カヘルのお香湯プロジェクト
・ ・ ・ ・ ・
「……」
翌朝。どよりと曇った空の下を出勤登城中のカヘルは、デリアド市庁舎の前を通りかかった。ここから騎士団本部の置かれたデリアド城へは、ほんのひと歩きと近いところにある。
全体的に白っぽい石材を使ったその平たい建物には、扉と窓とがやたら多い。開放的なつくりである。城塞として来る者に拒絶の威圧を与える、カヘルの職場とはえらい違いだ。市民に向けて開かれた機関なのだから、当たり前と言えばそうなのかもしれないが。
その中で働いているのは大半が文官だが、彼らも正規の騎士であることに変わりはない。カヘル同様に黄土色の毛織外套をひるがえして、市職員たちがぽつりぽつりと裏口の方へ入っていくのが遠く見えた。
三日に一度くらいは、そういった出勤中の騎士たちの中に、ザイーヴ・ニ・ファイーを見かけることがある。
気づけば向こうからびしッと騎士礼をしてくれるし、近ければお早うございますカヘル侯と挨拶も言う。
しかし双方が出勤直前の時間帯では、立ち止まってその先の話をすることは不可能であった。
翠月の終わりに北域フォルターハ郡で発生した殺人事件の捜査中、ファイーとの距離をだいぶ縮められたとカヘルは思っていた。しかしその目論見は、みごとに外れていたのである。
≪また石の話を教えて下さい、ファイー侯≫
≪ええ喜んで、カヘル侯≫
首邑に帰還した時、そう言いあって二人は別れた。それが運のつき、分水嶺であったかとデリアド副騎士団長は大反省している。
――今度ご一緒に食事をどうですか、と聞くのはためらわれた。いかにもありきたりな誘い方、下心一直線な表現であるからして、それを避けて話を……と言ったのだ。が! これでは弱かった、確固たる次回約束にならなかったではないか……!
冷々淡々としたいつも通りの表情の下で、カヘルは悶々と自問している。
過去において二回、性格の不一致を理由に妻たちに去られてしまった男性の悩みとしては、不思議に思われるかもしれない。逃げられたにせよ、ともかく二回は結婚にこぎつけているのである。どうしてそのような初動にとまどうのか?
答えは簡単、前回前々回はお見合い候補えらび放題の中で、いいんじゃないかと直感した女性の名を母上と仲人に告げるだけであった。
今をときめく若き副騎士団長である。黙っていても女性側の家からお申し込みが絶えなかった。カヘル自身は面倒なお付き合い作法云々をすっとばしても、何の障りもなかったのである。
しかし……。
二人目の妻が去ってからも同じことの繰り返し、と高をくくっていたカヘルは現実を突きつけられた。一度の失敗は、まぁ多くの人が経験することだ。が、二度も同じ流れで破談したとなれば、カヘル様には何ぞむつかしい問題があるのでは……と不安がられるようになる。娘を持つ貴族各家は慎重路線をとり、庶民富裕層もやっぱり無理そうやめとこう、と距離を置くようになる。
大路を歩けば、いってらっしゃいカヘル様ー! 気をつけてね副団長ー! そういう声援は頻繁にかけられる。人気者であることに変わりはない。
だがそこに、若い娘の黄色い声が混じることはなくなった……。
背水の陣、カヘル崖っぷちである。次の結婚こそ成功させねば後はない。三度目の正直!
しかし現在彼の意中にあるザイーヴ・ニ・ファイーに関しては、珍しくカヘル自身が積極性を持っていた。市庁舎地勢課勤務の女性文官は、知れば知るほどに自分にとっての好条件ばかりを有している。絶対に逃がしたくない伴侶候補なのだ。
――ここはやはり、戦略的にゆくしかあるまい。気が進まないがあの書物……どうにかして入手しよう。あるいは通販か。
カヘルは先日、書店の軒先で見かけた販促掲示を思い出していた。
::伝説のティルムン秘伝書、イリー語新訳にて堂々復刻!
『年頃女性の口説き方:庶民/中流/高嶺各編』 ご予約とお求めは当店で。::
デリアド副騎士団長ともあろう者が、かような指南書に頼らねばならないとはいささか苦痛である。しかし知らぬ恥より知れる恥! 恥ずかしい本を買いたい時は、他の教養書や流行小説などをたくさん爆買いして、さりげなく紛れ込ませればよいのですよ副団長……!
「おはようございまーす、課長」
「やあ、お早う」
カヘルの前方を行く文官騎士に、後ろから追いついた別の文官が挨拶をしている。その上司部下の会話がカヘルの耳に入って来た。速足の副団長は彼らを追い越しかけていたが、ふと歩みを緩める。
「きみ、香湯いらないかい?」
「えっ」
「薄荷ういきょう湯を頼んだら、おっちょこちょいの新人店員がはっか湯とういきょう湯を作ってよこしてさぁ。作り直しを待つのも面倒くさいから、二つとももらったんだ。どっちかあげるよ」
「ありがとうございます! それじゃあ、ういきょう湯をください」
持ち出し用に、素焼き大ゆのみに布をかぶせた飲料をやりとりしている。その何気ない様子を後ろから見るカヘルの脳内に、冷やっとした考えが閃いた!
――香湯! そうだ、この手で行こう! すなわち:
1)市庁舎前でザイーヴさんに再会、さりげなく持ち出し香湯を渡す
2)今度ご一緒に香湯をいかがですか。石の話を聞かせて下さい
3)香湯の席で打ち解けたところを狙い→今度ご一緒に食事をいかがですか。貴女の話を聞かせて下さい
4)ここまで来たら、陥落→求婚→成婚→跡継ぎ誕生でカヘル家安泰は間違いない。
ふんッ!!
カヘルは希望に満ちみちて、鼻息を強く抜いた。何と言う緻密にして周到な段階的計画、あとは実践にうつすのみ。前途は明るい!
……と、本気で信じている。
頭脳明晰にして敏腕剛力、当代デリアド随一の騎士たるキリアン・ナ・カヘルは残念なことに、女性にまつわる事柄に関してだけは大傑作級のあほうであった……。
元に戻ったいつもの速足がさらに加速する。周囲の市職員たちをぐんぐん追い越しながら、カヘルは宮城めざして歩いて行った。市庁舎は後ろへ。
現在彼が獲得を切望しているその女性、ザイーヴ・ニ・ファイーは長期出張で留守なのである。デリアド西域にある、遺跡の定期調査に出向いていた。
――しかし、その調査もじきに終了となる。あの女性がデリアドに帰り次第、直ちに本計画を実行すべしッ。
カヘルの淡い青色の双眸が、冬の青空を映した薄氷のようにきらーんと煌めいていた……。
今はまだまだ寒さに遠い、金月の朝ではあったけれども。




