Verre-3 灰かぶりと魔法使い3
「父上が? 仕事のことかな……。分かりました、教えてくださりありがとうございます」
継母に一礼して、リオンは子爵の部屋がある二階へ向かおうとした。もちろん一緒にドレスを抱えているアンブロワーズも体をそちらへ向ける。
「お待ち。鳩は呼ばれていないよ。灰かぶり一人でお行き」
「それでは俺はこのドレスを部屋まで運んでおきますね。行ってらっしゃい、リオン」
リオンはドレスとスカートをアンブロワーズに託し、改めて継母に一礼してから階段を昇った。子爵の部屋に辿り着き、ドアをノックすると中から小さな返事が聞こえた。
子爵は部屋に入って来たリオンを笑顔で出迎える。少し調子がいいのか、ベッドの上で体を起こしている。
「父上、起きていて大丈夫ですか」
「あぁ、今日はちょっとだけ元気だ。寝てばかりいてもよくないからな」
ベッドの脇に置かれた椅子にリオンは腰を下ろす。
「先日の議会の資料、目を通したよ」
「では次回、父上の意見を皆様に伝えておきますね」
「……リオン」
「はい」
「エルヴィールからは何も聞いていない? アイツは何も言っていなかったか」
「お義母様? 父上が呼んでいるとだけ」
「そうか……」
子爵は少し躊躇ってから、手にしていた紙をリオンに差し出した。
「なんです?」
「……目で見ただけでは読み間違えるかもしれない。ちゃんと音読して中身を理解してほしい」
真剣な顔で言う子爵を見て、リオンの表情も険しくなる。無意識に震える手で掴んだ紙に、ゆっくりと目を落とす。
「国王陛下への書状? えぇと……。『サンドール子爵ガエル・ヴェルレーヌは、長男リオンに爵位を譲渡する』!?」
「うむ……」
「いや、『うむ』じゃないですよ。無理ですよ。父上まだ生きてるのに」
「分かっているとも。実際に陛下に提出するわけではない。それくらいの覚悟だということだ」
「父上……」
子爵は瘦せ細った両手がまだそこにあるのを確認するように軽く指を握ったり開いたりした。リオンの母親が健在だった頃の、鹿や兎を狩りに行って元気に笑っていたあの姿は今はもう見る影もない。
体力がすっかり落ちてしまったこと以外はどこも悪くないのだと医者は言う。あの医者もその医者も、風邪や病気ではないから薬を飲んだり入院したりする必要はないのだと言う。しかし、いつになっても子爵に元気は戻らない。子爵が痛めてしまったのは、体ではなく心。傷付き、疲弊し、壊れてしまった心を元に戻すのは困難を極める。ただ寄り添うことしかできない自分のことがリオンは非常にもどかしかった。
書状を持つリオンの手に子爵は自分の手を重ねる。
「私はもう戻れない……。オマエには私の名代ではなく、自分自身が子爵なのだと思って動いてほしい。これまでもよく頑張ってくれた。オマエには苦労をかけるね。ありがとう。そして、すまない」
「父上、顔を上げてください」
「オマエは伝令役ではない。自分で、思った通りに動いてほしい。もちろん、悩んだら相談してくれて構わない。でも……。でもな……。いつオマエが正式に爵位を継いだとしても、ちゃんと動けるように……。今からもう、子爵として過ごしてほしい……。私は……」
子爵の細い指が、家事で荒れているリオンの指に絡む。
「私は、いつ、粉々に砕けてしまうか分からないから……。今のうちに、オマエに託せることは託しておく」
「父上、私は……。私はまだ貴方に教わらないといけないことが」
「……エルヴィールとオマエと、立て続けに話をして疲れてしまった……。……もう、休ませてくれ、リオン。大丈夫、今日はちゃんと食事を摂る元気はあるから……。ただ、少し、休ませてほしい……」
「わ、分かりました。あの、後でもう少し詳しく話をしてもいいですか」
子爵はリオンの問いかけには答えずに布団にくるまってしまった。やがて、小さく寝息が聞こえて来る。
「……お休みなさい、父上」
書状を手にリオンが部屋から出ると、アンブロワーズが廊下の壁に凭れて待ち構えていた。
「聞いていたのか」
「子爵も大変ですね。彼をあんな風にした継母達、あいつらの足の一本や二本俺が削ぎ落としてやりましょうか」
「駄目だよ」
「リオンは優しすぎるんじゃないですか」
階段を降り、隅に追いやられているリオンの自室に入る。元々はもっと広い部屋を使っていたが、現在そこはナタリーの部屋になっている。今のリオンの部屋は物置扱いであまり使われていなかった小さな部屋だ。硝子庭園が完成してからは日中は温室にいることが増えたが、私物が置いてあるのはこの部屋であり、ベッドがあるのもこの部屋なので帰る場所はここである。
書状を机に置いて、リオンはベッドに倒れこんだ。体から少し遅れて、銀色の髪が広がりながら落ちて行く。
「お義母様達をこの家から切り離すことは不可能ではない。けれど、あの人達がいなくなったら父上はあの人達の行く末を案じて心を痛める。父上はお義母様のことを愛してはいたから。あと、ヴェルレーヌ家を破滅にも似た状況に陥れた女達がここを離れて上手く暮らせると思うか。誰かを餌食にするかもしれないし、誰かに何かされるかもしれない。それに……あんなんでも、家族だからさ……」
アンブロワーズは書状を手に取る。
「まあ、あの女達がどうなろうと俺の知ったことじゃないですけどね。俺は貴方が幸せになってくれればそれでいいので。ねえ、リオン。俺の魔法でどうにか上手くやってこれを国王に了承させてやりましょうか。特例で生前の爵位の継承を許可してもらいましょう」
「本当は父親に付いて回って色々教わる時期なんだろうな、他の家では」
「子爵になってしまいましょう」
「魔法なんて使えないくせに」
「爵位を手に入れれば、王女様にお目通りできるかも」
飛び起きたリオンを見てアンブロワーズがにやりと笑う。
「あっ、違う! 違うよ。起きようと思って起きただけ」
「子爵になれば王女に会えるかもしれませんよ。会いたいんでしょう、シャルロット王女に」
アンブロワーズはベッドに腰を下ろし、リオンに体を近付けた。そして包み込むようにして肩を掴む。
リオンの青い瞳とアンブロワーズのオレンジ色の瞳が真正面から向かい合う。視線がばっちりと合わさったところで、純白の翼が大きく広げられた。
「請え、願え、祈れ。我が魔の力によって御前を導いてやろう。御前の望みは何だ?」
圧倒的な存在感。強烈な圧迫感。御伽噺に登場する魔法使いが道に迷った子供と対峙しているかのような妖しげな雰囲気がアンブロワーズの周囲に広がる。
リオンは息を呑み、眼前に広がる白を見つめた。実際にはほんのわずかな時間に過ぎなかったが、まるで何時間も、何年もそうしていたかのような感覚に捕らわれていた。
窓の外から馬の嘶きが聞こえた。それを合図に、リオンはハッとしてアンブロワーズから飛び退く。
「びっくりした……。飲まれるかと思った……」
「魔法使いっぽかったでしょう?」
「君はたまに恐ろしいな。本当に魔法使いなのかと思ってしまう……」
アンブロワーズは翼を畳んでベッドから立ち上がった。窓から見える厩にいるリオンの愛馬シトルイユに小さく手を振るが、シトルイユは草を食んでいて気が付かない。
「君の魔法でどうにかできるのならそうしてしまってもいいけれど、爵位については大事な話だからもっとちゃんと考えたいし、可能ならば父上ともしっかり話をしたい」
「貴方がそう思っているのなら俺はそれで構いませんよ。でも困ったら頼ってくださいね」
「いつもありがとう」
「ふふ。俺は貴方の魔法使いですからね。貴方が幸せになれるように、貴方の願いが叶うように、貴方の進む道が明るいものになるように、俺は俺の魔法で貴方を助けましょう」
アンブロワーズがリオンを振り向く。
「リオン、君の望みは何?」
逆光の中で純白が輝いていた。眩しさに目を細めながら、リオンはアンブロワーズを見る。
「私はガラスの靴を取り戻したい。この足にガラスの靴を履いて、シャルロットに会いに行く」
「会ってどうする?」
「会って……。会って、彼女の気持ちを確かめたい。あの夜のガラスの君にならば、話をしてくれるかもしれない。彼女がもしも……まだ、逃げ出したいと思っているのならば私は……」
「彼女を婚約者から奪い取る?」
「うばっ……奪うのは、良くないと思う……。手荒な真似はしたくない。私はただ……。まず、彼女に会ってその気持ちを確かめたいだけ。その後どうするかは、会ってから」
不意に部屋が暗くなる。窓の前でアンブロワーズが翼を広げたのだ。真っ白な魔法使いはかつて灰かぶりにそうしたように、靴をなくしたガラスの君に手を差し伸べる。
リオンは立ち上がり、アンブロワーズの手を取る。あの夜、薄汚れた灰かぶりは縋り付くように魔法使いの手を掴んだ。今は、共に歩んでくれる相棒にも似た存在への信頼を込めてそっと手を乗せた。
「俺のかわいいリオン。君の願いがどうか叶いますように」
「ありがとう、素敵な魔法使いさん」
「あぁ、この魔法使いに任せたまえ」
そう言って、アンブロワーズはウインクをした。