を含んだ黒土が指先から滲み出るような感覚。

 土属性は生来不得手だだが、属性融合を極めるなら、この修練を欠くわけにはいかない。

 

 土は唯一、具象化し得る元素だ。

 形を成し、質量を帯び、重力に従う。

 一見地味な属性だが唯一性をもっている。

 

 回帰前の私には、不得手であった土と風属性に修練の時間を回す余裕がなかった。

 

 できる限りのことをしなければ終焉を回避することはできないだろう。

 だから私は僅かでも可能性があるのであれば土をも食らう覚悟がある。


 静かに魔力を循環させる私に気付き、ザハルが半ばの眠りから這い上がる。

 まぶたを閉じたまま、眉間に皺を刻み込む――魔力の流れに意識を同調させ、私の拙さを見透かすかのように。

 

 私は掌をそっと合わせ、余計な力を脱ぎ捨てる。


 合わせた掌を少し離し、空間を作る。

 作られた空間がふっと窪み、そこに土の魔素が集束する。

 渦巻く砂粒が凝縮し、やがて香炉石ほどの岩片となった。私はさらに魔力を絞り、密度を高めようとする――が、凝縮の圧が臨界を越え、岩は五センチにも満たぬ大きさでヒビを孕み、ぱきん、と乾いた音を残して崩壊した。


「――バランスが良くないです」


 低く丸い声が空気を震わせた。

 ザハルは片眼を僅かに開け、深い赤銅色の虹彩をこちらに投げかける。


「凝縮する力と比例するように、岩そのものの強度を高めバランスをとることが重要です。

 意識してもう一度やってみてください」


 助言は刃の切っ先のように正確だった。


 私は息を整え、意識を底へ潜らせる。

 土の魔力を呼び集め、拳大の岩を生成ことに成功する。

 土の魔力を呼び集める旋律に、今度は雷属性の微細な弦を重ねる。

 魔力が互いの縁を溶接するように結び合い、内部には雷光の糸が稲穂の筋のように走り、岩を紡錘形に削り出す。

 

 岩弾が淡く鳴動し、雷の力場を受けて高速回転を始めた。

 続けて風属性を吹き込む。

 唸りを上げる気流が螺旋を描き、推進力が宿る。


 私は瞼を跳ね上げ、開いた窓に向かう。

 真昼の陽光が砂金の粒子となって車内へ降りかかる。

 街道の脇に連なる森は、葉擦れの音で小さな海鳴りを孕んでいた。


 岩弾は風切り音と共に射出され、雷が尾を引き、鋼の弾丸にも似た直進で森へ飛び込む。

 樹皮の繊維が乾いた咆哮とともに裂け、直線状の巨木が二本、連鎖的に穿たれる。

 遅れてヒビ割れた幹が軋み、倒木の轟きが森の深い翳へ吸い込まれた。


 土塵の匂いと、新鮮な樹液の芳香が混ざり合う。

 私は掌を下ろし、脈拍の高鳴りを静かに手綱へ戻す。


「お見事です」


 ザハルは頬を緩め、首肯した。

 肉厚の掌がゆっくりと拍手を4つ打ち鳴らす。


 しかし、驚いたのは森だけではない。

 馬車を率いる二頭の馬が悲鳴に似た嘶きを上げ、車体が前後に激しく揺れた。

 御者は慌てて手綱を締め、落ち着かせようと声を張る――無論、次の瞬間、私の耳朶を撃ったのは叱責の嵐だった。


「だ、旦那――ちょっと! ここ街道ですぜ!? いきなり魔術をぶっ放すなんて!――」


 私は頭を低くし、深く謝罪の言葉を述べる。

 ザハルは肩を竦め、笑いを押し殺すようにして窓外へ顔を向けた。



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