バルコニーのゆうれい
ファイーは木剣を手に構えたまま、梯子下のばらの植え込み陰に潜み続ける。
まずはローディアが登り切ったところで、カヘルも梯子を上がった。半円形の小さな露台に入る。そこの半開きの鎧戸の裏に気配があった。そうっと二人はのぞき込む。
「あッ」
小さく驚いた声があった。ローディアは目を見張り、叫びかけた声をどうにか飲み込む。露台出入口の内側、床にへたり込んでいたのは骸骨に皮がひっついたような、小さな小さな老婆だった。
たっぷりした上質生地の白いねまきに白い肩掛け、うねる銀髪を長ーく下ろして、怪談に出てくる亡霊みたいだと側近は思う。と言うか富裕層のゆうれいだ。
カヘルは素早く、その亡霊の前に片膝をつく。
「スウィーン奥様ですね?」
「ええ、そう! そうよ! 騎士さま、どうかあっちの坊やを、……たすけて。助けてあげて!」
カヘルにすがりつくようにして、老婆は震える手を上げ指さした。
鎧戸一枚分だけ、露台出入口から光の差し込む室内。見るからに高価そうな調度品で占められたその室には、中央に大きな寝台がある。上には何枚もの毛布がかかっていた。老婆の指先は、その寝台の脇を示している……。床に横たわる、黄土色の何か!
「ノスコ侯っ!?」
ローディアが駆け寄った。手足を縄で縛られ拘束されて、眠っているように見える衛生文官の首すじに手を当ててみる。脈はある、ノスコは生きている!
「二度も薬を嗅がされたのよ。これ以上かいだら死んじゃうかもしれないわ! わたし縄を解こうとしたの、けれど固くて固くて、……!」
ずるずるずる、歩けないらしい老婆は床を這ってノスコの近くへ行こうとする。見かねてカヘルは抱き上げたものの、おそろしく軽い。着ているものの方が重いのではあるまいか。
「奥様、一体何があったのです。誰がこのようなことを?」
ノスコの横に下ろされると、スウィーンはぶるぶる震えながら衛生文官の顔をのぞき込んだ。
「この坊やは朝やってきて、わたしの背中と膝をごりごり揉んでくれました。それで痛いのがぐうっと楽になって、頭も軽くなったから、お喋りをしていたんです。そうしたら、コーティアが……いきなり薬を!」
「コーティア? お女中ですか」
老婆はうなづく。落ちくぼんだ眼窩の中で、そこだけ生気を放っているうす青の瞳が、恐怖におびえていた。
カヘルは露台に走り出て、真下にいるファイーに向けてさっと右手を振った。
ばらの植え込みの陰で見上げる女性文官は手を振り返し、次の瞬間静かに駆けてゆく。
室内に戻りかけたカヘルに、老婆が声をかけた。
「騎士さま、扉に二の錠を下ろして! 鍵はかかっているけれど、外からコーティアがかけたのよ。すぐに上がって来るわ……!」
それを聞いて、カヘルが扉にかけ寄ろうとした瞬間である。
がちゃり、
軽い音がして外側から鍵が回された。すっ……扉が開く。開きかけて、止まった。
スウィーン邸の女中を不審人物とみなしたカヘルは、腰に提げていた戦棍をすばやく右手に取る。
どうにかノスコの拘束縄をぶっちぎるのに成功したローディアは、昏睡したままの衛生文官と老婆とを背に、長剣を抜いて立つ。
妙な静寂があった。
そこに、……きききき、と乾いた音が混じる。
ひゅい、だぁんッッ!!
その音が何であるのか、カヘルもローディアも即座に判別できなかった。出来ないくせに、二人ともその先の連想だけは速かった、――春のテルポシエ戦役でマグ・イーレ傭兵隊が用いていた……。
――弩!?
室の奥の箪笥引き出しに突き刺さり、ぶいぶいんと震える矢を二人が視線の端にとらえるのと、再び扉が開くのとは同時だった。
旧式の木製弩を両手に、……水平に構えたそれをカヘルにまっすぐ向けて入ってきたのは、あの年輩女中であった。次の矢はすでに装填されている。
「申し訳ございません、騎士さま。嘘をたくさん、つきました」
ゆっくり言う女中の声が、震えている。




