悪役令嬢の終わり方〜かつて、主人公だった悪女の話〜
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ルーンヘイル王国の中枢にして象徴であるザカロス城、その地下牢。
遥か昔の戦乱の時代には、拷問部屋として使われていたとも噂されるそこに幽閉されているのは、高貴な身分に生まれながら、その責務を忘れ、罪を犯した者達である。
数々の功績を挙げ、晴れて王太子の新たな婚約者となった元男爵令嬢のアリーは、その罪人の一人を訪ねて、此処にやってきた。
「――ああ、やっと来たのね」
管理人が扉を開くと、美しくも力強い声が、冷たい廊下に響き渡る。
生きる為に必要な最低限の物だけが置かれている、簡素な部屋。
その住人は、そんな無骨さとは到底似つかわしくない、質素な装いでも覆い隠すことのできない、天性の華やかさを持って生まれた、燃えるような赤髪の女だった。
「ヒストリア様……」
「"様"は要らないわ。未来の王妃様」
「っ!!」
アリーが思わずその名を呼ぶと、罪人――元ノーザレック公爵令嬢であるヒストリアから、思いもよらない訂正がされる。
あれほどアリーのことを敵視し、王太子の婚約者としての立ち位置に固執していたヒストリアが、まさかアリーが王妃となることを認めるような発言をするとは。
記憶にあるあのヒストリアの口から発せられるとは到底思えない言葉を聞いて、アリーは驚きに目を見開く。
そんな彼女の反応に、ヒストリアは僅かに口元を歪めた後、スッと佇まいを直して、言葉を続けた。
「それで、何のご用でしょうか?アリー様」
「……アリーでいいよ。私も、貴女のことはヒストリアと呼ぶ。一度、二人で話してみたかったの」
「あら、奇遇ね。私も、常々そう思っていたわ」
これまで何度も対立を重ね、因縁を深めてきた二人だが……なんだかんだ、正面から一対一で会話をするのは、これが初めてのことだった。
……それにしても、ヒストリアからは、意外なほどに敵意が感じられない。
以前の彼女は、その外見的特徴そのままの、炎のような激情家という印象だった。
それが今は、まるで人が変わったかのようだ。
……もしかしたら、今の彼女であれば、ちゃんと対話を経て、理解し合うこともできるかも知れない。
「サレナ、人払いをお願い」
「……しかしっ!」
「大丈夫。敵意は感じられないから。魔法の力も封じられているようだし、自分の身は守れるわ。ね、お願い」
「……しかたありませんね」
アリーは自分の専属メイドであるサレナに、人払いをお願いする。
ある一件が解決して以降は多少落ち着きはしたものの、まだアリーに対して少々過保護のきらいがあるサレナだが、その付き合いの長さ故に、今回のアリーの頼み方が頑固な方のソレであることを悟り、今回は大人しく引き下がることにしたようだ。
アリーは、普段はほとんど我儘を言わず、寧ろ他者への思い遣りに溢れた優しい娘なのだが、稀にこのように、一切自分の意見を曲げないモードになることがある。
とは言え、どこぞの令嬢のように私利私欲の為とかではなく、基本的には人助けなどの動機でしか発動しない。
それは、側から見れば幸運な事なのだろうが、大概は自身の身を危険に晒すこととセットになっているので、従者としては気が休まらないというのが正直なところであった。
まあしかし、今に至っては、そこまで危険は無いだろう。
「……一つだけ、聞いても良いかしら?」
人払いを終え、二人きりになると、暫しの沈黙の後に、ヒストリアが覚悟を決めたような面持ちでそう言った。
「いいよ。一つと言わず、満足するまで」
もちろん、アリーからすれば、断る理由など何もない。
寧ろ、ヒストリアの"生の言葉"を聞きにここに来たので、罵倒と共に拒絶されるか、あるいは沈黙を貫かれることを想定していたアリーとしては、肩透かしを喰らったような思いですらあった。
そんなアリーの許しの言葉を受け、しかし尚も何かに躊躇う様子を見せながら、暫しの逡巡の後に、心を落ち着かせるように大きく息を吐いて、ヒストリアはソレを問う。
「――今日は、何日かしら?」
「…………え?」
「今日は何の月の何日かって聞いてるの。大事なことだから、答えて」
思わず聞き返しても、質問が変わることはなかった。
ヒストリアが酷く勿体ぶるので、どんなとんでもない質問が飛び出すものかと身構えていたアリーは、その、世間話でもしているかのような、言ってしまえば些末な問いに、一瞬思考を凍らせる。
だが、次の瞬間、ヒストリアの目を見たことで、アリーは考えを改めた。
縋るような、怯えるような……
決意に燃えるような、覚悟を灯すような……
万感の想いが込められた、揺らぐ炎のような目をしていた。
だから。
この、一見するとなんてことのないような質問は、きっと、ヒストリアにとっては、何よりも重要な意味を持つモノなのだろうと。
「今日は、金の月の18日。昨日まで、竜鎮祭をやっていたわ。
……あ、でもこれは突然開催されたお祭りだから、あんまり関係無いかも……」
「……いいえ、ありがとう」
「……っ!」
ヒストリアから、感謝の言葉を投げかけられて……しかし何故だか、アリーは息が詰まるような感覚を覚えた。
あのヒストリアが、こうして素直に感謝を述べること自体に驚いた……そういう側面もあるにはあるが、それ以上に、その「ありがとう」に込められた思いの重さに、気圧されてしまったのだ。
「そう……やっぱり、そういうことなのね」
俯き、脱力し、力無く呟くヒストリア。
意味は、わからない。
だが、その、短い言葉の中には……信じられないほど深い、悲しみが込められている。
それがわかってしまうから、アリーは思わず、手を伸ばそうとして……しかし、様々な思いがそれを妨げ、伸ばした手を引き戻し、爪が掌に食い込みそうになるほど、強く拳を握りしめる。
そして、キッパリと、自分がここに来た意味を、宣言した。
「……私は、貴女がしたことを許すつもりはない」
「……。」
「けれど聞きたいの。貴女が、何を思い、どんな行動原理の下で、あんな行いをしてきたのかを。他ならぬ、貴女自身の言葉で」
凛として美しく、何より強さを感じさせる言葉だった。
今のアリーの姿を見て、所詮田舎の貧乏男爵の生まれと馬鹿にする者は、きっと誰一人としていないだろう。
強く、人を惹きつけ、導く力がある。
それは、摩訶不思議な魔法などではなく、どんな相手にも真摯に向き合い、言葉を尽くす、生き様の力だ。
そんなアリーと、真正面から向き合って……いかなる心の動きがあったのか、ヒストリアは小さく、だがこの上なく嬉しそうに笑った。
「……貴女も、随分と酔狂な性質ね」
皮肉じみた言葉。
だがそれは、掛け値なしの賛辞だった。
「閉鎖的な文化を持つ盗賊紛いの異民族でも、悪魔を崇拝する邪悪な教団でも、妄執に囚われた物狂いの魔術師でも、
……そして、他ならぬこの私相手ですら、貴女は対話を試みる。
どうして、そんな面倒なことをするの?」
挑発的な笑みと共に、投げかけられた問い。
アリーはいつでも、どんな相手に対してでも、平和的な解決を一番に目指してきた。
中にはヒストリアのように、相互理解が及ばず戦わざるを得なくなった相手も多くいたが、ヴィルクの民のように、偏見を捨てて言葉を尽くせば、良き隣人になれる者達もまた、少なからず存在することを学んできた。
彼らとの協力関係は今、アリーにとって間違いなく大きな力となっている。
だが、そんな実利的な面を考えずとも、アリーは敵対者を、単なる打ち倒すべき対象と捉えることを好まない。
甘さだと言われれば、確かにその通りなのだろう。
しかしそれは、アリーのこれまでの足跡の中で、既に答えの出ている問いだった。
「それは甘さだって、捨てるべきだって、いろんな人から、何度も何度も言われてきたよ。
……でもね、私の大切な人達が、私のその甘さを、好きだって言ってくれるから。だから私はこの気持ちを、大事にしたいの」
頬を赤らめて、少し恥ずかしげに微笑みながら、アリーは言う。
彼女は、ヒストリアのように、誰もが魅了されるような美しい容姿の持ち主ではない。
もちろん、間違いなく整った顔立ちではあるのだが、美貌揃いの高位貴族の夫人達と並べば、相対的に地味な印象を受ける容姿であると言わざるを得ないだろう。
けれど、その柔らかな笑みには、同性のヒストリアさえ、気恥ずかしさを覚えるような、どうしようもなく抗い難い、愛らしさがあった。
「例えその甘さが、自分の身を危険に晒すモノだったとしても……?」
「そうだね。実際、何度か危ない目にも遭ってきたし……」
これもまた、今までに何度もなされてきた問答。
いつものソレと違う所があるとすれば、その問いを投げかけて来た者が、他ならぬ、アリーを危険な目に遭わせてきた張本人であるという所だろう。
特に、ダーンレアルでのヒストリアの計略は、アリーの濃密な人生の中でも、五指に入るほどの危機であった。
「……それでも、私が甘さを捨てないのは――」
けれど、答えが変わることはない。
「――私が、強いからだよ」
……それは、見ようによっては身も蓋もない、だが、確たる自信と確信に満ちた言葉だった。
アリーがどんな相手にも甘さを捨てず、対話を試みてきたのは。
如何なる七難八苦に晒されても、甘さを捨てないまま、今日まで歩んで来れたのは。
その、一番の理由は、他でもない。
彼女が、強いからだと。
甘さを持てるだけの、余裕があるからだと。
そして、その為にアリーはこれからも、強くあり続けるのだと。
これは、そういう宣言だった。
「……。」
「……やっぱり、呆れる?」
言葉を失ったかのように沈黙したヒストリアの様子を、アリーはおそるおそると窺う。
アリー自身、とんでもないことを言っている自覚はあった。
けれど、それは確かに、誤魔化しようのないアリーの本音だったのだ。
「……フフッ」
「……! むぅ……」
暫し、思考が凍りついたかのように呆けていたヒストリアは、そんなアリーの不安げな仕草に、吹き出すように小さく笑った。
そして、表情を和らげながら、馬鹿にされたと感じてムッとむくれるアリーを見つめ、けれども、今ここに居るアリーではない、別の誰かに向けた言葉を、呟いた。
「貴女は、いつも、そうだったわね……」
「……っ!!」
なんて、優しげで、慈愛に満ちた眼差しなのだろう……。
気高く、苛烈で、執念深い、荒れ狂う炎のようだったあのヒストリアと同一人物だとは、とても思えないような、
歳は同じなはずなのに、母のような包容力さえ感じられる、穏やかな声色と眼差し。
本当に彼女は、ヒストリアなのか。
この、アリーの目の前に居る、静かで、理性的で、愛といたわりの心を知る女性が、
領民を虐げ、税を貪り、派閥を作り徒党を組んで幾人もの生徒や教師を学園から追い出し、フィルの心を折り、ルーカスの幼い妹を傷付け、レヴィの母の形見を奪い取り、ニースの故郷に魔物をけしかけ、ジェストを騙して利用し、タウランに冤罪を着せ……己が欲望の為に、様々な人々を苦しめ続けた、あの血も涙もない災厄の悪女、ヒストリアだと言うのか。
……信じられない。
本物のヒストリアが逃げ出す為に、入れ替わった別人だと言われた方が、遥かに納得できる。
だが、そうでないことは、魔力を見ればわかる。
この世でただ一人、アリーだけが、目の前のヒストリアとかつてのヒストリアが、同一人物であることを確信できる。
だとすれば、ヒストリアという人間は、
コレほどの深い愛を抱えながら、平然と人を傷付けることができてしまう、狂人なのか。
「……どうして……どうして、貴女はそうなったの?」
純粋な疑問だった。
何しろ、ヒストリアのような人間に会うのは、アリーにとっても初めての経験だったのだ。
ヒストリアは、一体どのような経緯を経て、このような恐るべき狂気性を獲得するに至ったのか。
天性の性質だけでは、こうはならない。
周囲を取り巻く環境だけでは、こうはならない。
狂人を狂人たらしめるモノ。
そのパンドラの箱を開け、正体を見定めたいという、ある種の好奇心のような欲求を、アリーは抑えることができなかった。
「……。」
――暫しの間、沈黙が空間を支配する。
10秒か、1分か、あるいはもっと長い時間だったかも知れない。
時間感覚さえ曖昧になる緊張感の中、二人は視線だけを交わし合い……そうして暫くの後、ヒストリアは観念したかのようにため息を吐くと、何とも言えない表情を浮かべながら、こう切り出した。
「……妄想のような譫言を、聞いてくださるかしら?」
「……っ!」
それは、全てを話すという意味に他ならなかった。
到底信じられないような出来事でも、ただありのままに、話すと。
そして――
「私は元々、別の世界の人間だったの」
ヒストリアはついに、語り始めた。
――哀しみと、後悔の記憶。その全てを。
◇◆◇◆◇
壊れた堤防から、水が溢れ出すかのように、ヒストリアは言葉を紡ぎ続ける。
「私は元々、別の世界の人間だったの」
「もちろん、公爵令嬢なんてご大層な身分じゃないし、容姿だってこんな美人じゃないし、ヒストリアって名前でもない。本当に、似ても似つかないような、普通の人間だった」
「それで、私達の世界のゲーム……物語本のような物の一つに、ここによく似た世界の出来事が綴られていてね」
「……まあ、貴女が歩んできた足跡が、ほとんどそのまま物語になった本を想像して貰えればいいと思うわ」
「もちろん、ジークも、フィルも、ルーカスも、レヴィも、ニースも、ジェストも、タウランも、……そして、ヒストリアも出てくる物語」
「私にとっては、お気に入りの本の一つ……って感じかな」
一番最初の語り出しからして、まるで意味がわからない……。
本人の言う通り、妄想のような譫言にしか聞こえない、言葉の濁流。
そもそもの話、これまでのヒストリアと、あまりにも口調が違い過ぎではないか。
令嬢然とした言葉遣いは鳴りを潜め、今はずいぶんと、砕けた物言いになっている。
だが、もしかしたらコレこそが、
ヒストリアの、"本当"なのかも知れない。
「そして、ある時、私は死んでしまったの」
「原因はまあ、馬車に轢かれたとか、そんな感じ」
「けれど、私は天国にも地獄にも行くことはなく……」
「目が覚めたら、自分の体が、見知らぬ赤ん坊のモノになっていた」
「……そう、」
「――私は、"ヒストリア"になったの」
昔を懐かしむように、遠い目をしてヒストリアは言う。
もう、二度と手に入らない宝物に焦がれるかのように、愛おしげに、しかしどこか物悲しげに、自分の名を呼んだ。
「信じられないよね」
「物語の登場人物だったはずの人に、自分がなってるんだもん」
「私も最初は、夢か何かかと思ったよ」
「……けれど、結局今日に至るまで、夢が覚めることはなく」
「私は、ヒストリアとして生きることになった」
荒唐無稽な話だ。
こんな話を、大真面目に語ろうものなら、酔いが回りきったむさ苦しい大衆酒場ですら、皆の笑い者にされそうなくらいには。
自身が、物語の登場人物として、その世界の中に入り込むなどと。
ましてや、この世界そのものが、その物語の世界に他ならないなどと。
今この瞬間、ヒストリアの口から語られているので無ければ、きっとアリーでさえ、単なる妄想か夢物語だと思っただろう。
「物語の登場人物になるということは、」
「今後の世界が、そして自分自身が、どういう結末を辿るのかを知っているということ」
「『ヒストリアは、アリーの活躍によって罪を暴かれ、その後の一生を地下牢で過ごす』」
「それが、私の知るヒストリアの物語」
「……っ!!」
アリーは、驚愕に目を見開く。
だってそれは……
だってそれは、まさに、今、この状況に至ることを、ヒストリアは、最初から知っていたという事実に他ならないのだから。
しかし、それなら納得がいかない。
未来を知っているのであれば、自分が、悲惨な末路を辿ると気付いているのであれば、普通は、それを避けようとするはずだ。
物語の筋書きを全て知っているなら、一片の隙もなく、完膚なきまでに、悪事を遂行することだってできたはず。
……いや、そもそも、その手前で一歩踏み止まり、悪事をしないという決断をすることだって、できたはずなのだ。
けれど、現実はこの通り。
ヒストリアは、ヒストリアが知る物語そのままの結末を辿った。
何故、そんなことを……
「……もちろん、私は悪女になるつもりなんて微塵も無かったわ」
「だって、それをしたら、散々人に迷惑をかける上に、人生の大半を地下牢で過ごすことになるって知っているからね」
「だから私は、物語の筋書きを変えることにした」
「領民を虐げることもせず、無駄に散財することもせず、ジーク達とも、貴女とも関わらずに、静かに平和に生きていくと心に決めて」
そう、まさにヒストリアがそう言う通り、普通はそうするはずなのだ。
例えば、アリーが好きな物語である、『ルカイオスの冒険』の世界の悪魔に生まれ変わったとして、
一体誰が、物語の悪魔そのままの振る舞いをしようと思うのか。
そんなことをするのは、自殺志願者くらいなものだろう。
少なくとも、当時のヒストリアは、そうではなかったはずなのだ。
「――それからは、色々なことがあったわ」
懐かしげに、愛おしげに、目を細め、唇を震わせ、ヒストリアは浸るように回顧する。
何故だかその姿が、酷く痛々しく感じられて……アリーは、胸の奥がキュッと痛むような感覚を覚えた。
「仕事人すぎて子供をほったらかすお父様に、全力で甘えてデレデレにさせたり」
「将来起こることが分かっている魔物の襲撃に備えて、戦う術を身につけたり」
「元々の世界にしかなかった美味しいお菓子を、この世界でも作ろうと頑張ってみたり」
「領内で発生する感染症だと思われてる病気の、予防法と治療法を広める為に奔走したり」
「想像してた優雅な貴族生活とはまるで違う、忙しない日々」
けれど、それが何よりも幸せだったのだと。
直接言葉には出さずとも、その表情だけで読み取れる。
「世界を変えた分だけ、新しい問題も沢山出てきたわ」
「近隣の領地との古く根深い軋轢とか」
「悪魔を喚び出そうとするファスリア教団への対処とか」
「他国からの内政干渉の試みの撃退とか」
「物語を知っていると言うだけの小娘だけでは、どうにもできないような問題が、次々と立ちはだかって……」
「けれどその度に、この世界で出会った仲間と共に立ち向かって、一緒に頭を悩ませながら、壁を乗り越えていった」
「そうしていく内に……」
「ただ、『地下牢送りになんてなりたくない』っていう、それだけの願いは、少しずつ、形を変えていって……」
「大切な友達や家族と一緒に、幸せに生きたいと、本気でそう思うようになったの」
そう言って、ヒストリアは、どこか遠くを見ていた視線を、アリーへと向ける。
さっきと同じ、優しげで、慈愛に満ちた視線。
けれど、アリーにはそれが、どうしようもなく恐ろしいモノであるように感じられた。
「信じられないかも知れないけど、アリー。貴女も、私と友達だったのよ?」
「アリーだけじゃない。ジークも、ルーカスも、レヴィも、ニースも、ジェストも、タウランも、関わり合いになるつもりなんて最初はなかったのに、いつのまにか一緒に行動することになったりして。……あ、もちろん今と違って、弟とも仲は良かったよ?」
「……まあ、悪女がいないから、アリー以外は、今の皆とは大分性格が違うんだけれども」
「そんな、素敵な仲間達と一緒に、笑ったり、泣いたり、戦ったり、呆れられたりもしながら」
「私は、物語の悪女なんかじゃない、ヒストリアという一人の人間としての、幸せを手に入れた」
「……!?」
今に至り、アリーは、遅まきに失して、漸く気付いた。
ヒストリアの内なる狂気の源泉は、決して軽い気持ちで触れてはいけなかったモノだったのだと。
これ以上、この話を聞くべきではない。
聞いてしまったら、絶対に、後悔することになる。
けれど、全ては手遅れだ。
もはや、その選択をとれる機会は、とうの昔に過ぎ去っている。
「王都を襲ったドラゴンを倒したわ」
「皆で力を合わせて、心を一つにして、凄まじい激戦を経て、ついに竜を打ち倒す。物語の中の貴女が、そうしていたように」
「そして、ついに私は、物語に登場した、全ての脅威を打ち払い、悪女であったヒストリアさえも笑えるような、完璧なハッピーエンドに、辿り着いた」
「最後には、古い風習を掘り起こして、竜鎮祭を復活させて、国中みんなでお祭り騒ぎ」
「苦労した思い出の分だけ、思いっきり笑って、はしゃいで」
どうか、ここで話が終わってくれ。
そう、アリーは願わずにはいられなかった。
もしもヒストリアの語っていることが全て真実であるのなら、今のこの状況は、これまでに起きた事件は、一体何だったのかと。そんな疑問は、胸の奥に仕舞い込み、二度と口に出すことはしないから。
納得なんか、出来なくたって構わないから。
だから、どうか、もうここで。
ハッピーエンドのまま、終わってくれと……。
「……。」
「祭りが終わった次の日、目を覚ましたら――」
怖い。
やめて。
聞きたくない。
アリーは、耳を塞ぎたくなる衝動と、必死に戦った。
ここまできて、聞かないなどという逃避を、許されるはずがない。
全てを知るのだ。
この、哀しき狂人の、全てを。
「――私の体が、見知った赤ん坊のモノになっていた」
その瞬間、ヒストリアの纏う雰囲気が、ガラリと変わる。
声を荒げているわけではない。
顔を憎悪に歪めているわけでもない。
けれど、アリーには感じられた。
焼け付くように熱く、刺すように冷たい、ヒストリアの怒りが。
「……怖かったなぁ」
「急に体が動かせなくなって、」
「言葉も上手く話せないようになって、」
「仲良くなった筈の人が、急に初対面のように振る舞ってきて、」
「日付が、ずっと前のものになっていて……」
「――全てが、振り出しに戻っていた」
「積み上げた物も、築き上げた関係も、何もかもを無かったことにされて……私が、この世界にやってきたその日に」
……その、絶望と、恐怖と、喪失感は、想像することすらできない。
ただそれだけで、心が折れるには、十分すぎる出来事だ。
なのに……
「それでもね……私は、諦めなかったよ」
「あの日々を取り戻し、また、皆と会う為ならば。なんだってできる。なんだってしたい。そう思えるくらいには、皆の事が、大好きだったから」
「前の世界でやってきたことを、できる限り思い出して、同じ場所に辿り着く為に、必死に必死に足掻いた」
それは、どれほど苦しく、無謀な挑戦であったのだろう。
自分の一挙手一投足、その全てを覚えていることなど、できるはずがないのに。
それをしなければ、もしかしたら二度と、大好きな人達に会えなくなるかも知れないという、その恐怖心と戦いながら、たった一人で運命に抗うなどと。
自分だけが、この先に起こることの全てを知りながら、大切な人も含めた世界中の全員を、騙し続けて生きるなどと。
「けれど、そんな物は、すぐに破綻していって……」
「とうとう、大きな失敗をやらかして、私は、かつての世界線からは完全に外れてしまった」
それが不可能であることは、わかりきっている筈なのに……。
「もう、あの世界には戻れない。もう、彼らと会うことは叶わない」
「それを思い知った時、私は、もしかしたら生まれて初めて、みっともなく大声で泣き叫んだわ」
運命が決定付けられた瞬間、どれほど大きな悲しみが、彼女のことを襲ったのだろう。
そんな経験をしたら、きっと自分なら、二度と立ち直れない。
想像することしかできないが、アリーはそう確信めいた思いがあった。
だが、ヒストリアは、それで世界に絶望して終わり、というわけではなかったのだ。
それが幸運だったのか、あるいは不幸であったのかは、今となってはもう……わからないが。
「そんな私を、救い上げてくれたのが、アリー。貴女だったのよ」
「……!」
また、あの眼差しだ。
ここにきて漸く、ソレの理由がわかった。
この、優しく、慈愛に満ちた、しかし、どこか恐ろしくも感じられる、ヒストリアの眼差しは――
「やり方は、まあまあ乱暴だったんだけどね……」
「それでも、私にとってそれは、どこまでも続く闇の世界に差し伸べられた、一筋の光だった」
――今、ここにいるアリーではない、かつてのアリーに向けられたモノだったのだ。
「それからは、私はやり方を変えたわ」
「前回の記憶をなぞるのではなく。覚えている限りの全てを活用して、前回以上の結果を手に入れる為に、全力を尽くすようになった」
「そうしてまた、ゼロから全てを積み上げていって……」
「私はもう一度……いいえ、一度目以上だって、胸を張って言えるくらいの、完璧なハッピーエンドを掴んでみせた」
絶望の淵から立ち直り、多くの助けを借りながら、ヒストリアは、己の運命を切り拓いた。
ここまでなら、いい話だ。
そう、ここまでなら。
「でも、ダメだった――」
「竜鎮祭の最終日、金の月の17日の夜」
「そこはかとない不安を抱えながら起きていた私の意識は、突然に途絶えて……」
「――また、全てが振り出しに戻された」
――いったい、世界はどれほどの苦痛と絶望を、彼女に与えるつもりなのだろう。
天罰にしたって、あまりにも酷すぎる。
地獄の責め苦でも、これほど残酷なことはしない。
単に苦しみを与えるのではなく、必死の思いで掴み取った幸せを、何度も何度も、無慈悲に毟り取るなどと。
いったい、どのような正当な理由があって、そんな試練を与えると言うのか。
「……それでも」
それでも……ヒストリアは、
「それでも私は、決して諦めたりはしなかったよ」
「貴女達がかけてくれた言葉と、決して消えることのない思い出を胸に、何度だって幸せを掴み取り、いつかはあの日を、金の月の17日を超えてやるって」
「辛くても、苦しくても、寂しくて泣きそうになったとしても、歯を食いしばって痩せ我慢して、運命への叛逆を宣言した」
「『私は、何度だって立ち上がるからなっ!!!』って……」
ヒストリアは戦い続けた。
全てを台無しにされ続けても。
何度心を折られそうになっても。
ヒストリアは、未来を夢見ることを、諦めたりはしなかった。
……その、はずだった。
「でも……それもせいぜい、最初の50周くらい」
もっと早くに折れていれば、きっと、ここまで苦しむことも無かっただろうに。
「何度も世界をやり直す内に、私は、この先の出来事が完全に読めるようになってしまった」
もっと早くに諦めていれば、きっと、こんな思いをせずとも済んだだろうに。
「私がこうしたら相手はどう思うのか」
「私がこれを言ったら世界はどんな動きを見せるのか」
「知ってしまってからは、全てのことが、陳腐な茶番に見えるようになった」
ヒストリアにとって最大の不幸は、彼女の心が、何度世界を超えても朽ち果てないくらい、強靭だったことだろう。
「端的に言えば、私は飽きてしまったの」
早々に全てを投げ出し、廃人になってしまえば、ここまでの狂気は育たなかったはずなのだ。
「それからは、かなり好き勝手に振る舞うようになった」
「何をしても、どうせ全部無かったことになるんだから、誰に咎められようと少しも気にならなかった」
「閉じた世界の中で、少しでも新しいものを、心を動かすものを、探し続けて……」
「……でも、それもすぐに限界が来た」
「蓋を開けてみれば、18年でできることは、あまりにも少なかった」
……でも、そうはならなかった。
ヒストリアは、完全に壊れるまで、正気を保ち続けてしまった。
その責任の一端には、かつての世界のアリーの言葉も、大いに関係しているのだろう。
二周目の世界で、絶望に打ちひしがれたヒストリアを、アリーが救ってしまったから……。
ここまでの、取り返しのつかない狂気が、育ってしまった。
「それで……」
「ある時、気付いたの。……いや、思い出したと言うべきか」
「この世界が、物語であったことを」
「ずっとずっと、目を逸らし続けていた事実」
「時間が巻き戻るのは、本来の物語が終わりを迎える、そのタイミングであったことを」
――それが、今のヒストリアを形作る根幹だ。
「正しい筋書きを描かなければ、それは物語にとって致命的な欠陥となる」
「欠陥がある限り、物語を終えることはできない」
「だから、世界を終わらせるためには……」
「物語を、正しい形で完結させる必要がある」
……そうか。
アリーは今に至って漸く、全てのことに納得が行った。
それこそが、別世界からやってきた、この世界を物語と知るはずの彼女が、物語の悪女と同じ結末を辿ることを望むようになった、何よりも悲しい理由だったのだ。
「そうして、千何百年も前の記憶を掘り起こして、」
「試行錯誤を重ねながら、自分の知る物語を再現していって」
運命に抗おうと、戦い続け。
常人ならとうに折れているだろう闇の中でも、諦めることをせず。
何度叩き伏せられようとも立ち上がり、本物の幸せを掴み取ろうと走り続けた、ヒストリアの。
「――そして今日、私は、この世界に来て初めての、金の月の18日を迎えている」
それはどうしようもないほどの、運命への敗北だった。
「つまり……」
「私は、この世界にとっては、いらない人間だったってこと」
そう、吐き捨てるように笑って、ヒストリアは自嘲する。
そもそも、ヒストリアが幸せを願ったこと、それ自体が間違いだったのだと、彼女は今日、世界によって思い知らされたのだ。
お前が出しゃばらず、素直にアリーの物語の悪役であれば、世界が巻き戻ることなどなかったのだと、嘲笑うように……。
「……それが、私の全部」
全てを吐き尽くし、何もかもを言い終えて、ヒストリアは脱力した。
まるで、枯れ木のような、死期を悟った老人のような、疲れ果て、何もかもを諦めたような、無気力な姿をヒストリアは晒す。
そんな彼女を前にして、しかしアリーには、かける言葉が見つからなかった。
……いや、それ以前に、アリー如きが、声をかけていいのかすら、わからなかった。
多くの人を救ってきた。
その自負を持っているアリーでさえ、白旗を上げざるを得ない。
無限の怒りと悲しみの深淵が、そこにある。
「私だって……っ」
暫くの沈黙の後に、ヒストリアが口を開く。
その声は、どこか上擦っている。
ずっと、抑圧されてきたモノが、喉に込み上げるかのように。
「私だって、幸せになりたかったっ!!!」
思い切り声を荒げ、炎のように感情を昂らせ、千数百年もの間溜め込み続けた言葉を、決壊させる。
「傷付きたくなんかなかった」
「傷付けたくなんかなかった」
「誰が好き好んで、あんなことするもんかっ!!」
「誰がっ……、悪役なんかになりたいもんかよぉっ!!」
「幸せに、なりたい」
「それだけなのにっ」
「たったの、それだけなのに……」
「どうして……」
「どうして、私だけが、それを許されない……」
「……アリー、貴女が妬ましい」
「殺したいほど、憎たらしい」
「私もっ!!」
「……主人公に、なりたかった」
ボロボロと、大粒の涙が、アリーのドレスを濡らしていく。
それは、かつてアリーに救われたあの日以来、体感時間にして実に千数百年振りとなる、ヒストリアの涙だった。
無意識のうちにヒストリアに歩み寄り、涙に濡れるのも構わず彼女の頭を抱き寄せ、アリーはその、妙に小さく見える背中を摩る。
ヒストリアのために、何ができるわけでもない。
慰めの言葉など、浮かぼうはずもない。
独り善がりな行いだと、そう誹られても仕方がないだろう。
けれど、今だけは、
千年を超える苦しみを乗り越えた、勇気ある人に、今だけは、どうか。
――安らかな、暗がりを。
・・・
・・・・・
・・・・・・・
それから、30分ほどの時が流れ――
ヒストリアが胸の中でモゾモゾと動いたのを感じると、アリーは強く抱きしめていた両の腕の力を緩め、ヒストリアを解放する。
そうして、30分振りに見たヒストリアの顔は……やはり、微塵も晴れた様子はない。
当然のことだ。
ヒストリアの抱えた苦しみを思えば、アリー如きの抱擁など、塵のように小さく、一瞬の出来事に他ならないのだから。
それだけのことで、ヒストリアの心を、ほんの少しでも救えると思うのなら、烏滸がましいにも限度がある。
それに、何より。
ヒストリアは、助けを求めてなどいないのだ。
彼女を閉じ込めていた円環を、ヒストリアは自分の力だけで突破して見せた。
だから、ヒストリアにとって、今はもう、全てを終えた後の事なのだ。
役目を全うし。
傷付き、疲れ果て。
漸く、終わりを迎えられたのが、今のヒストリアなのだ。
「『ヒストリアは、アリーの活躍によって罪を暴かれ、その後の一生を地下牢で過ごす』」
「……ぁ」
ハッキリと、力強く通りの良い声で、ヒストリアは再度その言葉を口にする。
その言葉の意味するところを、アリーはどうしようもないほどに、理解できてしまった。
「もしも、貴女が私に、ほんのカケラほどでも同情を抱くなら」
それは、明確なアリーへの拒絶だ。
「――二度と、私を救わないでね」
千数百年、一度として口に出して来なかった、アリーへの恨み言を、
ヒストリアは、精一杯の笑顔で、彼女に投げつけた。
◇◆◇◆◇
―――。
実りをもたらす秋の陽の光が、柔らかく大地を照らす。
爽やかな微風が吹き抜けると、美しい庭園の木々や草花が、サラサラと陽気にお喋りを始める。
鳥は自由に空を翔け、実りの季節を祝う歌を、風に乗せてどこまでも響かせる。
人々の間にただよう空気は、昨日の祭りの影響が抜けきっていないのか、まだほんの少し熱っぽい。
――ヒストリアが求め続けた、金の月の18日は、そんな素晴らしい日だった。
ヒストリアとの面会を終え、地下牢を出たアリーは、サレナを伴い、王城の中庭を歩いていた。
そうして、今自分が手にしている幸せを噛み締めるほどに、どうしようもない罪悪感が、心の奥底から湧き出してくるのだ。
別に、アリーが悪いわけではないことは、分かってはいるけれど。
それでも、今の自分の立場は、幸福は、その全てが、ヒストリアの犠牲の上に成り立っていると、知ってしまったから。
だが、アリーにできることは、何もない。
「アリー!」
「!」
凛として、爽やかで、頼り甲斐と親しみが感じられる青年の声が、アリーの名を呼ぶ。
わざわざ誰何するまでもない。
幾度となく隣で聞いてきた、それは王太子の声に他ならなかった。
弾けるように振り返って、視線を送れば、その美しい金髪を汗で濡らし、息を切らせた婚約者の姿が、アリーの目に飛び込んでくる。
「ジーク、どうしたの!?」
「こちらのセリフだよ。ヒストリアと会ってるって聞いて、居ても立っても居られなくて!」
「……あっ!」
……そうだった。
世間的な認識では、ヒストリアは傲慢さと私欲に塗れ、多くの人を傷付けた、おぞましき悪女なのだ。
いや、間違いなく本人がやったことではあるので、その認識は正しいものとも言えるのだが。
アリーだってそう思っていたからこそ、ジークに教えれば絶対に止められると思って、黙って会いに行ったのだから。
軽い気持ちとまでは言わないが、こうまで重いものを背負わされるとは、カケラほどにも思わずに……。
「……アリー、ひどい顔してる」
「え!?」
精一杯、いつも通りの調子を保とうとして……しかし、そんなハリボテは、婚約者には微塵も通用しなかった。
アリーの僅かな違和感に目敏く気付いたジークは、その原因を考え、しかしすぐさま正体に思い至り、顔を怒りに歪める。
当たり前だ。時系列を考えれば、アリーにこんな顔をさせた人物は、ヒストリアを置いて他にいるはずがない。
「やっぱり、ヒストリアに何か……あいつッ!」
「待って、違うの!」
「……え?」
怒りに震え、ヒストリアのいる地下牢へと足を向けようとしたジークを、アリーは慌てて呼び止める。
違うのだ。
ヒストリアに何かをされたわけではない。
全ては誤解だと、ヒストリアは、何も悪くないんだと。
そう言いかけて……
けれど、すんでの所で踏み止まった。
「何があったんだ、アリー」
「あ、あの……」
言えない。
言えるわけがない。
だって、それを言ったことで、万が一にでも世界が歪むようなことがあったら……
ヒストリアを、終わらせてあげられなくなる。
何十回も世界を超えてきた、強靭な彼女のことだ。
今更一周追加されたくらいなら、容易く乗り越えてしまうだろう。
けれど、その世界線のヒストリアは、きっともう二度と、アリーに真実を話すことはしなくなる。
そうして今度こそ、彼女だけが真実を抱え、世界の誰一人としてヒストリアの犠牲を知ることもなく、真に孤独な終わりを迎えるのだ。
そんなのは、あまりにも……
「……大丈夫。ただ、ちょっと気味が悪くなっただけ」
だから、決して話すことはできない。
例えどれだけ、罪悪感に押しつぶされそうになったとしても。
「だって……」
この、ヒストリアの真実を知る、あらゆる世界線でたった一人の自分が、彼女を墓場まで送るのだ。
「――訳のわからない、妄想のような譫言を、言い続けていたんだもの」
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