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老婆は語る、夏の夕の野原

 

 なだらかな丘陵に、ぽかりと浮かぶ樫の森。


 その周辺に、柵が張られているのをローディアは遠目に見た。あの密集した樹々の暗がりの中では、無数のけもの達がどんぐりを食べているに違いない。いのしし牧場である。


 その近くにおとなったのは、ごく小さなたたずまいの農家だった。がっしりと日に焼けた若い女性が、めんどりたちの駆けまわる庭を通り抜けて来る。裏庭のひさし付き露壇ろだんに座っている老婆のもとへ、彼女はカヘル一行を導いた。



「お祖母ちゃん。騎士さま達がね、お話したいのですって」


「あらあら、まあ。どうしましょうね」



 杖を片手に、しかし椅子にかけたまま、面白そうに老婆は三人を見上げた。



「すてきな騎士様がいっぱい来たよ! 女の騎士さまもいらっしゃる。こりゃあ、うちの人に教えてあげなくっちゃ」



 恐らくもう、あまりはっきりとは見えていないのだろう。それでもしわの中に埋もれた老婆の青い双眸が、親しみをもって自分に笑いかけているのを見て、カヘルは老婆の前にそっとしゃがんだ。



「ごきげんよう、奥様」


「騎士さまに福ある日を」



 けんのない平らかな眼差しで、カヘルはユメールを見た。



「ここのお宅に、男性が薬湯の材料を売りに来たことはありませんでしたか?」



 老婆は答えず、ゆっくりと小首をかしげる。



「ヤンフィールさんという男性なのですが」


「……お香湯こうゆ材料を持ってきてくれた人はいますよ。でもそういう名前の人じゃなかったね」



 くすり、ユメールは幸せそうに微笑する。



「お香湯材料のつまった木箱をきれいな布に包んで、担いできてくれたのはあたしの旦那さんですよ。うちの人は、ダヴィンといったの」


「お祖母ちゃんってば。おじいちゃんは、もう二十年も前に……」



 椅子の背後から屈みこんで、孫娘が心配そうに老婆の肩にふれる。その手をそっとつかんで、老婆はしっかりとした調子で言った。



「大丈夫ですよ、わかってますよ。でもはっきり会ったんですもの、あたしは……うちの人に」


「旦那様が、薬湯を持って来たのですか?」



 ユメールの口調ははっきりしているし、夢と現実がまざる老病特有の気配もないが、だいぶ前に死んだはずの夫に会ったということらしい。何やらおかしな気がしないでもないが、ともかくカヘルはユメールに続けて問うた。



「ええ、そう。この孫のミーエが、帰ってくる前だったねぇ……。死んだはずのダヴィンがある日ふらっとやって来て、香湯を一杯つくりましょうと言うのよ。初めは全然知らない人に見えたから、あたしもわからなかったの。けど台所にね、良い匂いが広がって……。そのおいしいお香湯を飲んだら、目の前にダヴィンが座っていたのよ!」



 カヘルの背後で、ローディアとファイーは顔を見合わせた。



「台所の卓子に座っていたはずなのに、なぜだかふわふわ、夏の夕の野原にいるように見えてねぇ……。そういう中でうちの人が、ダヴィンが、あたしに笑って話しかけてきたのよ」



≪長いこと留守にしちまって、悪かったねぇ≫



 ぼろぼろ流れ出るユメールの涙を手巾で拭きながら、亡くなったはずの夫は言った。



≪本当だよ! とっとと迎えに来てくれりゃ良かったのに。自分だけ先に、あんたは丘の向こうへ行っちまって≫


≪来たかったんだが、なんと呼びつけ・・・・にはおあしが要るんさ。どうにも都合がつかないから、格好悪いがお前に頼みに来たんだよ≫



 夫は妙な話をしたが、どうにもまとまった額の金が要るらしい。はて、丘の向こうでも金がいるのか。今でこそ何のためにと思うが、その時のユメールはかえって来てくれた夫の言うことをうのみにした。


 嬉しさのあまり、細かいこと……今の自分のつましい生活なんて、ちっぽけ過ぎる瑣事さじに思えた。もともと意味の抜けた空っぽ樫洞かしうろだったのだ、ダヴィンのいない暮らしなんて。


 小切手帳と口座明細のありかを聞かれて、ユメールは寝室小箪笥の引き出し一番上と答える。ユメールの周りはひなげしの揺れる夏の夕の野原なのに、夫はひょいと小切手帳を手に出して、署名をたのむよと言った。



≪いくら?≫


≪お前が出せるだけでいいよ。おっと、全額を出しちゃっちゃいけねぇ。どう頑張っても、迎えに来れるのは半年は先になるからなぁ。それまでお前がいつも通りにおまんまを食っていける程には、残しておくんだよう≫



 丘の向こうにいると言う名宛て人の名≪ヤフィル≫を、夫に言われるまま老婆はゆっくり綴り書いた。ユメールの書いた小切手をていねいにしまうと、夫は彼女の手を取った。



≪少し歩こうかい≫



 二人の眼前に、夏の夕の野が広がっている。



≪早く、迎えに戻って来ておくれよ。待っているよ≫


≪ああ、全速力でかえってくるともさ。 ……なあ、憶えてるかい? 初めて会った日のことを。あれは、確か夏のころ……≫



 ユメールの胸に、甘やかな懐かしさがひろがる。



≪夏の盛りだったねぇ。こんな風にひなげしがいっぱい咲いて、森の脇の農地があかく燃えているみたいだった≫


≪そうそう、懐かしいなぁ。お前のしめた前掛けだけが、そこでぺかぺか白く光っていたんだ≫


≪何言ってんのさぁ? あたしゃ、お気に入りの水色長衣を着てたんじゃないか。これからドラムベーグへ、踊りの会に行くってんでおしゃれして道行きしてたんだ。兄貴ふたりに挟まれてさ≫


≪あっはっは、悪い悪い。俺も丘の向こうでもうろく・・・・しちまったよ! ぺかぺか光っていたのは前掛けでなくって、お前の顔だった! とんでも美人と、ひと目で惚れちまったんだからねぇ……≫



 幸せな会話はやがてあたたかい闇の中に沈んでいき、気がつくとユメールは一人きりで台所の卓子に突っ伏していた。


 その日から、ユメールは夫が迎えに来る日を楽しみに待った。


 待った。


 半年がたち、一年が過ぎた。夫はなかなか再来しない。さらに月日が流れた。


 ユメールは待った。




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