第四話
ザハルとの訓練が始まり10日程が経過したころ。
いつものように訓練を終え、食事と湯を手早く済ませた私は、寝台へ潜り込むと同時に意識だけを部屋の外へ漂わせる。
廊下の先まで警戒を伸ばし、誰もいないと確信すると、静かに起き上がった。
蝋燭の火をひとつだけ灯し、床に座して深く息を吐く。
殻を外す順序は既に指の感覚に刻まれていた。
まず、最外殻。
心臓に埋め込まれた五重円環のもっとも外側が、鋼線を弾いたような高い軋みを残して解錠される。
微かな金属音が喉奥で共鳴し、冷えた井戸水のような魔力が血脈へ流れ込んだ瞬間、身中の温度が一粍下がる。
続いて外殻。
“綻ばす”――言葉に置き換えれば優雅だが、実際は裂帛に近い。
魔力が一気に膨張し、血管の壁を内側から刃でこじ開けられるような鋭痛が走る。
額と背筋に脂汗が噴き、肺は焦がれた布のように浅い呼気しか許さない。
それでも私は僅かに背筋を反らせ、精神を凪いだ湖面へ――ひとしずくの雨粒すら許さぬ静寂へ――強引に押し戻す。
外殻が壊れた刹那、潜んでいた魔力が咆吼した。
一般の魔術師五人分――否、それ以上の奔流が魔力回路を暴れ回り、骨と筋から悲鳴が上がる。
視界が白黒を反転させ、無数の針が皮膚を貫く。
耳鳴りは鼓動と同調し、重低音の鐘のように鼓膜を震わせた。
だが私は眼窩の奥で瞳を閉じ、唇を堅く結ぶ。
指先で制御図をなぞるように記憶を呼び起こし――魔力の奔流を幾重もの層に分け、円環へと誘導する。
暴れる渦はやがて堰堤を与えられた大河のように速度を緩め、規則を宿した。
痛みは鋭刃から鈍杖へ変わり、汗にまみれた夜着が肌に貼り付く冷たさだけが現実を縫いとめる。
どれほどの時間が過ぎたのか、もはや計れない。
私の魔力回路は大河を受け止める水門の如く拡張し、魔力は重い静穏の湖面へ姿を変えていた。
胸郭の奥で燦然と輝くその湖は、深淵を思わせる静けさで鼓動と共鳴し、私の肉体を支配する。
異常がないと判断すると、私はすぐさま逆順で封印を閉じた。
鎖を嵌めるたびに魔力は大人しく睡眠へ戻り、最後に最外殻が静かに重なり合って音を鎮める。
ひと息ごとに乾いた咽が焼けるように苦しく、指先は痺れて震えていたが、私は乱れた呼吸を整え、新しい寝間着へ着替えた。
汗は尚も滴り、髪の生え際をつたって背へ落ちる。
けれど痛みの去った四肢は、風呂上がりの湯気のような軽さを帯び、魔力回路は拡大したまま静かに鼓動していた。
私は寝台へ身を沈めると、深い闇が視界を包み、思考を残したまま夢の底へと墜ちていった。
不規則に脈動する魔力の余韻だけが、胎児の鼓動のように微かに耳奥で鳴り続けていた。
◆
夜が明け、稜線を縫う薄雲が桃色の鱗を散らすころ。
今日は珍しくザハルの訓練が休みと知らされていた私は、自室で制御訓練を反芻するか、書庫で文献を漁るか――そんな瑣末な予定を巡らせていた。
そんな矢先、予期せぬ報せが扉を叩く。
呼び出し人は母、エレンディア・ヘルヴェスタ。
地下研究室に籠もりきりで“屋敷にいる”というより“屋敷の地脈と化している”人物。
私事には淡泊で、研究に情熱を燃やすその姿勢は尊敬すべきでありながら、少々厄介でもある。
私は屋敷の地下へ降りた。
石階段の奥に広がる研究室は、魔導書と乱雑なメモ紙、薬瓶、魔石の欠片が層を成し、さながら知の地層とでも呼ぶべきものが出来上がっていた。
ランプオイルに溶けた薬草の匂いが湿った空気を満たし、天井近くの排気孔から漏れる蒸気が虹色の靄となって漂う。
母上は、積み上げた書の山に半身を呑まれながらも、紅玉の瞳を煌かせて筆を走らせていた。
彼女の髪――熟れ過ぎた柘榴を思わせる深紅――は無造作に一本の革紐で束ねられ、灯火に照らされて暗い銅の艶を宿す。
三十代後半という年齢を感じさせぬ精悍さの裏に、徹夜を重ねた影が頬へ淡く刻まれていた。
「何様でしょうか」
私の問いかけに、母上は顔を上げることなく指先で紙を弾き出す。
乾いた音が室内に跳ね、紙片は風切羽のように舞い私の胸元へ届く。
「あなたが水と闇に適性があると聞いたわ。ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
魔術関係――案の定だ。
私は紙片を受け取り、斜めに走る数式と術式線を一瞥する。
そこに描かれていたのは、高等魔術理論の中でも最先端たる分野――属性融合理論の断片だった。
「母上、このメモは……?」
幼子の振りで首を傾げる。
「うちの秘血魔術である銀葬聖華《アルヴ=ラメント》の改良案、そのプロトタイプよ」
秘血魔術――一部の高位貴族にのみ連綿と伝わる、一族固有の秘匿魔術の総称だ。
我がヘルヴェスタ家に伝わる銀葬聖華《アルヴ=ラメント》は、水──厳密には氷属性を基盤とした広域戦略魔術だ。
銀葬聖華《アルヴ=ラメント》は氷を生み出し、戦野を白銀の棺へ変える水属性魔術の秘奥だが、紙片には闇の魔力を混ぜ込んで温度を奪い、聖華を形成する全く新しいルートが提案されていた。
「これを私に試せ、というのは無理があるのでは……」
「そう? 理論、理解できたでしょう?」
いつのまにか母上は目前に立ち、私の手首をすっと掴む。
触れた瞬間、彼女の魔力が肌下に潜り込み、血管の流速までも計測する精度で魔力回路を撫でた。
「ほら、シキより上等な魔力回路じゃない。躊躇する理由はないわ」
シキ――学院在学中の兄の名が出たことで、私は内心肩を竦める。
母上は私を椅子へ座らせ、研究机の上を片づける素振りもなく実験を促した。
指示通り、水属性魔力を呼び、掌に珠を形づくる。
珠の内部に刻まれた水紋が淡く輝く。
そこへ闇属性をゆっくりと滲ませるイメージで流し込む。
深く、暗く、黙してすべてを奪う夜の孤独を思い描く。
刹那、魔力珠は漆黒に染まり、凍結音を立てて硬質化した。
艶やかな闇の氷核。
その表面には、まるで葬列の柩を飾る花冠のように、繊細な黒い氷花が幾千も咲き零れている。
「やっぱり出来たわね!」
母上は満足げに頷くと、新たな紙を引き出し、筆記を始める。
「ザハルには上手く言っておくわ。あなたの訓練計画、少し調整しておいてあげる」
私の胸を見透かすような微笑。
初学者を装う裏事情――それさえ母上には筒抜けらしい。
「……あ、ありがとうございます」
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
父上よりも、ザハルよりも。
母上の洞察は、私にとって最恐の存在だと、あらためて思い知った。
◆
夜明けの光が寝台の薄絹を透かして群青を溶かす頃――私は机に凭れ、静かに羽根ペンを走らせ、かつての記憶を書き留めていた。
煤けた油灯がひとつ、書きつける紙を黄水晶の色で染め、インクの匂いが呼気と交わって淡い苦味を残す。
インクに揺れる微かな波紋を見つめながら、“かつての自分”が辿った軌跡を反芻する。
回帰前の私は、その大半を研究者として過ごしていた。
卓上に積み重なり雪崩れた写本、無造作に転がりインクを零すペン、昼夜問わず灯る蝋燭の濃い香りに囲まれた日々。
研究室に置かれた書架は複雑に絡み合い、まるで深海魚の骨格のように無数の枝を伸ばし、その狭間には星雲にも似た埃が、微かな蠟燭の光を反射し漂う。
私はその中心で、ひたすらに魔術の構造を解体し、組み替え、再構築し続けた。
類まれなる魔術の才を持ちながら、私は戦場ではなく研究を選んだ。
父上はそれを深く嘆き、「戦炎の下でこそ、お前の才能は真に証明される」と断じてた。
だが、母上は違った。
彼女は真理のを愛し、その静謐な煌めきをこそ“美”と呼び崇拝していた。
いま思えば、私はずっと母上の影を踏み続けていたのだろう。
世界最強魔術師と囃し立てられたあの刻でさえ、私の内奥で燃える火は、戦野の焰ではなく研究に対する熱意だった。
そんな私が研究室の扉を開け、戦場へ足を踏み入れたのは、終末まで残り5年を切った頃だった。
きっかけは、かつて机上で組み上げた2冊の薄い魔導書──『銀系汎用魔術七式』と『金系汎用魔術十一式』。
属性に縛られず、魔力を“射出形態”という概念へ折り畳んで再構築した遠距離魔術体系は、どの兵士にも「射線」を与え、前線に無数の光条を走らせた。
論理は恐ろしく単純だった。――五大元素のうち1つへ変換できるだけの才覚と、それを支えるだけの魔力があれば十分だった。
それさえ備わっていれば、矢は炎にも氷にも雷にも化け、陣形の上に“弾幕”という夜の帳を垂らした。
汎用魔術と名打っている通り、どの属性であっても同一の単純なプロセスで魔術を構築できた。
だが皮肉なことに、この実用性が私を戦場へと押し出した。
最も深い魔力の炉心――帝国一の保有魔力を抱えていたのは開発者たる私自身だった。
帝国は躊躇いなく、その炉を真紅の炎で煽り、前線のど真ん中へ叩きつけた。
いつしか私は『金系汎用魔術十一式』を更に私用へ浚い、高密度に魔力を凝縮する《ヴィルリオ三式》を開発した。
一撃ごとに過飽和した魔力は、術式の爆散をも強引に押し留め、血肉すら朽ち果てぬ凄烈な力を解き放つ。
要は私の莫大な魔力量に頼った力押しだった。
夜空を引き裂く流星のようだった私の魔術は、敵も味方も皆、息を呑んだ。
そして戦場は深い静寂に包まれ、私はただ一人、剣呑な闇の中心に立ち尽くす。
そうしていつしか、「世界最強魔術師」という虚名が、私の意志とは無関係に冠せられた。
回帰前を超えるための鍵は、魔術の理解を髄の髄まで深め、“悪魔を殺す魔術”を掌中に宿すことだ。
悪魔王エンヴィターミナルの降臨を企む13体の悪魔。
回帰前、私はそのうち7体の所在を握り、4体を葬った。
しかしそれだけでは終焉を止めることはできなかった。
全ての魔を討ち果たし、この世から根絶せねばならない。
今なお記憶に残る7体の所在──そのうち1体はまだ力を蓄えきらず、今の私でも倒せる可能性がある。
だから私は決めた。
悪魔を狩ろうと。




