走馬灯
夢を見ていた。それは快楽的かつ不安定なものでありながらも、奇妙な安らぎのある夢だった。
当時の僕は、不慣れな幸福に戸惑い、謙遜し、しかしそれも束の間、やがて慣れつつあった頃には、ずっとこの時が続けばよいと願いだし、挙句それですら、根拠もなく未来を約束させてしまうような、そんな無責任で、淡い夢を見ていた。他に余裕など微塵もなかった。それでいて恐ろしいことに、自惚れていた。
人生は思い通りにいかないから面白いのだと、誰かが言っていた気がする。しかしそんなのは間違いだ。それで何が面白い。全部上手くいった方が、そうして楽しいことばかりの方が、ずっといいに決まっているじゃないか。
出会いは必然だった。女性という生き物を知らなかった僕のために、シュンが全てを用意してくれたのだ。
高校で出会ったシュンは大学が別になってからもよく遊ぶ仲で、20歳になってから、シュンの僕に対する心配は一層増していたようだった。そんなに人のことを考えられる奴が、そんなに面倒を見てくれる奴が、一体どこにいる。僕にとって親愛とは、彼のために存在する言葉のようにさえ思えていた。僕がこんな人間だったから、そして、シュンがそんな人間だったから、僕の人生はそのとき、真に色づき始めたのだった。
シュンとその彼女のユイちゃん、そしてユイちゃんの親友であるアヤカちゃんを含めた3人に僕を入れて、4人で遊園地に遊びに出掛けることになった。行く気など中々起きなかった。僕からすればそんな話、断るのが当然だった。だから最初は断っていた。今思えば、どれほど可愛げがなく、救いようのない人間に見えていただろう。
「いいよそんなの。僕がいても白けるだけだ」
朗らかに誘ってくれるシュンに対して、僕はそんな言葉を繰り返していた。そうするとシュンは、いい加減にしろと言わんばかりに、説教じみた口調で僕を黙らせた。
「お前、一生童貞でいいのかよ。女の肌に触れないまま死んでいいのかよ。これが最後のチャンスだって言われてもお前、まだ弱音吐けるか」
はっとした。僕は今まで、幾度となくチャンスを逃してきた。しかしそれらによる自責は、「今じゃなくていい」という浅はかな思考によって、いつだってかき消してきた。愚かな正当化を癖づけ、そうする能力だけが秀でてしまっていたのだ。そうして、焦る心に目を閉じ続けてきたのだ。
しかしそんなことは、「最後のチャンスかもしれない」という単純な可能性によって崩れ落ちた。漠然とした未来に押し付けておけばよかったものは、「最後」という一言によって、真っ向から否定されてしまうのだった。
そしてそれを悟った瞬間、僕の意志は変化した。それはすぐに「行ってみるよ」と、言葉になって現れた。前向きな返事をしたのだ。そのとき僕はついに、自らチャンスを掴みにいくことを決心したのだ。
遊園地に行く当日の朝は、案外平常心だった。それがあの改心の影響によるものなのか、はたまた、今日という1日に現実味がなさすぎたからなのか、どちらだったのかは今ではもうわからない。ただ、女性と遊ぶことには当然慣れていないし、そんなことがあれば落ち着きなど保っていられないというのが本来の僕の姿であった。自分が変化していることは明らかだった。
髭を剃り、髪を整え、新品の服を着た。「まずは身だしなみからだ」とシュンが教えてくれたのだった。その日のために人生で初めて服を買った。新しい気持ちを知った。自分のために服を選び、購入し、着るときのことを考えてワクワクした。そんな充実感を知ったのだ。
同時に、少し後悔もした。何事もやるとやらないとでは大きな差がついていくことを実感したからだ。たった一度、服を買ったことでさえ、とても新鮮で刺激的な経験になった。もし、もっと早くファッションに興味を持っていれば、僕はまた違う人生を歩んでいたのかもしれない。それだけでない。例えば、もっと美容にも気を使っていれば、もっと健康的な生活であったならば、また、もっと多くの人と話していれば、もっと人の誘いに乗っていれば、築かれる人間関係も何もかも今とは異なり、もしかすると既に彼女ができていてもおかしくなかったのではないかなどと、そんなことを考えたりもした。シュンに彼女がいて、僕にはいない。他人と自分にそのような差異があるのは、きっとそれまでの意識や行動の積み重ねによるものなのだと理解した。しかし過去を悔やんでいる暇はない。自分を変えたいなら、これからどうするかだ。もっというと、常に目の前のことに、つまり現在に集中するべきなのだ。そして僕は目の前の今日というその日を良いものにする必要があった。そうしてこれから、変わっていけばいい。そんな気持ちで、僕は家を出発したのだった。
駅に着くと、改札前にシュンとユイちゃんが見えた。まだアヤカちゃんは到着していないようだった。
「あ、コウイチ君。久しぶり」
近づく僕に、数メートル手前で気付いたユイちゃんが言った。
「久しぶり。晴れてよかった」
無難に返事をした。ユイちゃんとは何度か会ったことがある。数か月前に2人が付き合い始めたときにはシュンから直接紹介されたし、2人で飲んでいるところに途中からシュンに呼ばれて3人で一緒に飲んだこともある。チラリと目線をずらすと、隣にいたシュンと目が合った。
「お、コウイチ! それ新しい服? いいじゃん」
微笑みながら、シュンが話しかけてきた。相変わらず明るい奴だと思った。
「ありがとう。選ぶのに2時間くらい掛かったから、苦労したわ」
「ははっ。お前あんまり買い物とかしないもんな。気合い入ってんじゃん」
図星を突かれ、こちらも笑うことしかできなかった。
「おまたせー! みんなもう揃ってたんだ」
他愛のない会話をしていると、後ろから元気な声が聞こえてきた。振り返ると、天使がいた。
「あ、はじめまして! ユイの友達のアヤカです。今日はお願いします!」
天使は僕の目を見てそう言った。そうして、僕に流れる時間を2、3秒止めた。茶髪のボブがよく似合う、丸い目をした小柄な女の子だった。その天真爛漫な見た目と声に、僕の心は掴まれた。紛れのない一目惚れだった。
「は、じめまして、コウイチです。よろしくお願いします」
ぎこちなく、情けない声が出た。
「緊張しすぎだろ。そんなんでジェットコースター楽しめんのかー?」
たまらずシュンが口を挟んだ。おかげで場に笑いが生まれた。僕は小さく「あはは」と笑うのに精一杯で、自分が赤面しているのを感じた。朝の平常心は、既に失われているのだった。
平日の昼ということもあり、電車内は空いていた。車両内の中央に伸びる通路を挟んで、座ると向かい合うように設置されたよくある構造の座席に、シュン、ユイちゃん、アヤカちゃん、僕の順に座った。
「みんな何乗りたい? 俺はすぐにでもジェットコースターいきたいかなぁ」
シュンの待ちきれないといった声が聞こえた。
「ジェットコースター楽しみ! めっちゃすごいらしいよ」
無邪気な笑顔を振りまきながらユイちゃんがそう言った。2人の方を向きながら、アヤカちゃんはうんうんと元気に頷いていた。僕はその丸く膨らんだ左の頬を、後ろから見ているだけなのだった。
全く、これだから僕は駄目なんだ。会話にも入れず、存在感もない。特に女性や知らない人の前では、一層酷くなってしまう。ましてや初対面の女性だなんて、到底僕が交われるような人種ではないのだ。結局、いつもの僕に戻ってしまう。そうして、また自分の殻に閉じこもってしまう。そんな悪い予感がして、はっと気が付き、ああいけないいけないと自分に抵抗するも、またすぐに自信をなくす。そんなことを一度か二度、一人で勝手に繰り返していると、天使がこちらに振り向いた。
「ねぇ。コウイチ君は、ジェットコースターとか平気な人?」
僕の膝をポンポンと叩き、首を少し傾けながら、子供のような顔をしてアヤカちゃんはそう聞いてきた。あざとい。きっとわざとじゃないのだろうが、あざとい。僕にはただ、そう思われた。
「まあ、ん、乗りながらバンザイ、できちゃうくらいには、平気かな」
僕なりの、冗談だった。
「あはは。手上げるのだったら、みんなするじゃん」
「そ、そっかそっか、たしかに」
「私、ジェットコースター自体は好きなんだけど、乗るとすごい叫んじゃう人だから、隣でもしうるさかったら、ごめんね?」
そう言って彼女は微笑んだ。守りたいって、思ってしまった。だってずるいや、そんなの。
遊園地に入るや否や、賑やかな声とポップな音楽が僕らを包んだ。全身の血が騒ぎ、踊り出した。
「きたきたきた~。うわー全部乗りてぇー」
シュンがわかりやすく高揚し始めた。
「ねえねえ、あれ乗ろうよあれ! さっきシュン君も言ってた!」
アヤカちゃんはそう言いながら、ジェットコースターを指差した。この遊園地の名物だ。目立つものにまっしぐらに食いつく、その素直で純粋な姿が、見ていてとても愛おしく感じた。彼女に対する第一印象が、さらに強く、間違いのないものだと認識させられた。そうして僕の恋心も、さらに激しく、揺り動かされたような気がした。
「いいねー! いっちゃおーう!」
シュンの掛け声と共に、みんなの足元が弾んだ。僕は、自分が今ここにいる幸せを、静かに噛み締めるのだった。
「4名様ですね、どうぞ」
数十分の待ち時間の末、ついに僕らが呼ばれた。前から2、3番目の座席に案内された。車両は縦2列になっていたので、シュンとユイちゃん、その後ろに僕とアヤカちゃんがペアになって座った。アヤカちゃんは安全バーを下げながら、「前の方に座れて嬉しい」と微笑んでいた。
いよいよ発進。ゆっくりと動き出すその瞬間は、いつだって僕らを浮つかせる。ガタゴトと音を立てながら最高点に達した車両は、地面を向いて一直線に急降下した。凄まじい風と、とめどない景色が、愉快な恐怖となって僕らを襲った。隣のアヤカちゃんは、思い切り絶叫しながら楽しんでいた。僕も、純粋に楽しかった。久しぶりの刺激だった。
そのとき、右腕に軽い圧迫を感じた。見ると、アヤカちゃんの左手がぎゅっと握られていた。青春を、感じた。そんなもの、僕は知らなかった。あたたかくて、心地良くて、夢みたいだった。アヤカちゃんが、僕の腕だと気付かずに無意識でやっていたのか、そうだとわかっていてやっていたのか、そんなことはわからなかったけれども、少なくとも僕はこの人に、恋をさせられているのだった。
昼食の時間。食事というのは、いつだって幸せな気分になれる。特に誰かと共に過ごすその時間は、さらに関係性を深めるチャンスにもなり得る。しかしこのときの僕は、他でもないアヤカちゃんの何気ない一言によって、身悶えすることになるのだった。
食べ始めて数分、話題は「好きな芸能人について」といったものだった。俗に言う、推しだ。
「コウイチ君は?」
僕の番が来た。他の3人が、それぞれ推している俳優や歌手を挙げて話し終えたところ、最後に残った僕にアヤカちゃんが順番を促してくれたのだ。
僕には明確な推しがいた。それは女性アイドルグループのメンバーの一人で、初めて見たときから、その顔立ちと歌声に魅了され、すっかりファンになってしまったのだ。別に隠す必要も嘘をつく必要もない。現にみんな、自分の推しについて語ってくれたのだし、僕も話して然るべきではないか。それに、推しのことならきっとたくさん話せる。4人が集合してから一番口数が少ないのが誰であるかは明白であるし、ここは状況的にも、そしてアヤカちゃんに僕のことを知ってもらうためにも、チャンスと言えるべき瞬間だ。そう思った僕は、ゆっくりと、落ち着いて、推しについての紹介を始めた。その途中のことだった。
「ねえねえ、その子の写真は? 見たい!」
そのアイドルグループについてよく知らないアヤカちゃんがそう言ってきた。自分のスマホで検索すればいいものを、そんなに前のめりに聞いてくれるのなら、こちらも悪い気はしない。僕は推しの写真をスマホに表示させ、彼女に見せた。
「可愛いー! ボブなんだ! めっちゃ元気そうなアイドルって感じ!」
アヤカちゃんの大きな反応に、思わず嬉しくなった。
「そうそう。今は黒髪になっちゃったんだけど、この茶髪にボブの時期が一番好きなんだよね。もう見た目から元気で、イメージ通りの高い声も相まって最高なんだよ」
「茶髪にボブって、今の私じゃん! 私も推してくれるってこと?」
冗談っぽく、アヤカちゃんはそう言った。僕にとっては、感電だった。体は固まり、目は動揺を訴え、口は発声を忘れるのだった。わかりやすく狼狽し、僕は何も答えられないでいた。ここで気の利いた返しができたのなら、こんな醜態、晒さず済んだのに。そう思って、自分の力不足を痛感するだけなのだった。
しかし言われてみれば、僕はこういう子がタイプなのかもしれない。茶髪のボブに、エネルギッシュで純粋そうな女の子。そんな子を見ているだけで、そんな子が近くにいてくれるだけで、自分の駄目なところまでもが、綺麗に浄化されていくような気がするのかもしれない。僕は身悶えしながらも、そんなことを考えるのだった。
「おいおい、焦りすぎだろ」
シュンのいじりで、笑いが起こった。またシュンに助けられた。お陰で空気が和み、いささか緊張も解れ、やっと僕の口は動きだしたのだった。
「え、と、アヤカちゃんは初対面だし、その、まだわからないというか、推しとアヤカちゃんは、また全然違うというか、ただアヤカちゃんはアヤカちゃんの……」と言いかけたところで、シュンが笑いながら言い放った。
「誰がそんな、真面目に答えるんだよ」
さっきよりも、長く大きな笑いが起こった。シュンはみんなが思っていたことを、綺麗に代弁してくれたようだった。弾ける笑い声の中、僕は羞恥心で満たされていくだけなのだった。
「コウイチ君って、面白いね」
涙を拭いながら、アヤカちゃんはそう言った。僕はその言葉に、何だかとても救われたらしかった。
アヤカちゃんと僕の交際が始まったのは、それから1週間後のことだった。無論、人生で初めての彼女だった。
シュンに促され、人生最大の勇気を出し、デートに誘った。その1回目のデートの日に、告白を成功させたのだった。最もそれは、「駄目だったら仕方ないし、良かったらすごく嬉しいんだけど、アヤカちゃんと付き合いたいなって思ってます。もし付き合えたら僕、何でも頑張れる気がします。でも無理だったら、それはそれでそれなりに、頑張って生きていこうとも思ってます」などという極めて不格好なものであったが、優しいアヤカちゃんは、それですら笑いながら「コウイチ君のそういうところ、結構好きなんだよね」と言ってくれたのだった。天使は、心まで天使なのだった。
付き合ったのはいいものの、今度はすぐに、別の問題に悩まされるのだった。彼女という存在と、自分の置かれた状況に対し、僕は戸惑い、何をどうするのが正解なのか、見当がつかないのだった。また、自分で手に入れておきながら、「本当に僕で良いのだろうか」「僕なんかがこんな思いをしていいのだろうか」などと、ひたすら勝手に自分を責め、意味もなく枕を濡らした夜もあった。しかしそんな気持ちは最初の1、2週間の内だけであった。シュンは心強い相談相手になってくれたし、また寛大なアヤカちゃんのお陰もあって、順調に乗り越えることができた僕は、どうやら徐々に、恋愛というものを楽しめるようになったのだった。みんながいたから、僕は変われたのだった。
僕らは、何度もデートを重ねた。
ある日は映画館に行った。2人でポップコーンを分け合った。アヤカちゃんは食べるペースが早く、手はずっと動きっぱなしという感じだった。そういう姿も、愛おしかった。僕は彼女のその姿を見ていたいが為に、自分の食べるペースをわざと落としていたほどであった。映画の後半になって、気付くと彼女の手が止まっていた。横を見ると、彼女は静かに泣いていた。感動的なシーンだったからだろう。それは恐ろしく綺麗な涙だった。
ある日は山でピクニックをした。山頂で、アヤカちゃんの手作りのお弁当を食べた。甘い、愛の味を知った。世界で一番あたたかい、冷やご飯だった。
「付いてるよ、もう」
アヤカちゃんはそう言って、僕の頬に付いた米粒をつまんで食べた。こんな光景、漫画やドラマの中だけの、妄想に過ぎないものだと思っていた。何だか自分が、恋愛漫画の登場人物になったような、おかしな感覚に襲われた。何より、自分が他人に受け入れられているということ、心を開き合えているということが嬉しかった。そしてそれが、自分の愛する人であるという事実が、さらに僕を、幸福の渦に巻き込んでいくのだった。
ある日は水族館に行った。間近で見るサメは迫力満点で、アヤカちゃんは少しびくびくとしていた。可愛らしかった。
「ガラスがあるから、大丈夫だよ。食べられやしないって」冗談半分に僕がそう言うと、「わかってるし。馬鹿にしないでよ」なんて言いながら、肩を引っぱたいてきた。そうして、笑い合った。
ずっとこの時間が続けばいいのにと思った。そんな願望を抱きながら、きっとそうなってくれるだろうという、変な自信まで感じていた。僕にはこの人しかいないと、本気でそう思えた。彼女がいれば、他に望むものなど何一つなかった。ひょっとすると今の僕は、人並みに、いやそれ以上に、幸せ者なのかもしれないなどと、醜く自惚れる日もあった。まさに、夢のような日々だった。
もちろん良いことばかりではなかった。彼女から男女グループでバーベキューに行くことを相談されたときには、酷く嫉妬をして「行ってほしくない」と繰り返した。しかし彼女の残念そうな顔を見ると、嫌われるかもしれないという恐怖心から、「目移りしないでね」と必死に本心を欺いて涙を流しながら許可をした。バーベキュー当日も、余計なことは考えないと決めていたのに、そんな努力も虚しく、今頃彼女は他の男と楽しんでいると想像してしまったが最後、結局家で一人泣き続ける始末だった。たまに連絡が遅く感じただけで不安になって電話を掛けてしまったり、本当に天使のような子だから、そのうち誰かに奪われてしまったりするのではないかと勝手な想像を膨らませて焦ってしまうのが僕だった。
幸せな時間がある反面、時には苦痛との戦いも強いられる、そんな不安定なものだけれども、どうやら恋愛というものは、それら全てを包み込む不思議な力を持っていて、最終的には、この上ない安らぎによって守られているようなのだった。
悪い知らせを聞かされた。シュンとユイちゃんが、別れたのだ。
前兆はあった。僕とアヤカちゃんが付き合って3か月程経っていた頃、今度は逆に僕の方が、シュンから相談を受けていたのだ。
「最近ユイが素っ気ない。デート中もよくスマホを見ているし、スキンシップも減っている。何だか心の距離を感じる」
シュンは泣きそうになりながらそんなことを話してきた。僕は心が痛かった。親友が本気で悩んで弱っているのに、僕にはどうすることもできない。たとえどうするべきかがわかったとしても、僕にそれを上手くやれる自信などない。僕はただ、何の解決策も見出せずにうんうんと頷き、「きっと今だけだよ」と、慰めにもならない言葉を掛けるだけなのだった。
その1か月後、2人は別れた。ユイちゃんから振ったらしかった。僕は泣いた。いつか4人で一度だけ、ボウリングでのダブルデートをしたことがあったのだが、もう、そんなことは二度と起こらない幻のようなものなのだと思うと、思い出だけが美しく取り残されたような気がして、とても寂しい気持ちになった。
それからのシュンは、女々しかった。僕と2人で会っているときにも、表情のどこかに、失恋の陰を覗かせているような気がするし、元気のない相槌や、頼りない後ろ姿が目立つようになった。僕はその話題を出すこと自体、避けて接していた。
そしてその頃から、僕とアヤカちゃんの関係性も、少しずつ悪い方向に傾き始めていた。デートに誘っても何かと理由をつけて断られることが多くなったし、以前よりも、一緒にいるときの笑顔が減っているような気もしていた。
ある日の夜だった。アルバイトから帰ると、アヤカちゃんが誰かと電話をしているのが聞こえてきた。
実家暮らしの僕に対し、アパートで一人暮らしをしていたアヤカちゃんは、僕に合鍵も渡していた。そのため、大学やアルバイトからアヤカちゃんの家に帰るということは珍しくなかった。最も、家デートをしたところで、小心者の僕はアヤカちゃんに結局キス一つできなかった。
雰囲気からして電話の相手は、どうやら男らしかった。
「ただいま」僕がそう言うと、アヤカちゃんは慌てて電話を切った。胸騒ぎがした。
「おかえり。今日は早かったんだね」
「うん。暇だったから早上がりになったんだ」
「そうだったんだ。お疲れ様」
異様な沈黙が流れた。
「誰と電話、してたの」たまらず聞いた。
「あ、聞こえちゃってたん、だ。そっか」
「うん。誰なの?」
「まあ、いつかは言おうと思ってたから、うん、言うけどね。最近、シュン君からよく連絡が来るの」
少し思考がままならなかった。無言の僕を見つめながら、彼女は続けたのだった。
「シュン君、ユイと別れちゃったじゃん? 相当ショックだったみたいで。私、ユイと仲良いからさ、やっぱり、連絡来ちゃったの。どうすれば復縁できるかな、だとか、ユイが俺のこといつからどんな風に思ってたのか知ってたら教えてほしい、だとか、そういう相談、結構毎日されてて……」
「そう、だったんだね」事情を知った僕は、少し安堵した。
「そう。それでね、コウイチ君にとってもいい話じゃないし、私としても中々言いづらくて、隠してた形にはなっちゃったの。それはごめんね」
アヤカちゃんは申し訳なさそうな顔をしながら俯いていた。
「そんなことだったんだね。何か、アヤカちゃんにだけ抱え込ませちゃってたみたいで……でも、そういうのは、どんどん言って! アヤカちゃん、別に全然悪くないから、気にしないでいいよ!」
すかさず、そう言った。その日はそれで終わった。
最近、アヤカちゃんの態度が変化していたのは、きっとそのことが気がかりになっていたためだと解釈した。そしてそれを僕に打ち明けたことで、明日からでも、きっと可愛くて元気な、僕の大好きなアヤカちゃんが戻ってきてくれるものだと信じて疑わなかった。
しかし僕の期待は、簡単に裏切られた。アヤカちゃんの素っ気ないような態度が、一向に治らないのだ。僕の思い込みだと言ってしまえば済む問題なのかもしれないが、とてもそうとは思えないほどに、やはりアヤカちゃんは変わってしまっているようだった。最初の頃は、今よりもっと可愛らしくて、愛嬌があって、天使そのものだった。初めて恋を叶えた僕の記憶が、その鮮明な僕の記憶がそう言っているのだから、きっと間違いのないはずだと思えた。
だから僕は今日、サプライズをすることに決めたのだった。
数日前から、僕は家族で遠出の旅行に行っていた。昨日、それから帰ってきたのだ。しかしアヤカちゃんには、明日帰ってくると言ってある。実際、その予定であった。しかし親の都合により、残念ではあったが、旅行は早めに引き上げることになったのだ。そして今日は、僕とアヤカちゃんが付き合って、ちょうど5か月の記念日だ。アヤカちゃんには、旅行はどうしても外せないから、5か月の記念日は当日に祝えないと何度も謝っていた。ところが僕は今日、5か月記念日おめでとうと言ってアヤカちゃんの前に現れるのだ。つまりアヤカちゃんにとっては一緒に祝えないと思っていた5か月記念日だが、そこに僕が現れて実際には思い切りお祝いすることができるという訳だ。アヤカちゃんが大好きなお菓子と、アヤカちゃんが推している、歌手のグッズを持った僕が現れるという訳だ。
記念日は毎月必ず2人で祝っていたから、今回それができなくなったときには本当に申し訳なかったし、僕自身もかなり残念だった。しかし状況が変わったからには、こうして上手く利用することが責めてもの僕の義務であると感じていたし、2人の関係を少しでも修復するために、僕なりに考えたサプライズだった。
つい5分前のことだ。アヤカちゃんのアパートに着いた僕は、気付かれないよう、静かに階段を上り始めた。このアパートにはエレベーターがなく、アヤカちゃんの部屋は5階にあるので、音を立てずに上りきるというだけでも骨が折れるほどだった。しかし、万が一にでもアヤカちゃんが不在で、この僕の大変な苦労が無駄になってしまうという心配は不要だった。なぜならアヤカちゃんは最近、いつもこの時間帯に家にいる。ちょうど今頃、毎週欠かさず僕とリアルタイムで観ている、ドラマの放送が終わった頃だからだ。
抜き足差し足で、5分程掛けて、アヤカちゃんの部屋のドアの前まで来ることができた。ドアノブを捻る。鍵は、開いていた。何だか異様に暗くて静かだったが、アヤカちゃんは、やはりいるようだった。玄関の中まで入ったそのとき、おかしなことが起こった。
「今、音したよね?」
そう、声がしたのだ。明るくて、陽気で、頼りになる、僕にとってはそんな、聞き慣れた、男の声だった。
「嘘。気のせいじゃない?」
続けて、これまた、聞き慣れた声がした。無邪気で、純粋で、守ってあげたくて、ずっとそばにいてほしくて、他の何にも代えられないような、僕にとってはそんな、聞き慣れた、天使の声だった。
頭が、真っ白に、なった。もう僕には、何も、残されてはいないのだった。
灯りが付いて、目の前のリビングのドアが開いた。そこには、見慣れた親友の顔が、人間のオスの裸体を付けて立っていた。
「コッ、えっ。コウイッ、つ。なんで。ちょ、ちっ」
これは違うとでも言いたいのだろうか。だったら何がどう違うのか、1から1000まで、事細かく説明させてやりたい気分だった。
男とドアの隙間から奥を見ると、見慣れた天使の顔が、人間のメスの裸体を付けて、ベッドの上に座っていた。こちらを見つめるその目は、恐怖のようにも、不快なようにも思えた。
その瞬間、僕の脳内には、幸せだった夢のような記憶が、ついこの前のようで、しかし遠い昔のようにも感じられる記憶が、そして確かに、この体で感じてきた、僕の人生最高で、今となっては最悪の記憶が、走馬灯のように、蘇ってきたのだった。
どうして、こうなるんだ。お前らが与えてくれたんじゃないか。お前らが僕のために、全部全部、教えてくれたんじゃないか。生きる意味なんて、もう忘れかけていた。人生なんて、一つの希望すら持てずに歩んできた。それはこの先も、ずっとずっとそうなんだって、勝手に思い込んでいた。どうせ僕の人生なんて、こんなもんなんだって、決めつけて前も向こうとせずに、早々に諦めていた。でもお前らがいてくれたから、お前らが寄り添ってくれたから、初めて人生に、希望が持てたんだ。それが何だ。最後はこのザマなのか。結局クソじゃないか。何もかも台無しじゃないか。僕にはどうやっても綺麗な人生なんか、似合わないってことなのか。そうやって見下して、自分はあれよりマシだからまだ大丈夫なんだって、まだ希望を持ってもいいんだって、そんなことを糧にして生きていくのがお前らなのか。奪っていくのなら、最初から何も与えないでくれ。
もう僕は、疲れた。
夢を見ていた。きっと僕は、夢を見ていたんだ。妙にリアルで、幻想的な夢だった。得たものは、何もなかった。代わりに、全てを失った。
僕は振り返り、走った。数歩走って、手すりを越えて、宙に舞った。世界が逆さまになって、あらゆる重圧が消え去った。もう二度と、夢なんて見ないで済みそうだ。凄まじい風と、とめどない景色が、愉快な恐怖となって僕を襲った。