10.責任の行方~皇帝チオダ8世~
トキオ帝国皇帝チオダ8世は初めて経験する孤独と恐怖の只中にいた。
深き森。
魔獣が跋扈する魔の領域。
ここに武器を持たずに入るということは、すなわち魔獣に生きたまま食べられるということ。
そのために来た。
息子が罪なき少女を己の見栄のためにそのようにした責任を取るために。
「…………」
どこから間違っていたのだろうか。
息子達に自覚を持たせるために、ある程度の裁量と権限を与えたのが間違いだったか。
それは何代も前からの慣例だし、自分も含めてそうやって育ってきた。
なぜミヒャエルだけが権威を振りかざすようになってしまったのか。
平民を見下していたのはミヒャエルだけではない。
自分を含め我が国の貴族すべてがきっとおかしいのだ。
今さら気付いたところでもう遅いが、きっとこれからは愚かな認識を改めることができるだろう。
「…………」
魅了なのか。
ミヒャエルがあそこまで狂ってしまった原因といえば魅了以外に考えられない。
だがそれも普段から平民を見下してきた結果だ。
なぜミヒャエルだけが、と堂々巡りの疑問を口にする。
教育係が悪かったのか、自分や皇后の接し方が悪かったのか、マリアーネ嬢との関係を放置したのが悪かったのか、さまざまなことが悔やまれてならない。
その結果として自分は今ここにいるのだから。
気がついたら涙が溢れていた。
これが、こんなものが自分の生きてきた結果なのか。
歩いてきた道を振り返って騎士団長の姿を探す。
「…………」
ついてきているわけがないか。
当たり前だ。
ついてきたら許さぬと言ったのは自分なのだから。
泣けて泣けて仕方がない。
妻の顔を、子供達の顔を、宰相ら良き友の顔を思い出す。
「…ぐっ……う…うぐ……」
嗚咽が漏れる。森の中を歩いて息が切れている上に、嗚咽でどうにも苦しくなって地面に膝をつく。
「うぅ……う……ぐううう……」
涙と嗚咽で呼吸がどうにもならない。
しゃくりあげるままに顔を覆って涙を流す。
「あああ……ぁぁああぁ……」
神よ許したまえ、精霊よ憐れみたまえ。
言葉にできない思いが呻きとなって口から漏れる。
「ぐうぅ……う……国民よ…どうか許したまえ……」
大変な迷惑をかけてしまうが、どうか健やかに生きてくれ。
愚かな最期を迎えて胸に湧くのは悲しみだけだった。
ガサッ
音がした。
続いてガサガサと周囲から音が聞こえたかと思ったら、木の影から飛び出してきた何かが右腕に齧り付いた。
「ぐああ!」
もの凄い力で持ち上がった身体が背中から地面に叩きつけられ、肺の中から空気が吐き出される。
衝撃と苦しさで目がチカチカしつつなんとか体を起こすも魔獣の姿はない。
ガサガサッと周囲を走る音とハッハッという獣の息遣いが周りをグルグルと回っている。
噛まれた右腕を確認する。
肘から先がざっくりと切り裂かれており、指が3本しかなかった。
食いちぎられた小指と薬指のあった所から血が吹き出しているのが見える。
不思議と痛みは感じなかったが、やけに熱いドクドクという血の巡りが感じられた。
「…………」
死ぬのか。
周囲を囲む魔獣の気配と、ハアハアという自分の呼吸の音だけが聞こえる中で、その時が来たことを悟る。
ふと前方の木々の隙間に光るものが見えた。
眼だ。
狼型の魔獣が自分を見ている。
あれに食われて死ぬのかと理解すると、いよいよ足が震えて立っていられなくなった。
「…あ…ああ……」
その場に座り込んでも、魔獣から目が離せない。
魔獣は無邪気に、愛嬌さえ感じられる瞳でこちらを見つめている。
その口が血で塗れていなければ、可愛いやつだと思ったかもしれない。
「…………」
目を瞑りその時を待つ。
恐ろしくてもう何も見たくない。
最後に浮かんだ顔は愚かな第二皇子のものだった。
結局最後まで余と目を合わせなかったな、と寂しく思う。
「立ち直るのだぞ……ミヒャエル」
お前の人生はこれからなのだから。
生きて償え。
それが余の…私の最後の願いだ。
ガサガサッと周囲の音が大きくなる。
もう何も考えられない。
ただ脳裏に浮かぶ息子の顔を眺めていた。
「…………」
音がしない。
どれだけ待っても魔獣が襲ってくる気配がない。
目を開ける。
魔獣の姿はない。
周りを見回すも何もいない。
どこかへ逃げ去ったのか。
騎士団長が来たのかと思って名を呼ぶも返事はない。
なんだこれはと思っていると、食いちぎられた右手が痛み始めた。
生きている。
どういうことだ?
「見事だったぞ、チオダ皇帝」
声のした方に目を向けると、エルフの女王が立っていた。
「…どういうことだ?」
ふいに体が暖かくなる感覚がした。
その熱は右手に集まっていく。
なんだこれは?
右手を持ち上げて見ていると、溢れ出していた血が止まっている。
見る間に傷が塞がってゆき、ちぎれた小指と薬指の傷を覆うように皮膚ができた。
癒しの魔術か。
エルフの女王がやったのかと思い目を向けると、女王の後ろからこちらに両手を向けて立つ少女が見えた。
「傷を治してもらったんだ。礼くらい言ったらどうだ?」
エルフの女王がそう言って一歩横にずれる。
少女と目が合った。
「あ…ああ、君がやってくれたのか?ありがとう、礼を言う」
少女は手を下ろして頭を下げた。
「指を生やすことはできませんでした。ごめんなさい」
「いや、良いのだ。これで充分だとも」
命を捨てに来たのだ。
助かったのか、はたまたこれからエルフの女王によって殺されるのか分からないが、痛くないのはありがたい。
「チオダ皇帝よ、この子が誰だかわかるか?」
少女には見覚えがあった。
どこで見たのかまでは覚えていないが、この状況で考えられるのは1人しかいない。
「……セレナ嬢…なのか?」
私の問いに少女は服の裾を摘んで頭を下げた。
「お久しぶりでございます。セレナ・マリンフィールド…申し訳ありません、今はただのセレナです」
「やはりか。そなたにはなんと詫びたら良いのか分からぬ。私の命で溜飲をさげてはくれまいか」
そう言って頭を下げる。
「謝罪を受け入れます。頭を上げてください。皇帝陛下」
そう言われてもすぐには頭を上げられず、数秒待って顔を上げる。
聖女は真っ直ぐに自分の目を見ている。
「皇帝陛下の命は必要ありません。精霊さん達は私のために怒ってくれていますけど、私は陛下に死なれても困ってしまいます」
随分と令嬢らしくない喋り方をすると思い、そういえば聖女は平民の出だったと思い出した。
「やはりミヒャエルでなければ受け入れてもらえぬだろうか」
「当たり前です。もちろん命は要らないですけど、謝るなら殿下が謝らないと意味がないです」
聖女は厳しいような困ったような目で自分を見ながら言った。
「わかった。精霊達との約束で私が命を捧げるために来たが、命は要らぬというのであれば、それ以外の全てを尽くして息子には詫びさせよう」
くっくっとエルフの女王が笑う。
「自分の罪を贖うために父親である皇帝の命を差し出したんだ。息子としても臣下としても生涯消えぬ汚名を背負いつつ、セレナの許しを得るために何ができるだろうな」
「それは愚息が考えれば良い。私としては命さえ無事なら右目だろうが左目だろうが抉り出して詫びろと思うがな」
「ですから、痛いのは要りません。そんなことをされても私が困ります」
聖女が困った顔で抗議する。
「そうだな。君に対しては君の思う通りの罰がよかろう。その上で国民や他国の者に対しても償わねばならぬ。愚息にはもはや一切の権利を認めず、生涯を償いに当てさせるのが筋だろう」
労役だろうと、死刑だろうと、国民が裁くならば聖女の心的負担にはなるまい。
「チオダ皇帝よ、この子を殺した報いはこの子自身が決めるが、恩寵を再びヒト族に与えるかどうかは精霊達が決めることだ。お前達はヒト族にとっての災厄であることに変わりはない。そのことは忘れぬがよかろう」
「それは弁えている。すでに捨てた命。いかようにも償う所存だ」
「私としてはせっかくこの子が救った命だ。そう簡単に処刑されてはかなわぬとだけ言っておこう」
「承知した」
「そなたの覚悟と、この子がそなたを憐んで命を救ったこと、それと恩寵の件は別だという今の会話を記録した魔道具を送るから、国に戻って周知するがよかろう」
「わかった。エルフの女王よ、そなたの心遣いに感謝する」
「死ぬよりも辛い償いの人生だ。せいぜい長く見物させておくれよ。さあ国まで送ってやろう。立てるか?」
そう言われて地面に座り込んだままだったことを思い出し、皇帝は立ち上がった。
血と涙で濡れたローブをはたいて土草を払い落とす。
両足で立ち上がったことで生きていることを実感し目頭が熱くなる。
立ち直れるではないか。
生の喜びを噛み締めて、傲慢と無関心の末に聖女の命を奪ってしまった後悔を胸に刻む。
聖女の瞳を真っ直ぐに見て、皇帝は再び頭を下げた。
「必ず償いはする。見ていてくれ」
ふふ、と聖女がかすかに笑い「はい」と答えた。
「セレナ、皇帝に言いたいことがあるのだろう?」
エルフの女王の言葉に、聖女は「あっ」と言った。
何か言い忘れていたことがあるのだろう。
それはそうだ。
聖女を疎んじて殺したことについて恨み言の一つもないなどあるわけがない。
居ずまいを正して聖女の瞳を見つめる。
「皇帝陛下には命懸けで謝ってもらったのでもういいです。でも殿下や他の人達のことは許せそうにありません。私が帝国のために祈ることは二度とありません」
「…………」
聖女の言葉に皇帝の身体がグラリと揺れる。
覚悟していたはずなのに、その決別の言葉は皇帝が意識せずに持っていた微かな希望の火を吹き消した。
全てが終わったら国に戻ってきてくれるかもしれないと、心のどこかで期待していたのだろう。
その未来はないと聖女は言い切った。
「……わかった。その言葉を胸に刻もう」
どうにかそう言った皇帝の様子に、エルフの女王がまたくっくっと笑った。
「ようやくそなたのショックを受けた顔が見られて満足だよ。ざまあみろ、チオダ皇帝」
生まれて初めて言われたざまあみろという言葉に再びショックを受けてエルフの女王に顔を向ける。
品位のかけらもない嫌味な笑顔で自分を見ているエルフの女王と目があった。
ふいに視界が暗転し、気がつくと謁見の間に立っていた。
「陛下!ああ…なんというお姿で!」
皇帝の代わりに公務を行なっていたのだろう。
客人と謁見していた皇后が玉座から立ち上がり駆けてくるのが見えた。
人前で走るとは、と苦笑しつつ自分も駆け出す。
謁見中だった客人をほったらかして抱擁しあう。
唖然とする客人を宰相が丁重に連れ出すのが見えた。
皇帝の執務室に移動して宰相と皇后と向かい合う。
湯浴みを求められたが断り、着替えを求められたが断った。
「私の姿を覚えておくように。私は確かに魔獣に襲われて食われかけたのだ」
血と泥で汚れ、魔獣の牙によってズタズタにちぎれたローブを見せつける。
汗で少し臭っているし、なんだったら少し小便を漏らしたかもしれない。
この惨めな姿こそチオダ皇帝が聖女の憐れみを得たことの証明に他ならない。
五体満足で綺麗なままに帰ってきたならば、何か政治的な取引でもしたのかと勘繰られることだろう。
「命による贖いは不要と聖女は言われた。精霊達も聖女の言葉は無碍にしないようで、魔獣に食われる寸前で命を救われたのだ」
そう言いつつ右手を掲げて食いちぎられた小指と薬指の跡を見せる。
息を呑む皇后と宰相。
そこへ駆けつけた公爵ら高位の貴族達にも惨めな姿を晒す。
「余は聖女の温情に縋って命を長らえた。その恩義に報いるために残りの人生を使うつもりだ。無論、馬鹿息子にも同様の人生を送らせる。皇帝の位は予定通り皇太子に譲るゆえ、公爵らには引き続き新皇帝を盛り立ててもらいたい」
はっきりと退位することを告げれば、公爵も警戒の表情をなくして頷いた。
もともと死んで譲ることになっていた皇帝の位だ。
生き恥を晒しに戻った以上は皇位に縋りつく必要はない。
謝罪と償いの人生を送るには皇帝の執務は忙しすぎる。
「では私も引退してお供いたします。愚息にも殿下の従者として残りの人生をかけて償わせましょう」
宰相も公爵を見て言う。
旧皇帝派から新皇帝派へ要職の入れ替えは必須だ。
死によってではなく万全の引き継ぎをもって新たなる帝国が始動する。
野心みなぎる公爵を御せるかどうかは皇太子の能力に委ねる他ないが、聖女と精霊の恩寵を失った世界で他国からの怨嗟を受けつつ一丸となって進んでいってほしいと願う。




