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黒木夜人の目の前には今にも食らいついてきそうなドラゴンがいる。
そのドラゴンと夜人の間には、これまで幾千人、幾万人が抜こうと試みてだれも抜くことが叶わなかった聖剣を握る幼馴染、霧崎雪乃が立っている。
なんなら黒木も聖剣を抜こうとした一人。七歳の頃から毎日欠かさず聖剣が刺さった丘に通い、今日こそはと願っては儚く散ってきた。
そんな喉から手が出るほど欲しい代物がいま、幼馴染の手に握られている事実に夜人はどんな感情を抱けばいいのかわからなかった。
「すまない夜人……どうやら私が選ばれたようだ……」
背中の中ほどまで伸びた黒いポニーテールと制服のスカートが風になびく。
その名に似つかわしいほど白く透き通った肌をもつ雪乃が、さくらんぼのように赤い唇を細くしなやかな自身の指先でなぞり、その手を剣の柄に伸ばした。
「勇者とやらに!」
彼女が剣を振るうと、凄まじい衝撃波が放たれたーーーー。
夜人は心の中で呟いた。
俺……聖剣抜くために十年努力したんだけどーーーー?
※ ※ ※
十年前、東京湾上空に異世界への門が開き、魔王ルシファー率いる魔王軍が地球を征服するために侵略を開始した。
魔王に立ち向かったのが、日本から異世界に転移して単身魔王を倒すために戦い続けていた勇者。
彼は東京湾の上空で激闘を繰り広げ、東京タワーは引っこ抜かれるわスカイツリーは粉々になるわ、東京湾が半分干上がるわ高尾山は平らになるわ、それはもうすんごい被害をだして地球を救ったのだった。
残念ながら勇者は魔王を封印後に戦いの怪我が原因で死亡。彼が握っていた聖剣は地面がせりあがって干上がってしまった東京湾の沖合に突き刺さり、所有者の没後は誰がなにをやっても抜くことはできなかった。
ーーーー時は現代にもどって西暦2035年。
東京湾の沖合にできた島は「勇者島」と名づけられ、新たな区として追加された。
さらに勇者島には異世界につながる門が開かれていることから、新エネルギーである魔素の供給が多く、魔素について調べる科学者や新たなエネルギーでビジネスをする人々が集まった。
そうして日本は世界で唯一の魔素供給国となり発展。
勇者島は科学者企業その他もろもろからがっぽり税金をむしりとりつつも聖剣を目玉にした観光業でも潤いつつ、魔素に関する学問が盛んなことから多くの学校を設立。学園島なんて呼ばれることもあるほど学生が多い。
そんな勇者島はランドマークでもある聖剣を抜くために世界中から人々が集まってくる。
黒木夜人もまた、その一人だ。
観光客との違いは彼がこの島に住む学生で、聖剣を抜くために十年も費やしているということくらいだろうか。
「ぐぬぬぬぬぬぬ……」
「はーい、お時間です。次の方どうぞー」
「ぶはあああああ!」
スタッフの持つストップウォッチが鳴り、夜人の番は終わった。
しぶしぶ聖剣の柄から手を離し、列からも離れる。
今日の成果はゼロミリ。昨日もゼロミリ。でも明日はわからない。
じんじんする手をニギニギしながら夜人は頬をひきつらせつつ笑った。
今日抜けなかったからって焦ることはない。どうせここに集まっている連中は本気で抜こうとしている奴なんていないからだ。
観光の思い出作りとか、宝くじ感覚で抜けちゃったらどーしよーとか、そんな軟派な考えで来ているだけだ。
夜人は違った。十年前に勇者がこの世界にあらわれてその姿を見て以来、夜人の目標は聖剣を抜くことになった。
それまではなんの夢もなく若さという名の時の貯金を食いつぶすような人生を送っていた彼だったが、夢のために心を入れ替え、体を鍛えて武道を極め、学問に精を出し、ボランティアに熱心になるという生き方に変わった。
すべては聖剣を引き抜くため。そのために強い体と心を手に入れるための行動だった。そのために捧げた十年だった。
そこまでの熱意をもって抜きにくる輩なんてここにいるだろうか?
いないだろう。夜人のライフワークは、彼にとってひとつの自慢でもあった。
赤くなった手を摩りながら列の最後尾に戻ってくると、霧崎雪乃がゲートに背をもたれかけさせながら待っていた。
「今日はどう?」
「最高だった」
「……なにが?」
「剣の……握り心地が……」
雪乃は、心底呆れたようにため息をついた。
「毎日三時間も並んでそれが成果とは……泣けてくるよ私は」
「うるせぇ……」
泣きたいのはこっちだよ、なんていったって毎日並んでいるのは事実なのでしかたがない。夜人のルーチンワークに付き合っている雪乃にも負担がかかっているのだから多少の愚痴は許そうと思う。
雪野は長いポニーテールを振り乱し背を向けた。
「夜人につきあったのだから、こんどは私につきあってもらうぞ」
「わかったわかった」
夜人と雪乃は繁華街に入った。
それから裏路地を通って、階段を上って、階段を下って、また階段を上って、そしてまた階段を……。
勇者島は人工島であるため面積に限りがある。限りある面積を有効活用するために異様にアップダウンが多い。
えっちらおっちら階段を上り下りしながら到着したのは、学校だった。
「まーた、学校かよ!」
「いいから付き合え。大会が近いのだ」
雪野にせっつかれ、夜人は校内に入った。
今日は土曜日。部活動に勤しむ生徒たちがいるくらいで廊下は寂しいものだった。
吹奏楽部の音程が外れた演奏を遠く聞きつつ、二人は武道場にやってきた。
武道場は静かだ。夏だというのにどこかひんやりとした空気が漂っている。防音処理でもされているのではないかと疑うほど、外界の雑音も全く聞こえない。
二人は竹刀を手に向かい合う。
夜人はどこか落ち着かない様子で、雪乃はまっすぐ彼を見つめている。
「夜人」
雪野が竹刀を持ち上げて切っ先を夜人に向けた。
「覚悟はいいか?」
「それ、こっちの台詞じゃないか?」
夜人のイキった発言に大して、雪乃はふっと鼻で笑った。
「愚問だったな……」
雪野は中段で構えるが、夜人は竹刀を握った左手をだらりと下げたままだ。
「行くぞ!」
雪野が一足で距離をつめてきた。竹刀の先端が夜人の額に向かって振り下ろされる。
夜人は半歩体をひねって竹刀を躱し、右手で竹刀の柄を握ってすれ違いざまに振り抜いた。
腹部をなぞるように振り抜かれた竹刀を、夜人はゆっくりと左手に納刀したのだった。
「くっ……これで、二七三戦、全敗か……」
雪野は腹を抑えて膝をついた。
間違っても夜人は本気で彼女の腹をぶっ叩いたりなどしていない。なのでダメージはないはずなのだが、雪乃は苦悶の表情を浮かべていた。
「俺とやったって試合に勝てるわけじゃないだろ。なんで俺なんかとやるんだよ」
夜人は肩に竹刀を乗せながら尋ねた。雪乃が無事なのは切った本人が一番よくわかっている。
雪野は女子剣道部の主将。中学時代は個人戦で全国大会までいった凄腕の剣道少女だ。そんな彼女がなぜ自分のような我流剣士に挑んでくるのかまったくわからなかった。
剣道の試合は形式ばっている。戦う場所が定められていて、審判がいて、観客もいる。
そんな環境で戦うことに慣れている剣道部員と、我流で剣術を極めている夜人とではまったく性質が違うはずだ。
現に雪乃は試合では無類の強さを誇っている。
「私がゆいいつ勝てないのが夜人だからだが?」
「だが? といわれても困るんだが?」
「なぜ私は夜人に勝てないんだ……悔しい!」
雪野は拳で床を叩きつけて歯噛みしていた。
「お前は型にはまれば強いタイプなんだよ。勝つための方程式を頭の中で考えて実行するタイプだろ」
とはいえ考えた通りに体が動けば苦労はない。
だれしも、自分がこうして相手がこう来たらこう! みたいな妄想くらいはしたことがあるだろうが、そんなにうまくいくことなんかない。皆無と言っていい。
それを試合という環境に限定しているとはいえ実行できる雪乃はやはり才女というほかない。
「みんなそうしているだろう」
「できりゃ苦労しねーよ。普通はその場その場で対応して攻め方を変えるもんだ」
「そういった柔軟な戦い方も、試合ではできるのだ……」
雪野は口を尖らせていった。
「俺は試合なんて想定していない。いつだって実戦だ」
だから夜人は構えない。相手がどう来るかわからないので見定めてから攻めに転じる。これが雪乃には一番効くことを彼は知っている。
夜人の言葉に、雪乃ははっとしたような顔になった。
それから少し間を置いて、彼女は小さく笑った。
「やはり夜人と戦うのはいいな。また頼むぞ」
彼女は姿勢をただし、床に三つ指をついてお辞儀した。
「気が向いたらな」
夜人は竹刀を壁に立てかけて、武道場を後にしたのだった。
武道場を出て校舎をぐるりとまわった裏手側。林道を抜けたその先に寮がある。
三階建てで食堂付き。ワイファイも清掃ロボットも完備。最新の設備が揃った学生寮だ。
これで家賃は一万円だというのだから驚きだ。これも日本が魔素研究で発展したおかげである。税金万歳。
寮の玄関で指紋認証をクリアして中に入った。エレベーターはあえて使わずに階段で三階まで上がり角部屋に入った。
部屋は八畳のワンルーム。玄関から入ってすぐの廊下にキッチンがあるタイプの部屋だ。もっとも寮に食堂があるのでキッチンで作るのはカップ麺くらいのものなのだが。
夜人は廊下を進んでリビングに入ると、そこには様々な筋トレグッズが置かれていた。
ルームランナーやベンチプレスはもちろんのこと、各種ウェイトがセットになったダンベル。握力グリッパー。サンドバッグまで置かれている。
壁には大量のポスター。それはどれも聖剣や勇者を描いたものだ。
棚には聖剣や勇者のフィギュアも置かれている。
時計を見ると時刻は午後四時。夕食まであと三時間ある。夜人は一汗かこうと思い、腕立てふせを始めた。
ゆるりと書いていきます。