Verre-3 赤き狼の宿1
「地図も時計もアンブロワーズが持っているんです」
「え……。それじゃあわたくし達、迷子……?」
すっかり落ち着いた様子の白馬の上から、シャルロットはリオンに言った。リオンは白馬の引き綱を引いて歩いており、シトルイユは誰に引かれることもなくリオンの後をついて歩いている。時折小動物などに気を取られているが、リオンが呼び止めるとすぐに戻って来た。
仲良く馬を並べて歩いていた場所からは随分と離れてしまった。少し行ってからひとまず休憩しようということになり、水場、もしくは開けた場所を目指してリオンとシャルロットは進んでいた。
「荷物は全部アンブロワーズが持ってくれているんです、いつも。私が持つと言っても駄目だと言われてしまって。『普段扱き使われているんだから、俺といる時は俺を頼ってください』と」
「魔法使いさん、リオンのことがとっても大好きなのよね。わたくし負けていられないわ」
「シャルロット様まであんな風になってしまったら困ります。彼と張り合わないでください」
「……ねえ」
何やら不服そうな声が聞こえて来て、リオンは白馬を止まらせて自分も立ち止まった。馬上を見上げると、シャルロットは不満げな顔をしてリオンのことを見ていた。
「シャルロット様……? 私、何か貴女の気に障ることを」
「リオン、さっきわたくしのこと『シャルロット』って呼んだでしょ」
「あっ。あれは咄嗟に……。大変失礼しました」
「シャルロットって呼んで」
「え」
「舞踏会の時も、この間もそうやって言ったわ。小さい頃みたいに言ってって」
「あの頃は、貴女が王女様だとは知らずに無礼を……」
「シャルロットって言って。……分かったわ。それじゃあ、これは王女であるわたくしからの命令よ。わたくしのことはシャルロットと呼びなさい」
「めっ……。……シャ、シャルロット……様。……っ、シャルロット!!」
もうどうにでもなれ。リオンは勢いに任せて悲鳴のように叫んだ。小鳥が飛び立ち、リスが逃げて行く。白馬が体を揺らし、シトルイユは耳を動かす。そして、シャルロットは満足げに笑った。
ただ名前を呼んだだけなのに酷く疲れてしまった。リオンは肩で大きく息をして、シャルロットの様子を窺う。
「こ、これでよろしいですか……シャルロット」
「えぇ。……いい。いいわね、いいわ。貴方はずっと貴方だけれど、どこか距離を感じていたから。私のよく知る貴方に戻った気がするわ」
再会してから感じていた、王女と没落寸前貴族の間にそびえる壁。別荘で互いの地位など知らずに遊んだ時間が遥か昔のことであったかのように、二人の立っている場所はぐっと離れてしまった。
「これは、これは二人の時だけですからね。皆の前では、貴女は王女様だから」
「みんなの前のわたくしが王女様なら、貴方の前のわたくしは何なの?」
素朴な疑問を投げかけられて、リオンは視線を彷徨わせる。
「わ、私……。……僕の前では、君はあの時と変わらない、ちょっぴり我儘な普通の女の子だ」
しっかりと目を合わせて言う。シャルロットの目がきらきらと輝いたのを見てから、また少しだけ逸らす。
立っている場所、置かれている状況、そもそもの身分。二人だけでいる時は、そんなものを意識していなかったあの頃に戻って行くようだった。
シャルロットは王女だからこそ気にせずに近付いて来るが、リオンは無意識下で距離を取ることを己に強いてしまっている。どこまで戻っていいのか、今の自分は今の自分だから、このままでもいいのかもしれない。王女から命令されて呼び方は昔のようになったが、喋り方は今のところ戻りそうにない。接し方も、もちろん。
「ふふ、またリオンに我がまま言っちゃったわね」
「いいんですよ、お姫様やお嬢様という者は多少我儘なくらいがちょうどいいんですから。名前の呼び方くらい。……私の義姉達のようでない限りは」
リオンは白馬の引き綱を引いて歩き出した。興奮して走り回った白馬のことを早く休ませてやりたいので急ぎたいが、急いでは脚に負担がかかるのではないかと思ってゆっくり歩く。
しばらく行くと周りの木が少なくなってきて、少し開けたところに出た。シャルロットが前方を指差す。
「あそこに小屋があるわ」
「商人の休憩場所、それとも木こりの作業場でしょうか?」
「行ってみましょう。誰かがいれば地図を見せてもらえるかもしれないし、誰もいなくてもお馬さんを休ませてあげられるわ」
「そうですね、ではあちらに」
草むらを掻き分けて、二人は小屋の前にやって来た。手頃な木に綱を留めて馬達を休ませる。
まず、リオンがドアをノックした。建付けが悪いのか、ドアはノックしただけで大きく震えて軋んだ音を立てた。次に、シャルロットが声をかけた。返事はない。
「お留守かしら」
「誰もいないようですね……。鍵もかかっていないようです」
「それじゃあお邪魔しちゃいましょうか。貴方も座って休みたいでしょ」
「そうですね……。ごめんくださーい」
リオンはドアを開けて小屋に足を踏み入れる。定期的に人に使われているのか、床に埃が溜まっていたり空気が淀んでいたりすることはない。しかし、カーテンが閉められているのか真っ暗である。開けたドアから入る光だけでは中の様子が分からない。
「ちょっと中を見て来ます。カーテン開けて来ますね」
「分かったわ」
シャルロットを外に待たせて、一人だけで小屋に入る。暗がりにまだ目は慣れないが、壁伝いに一歩ずつ進んで行く。十歩程進んだだろうか。そこで、何かがリオンの肩に触れた。誰かの手が載せられていることに気が付き、小さく悲鳴を上げる。
「リオン? どうかしたの」
「そ、そこで待っていてください……!」
小屋に入ろうとしたシャルロットが立ち止まる。今、ここに立ち入らせるわけにはいかない。シャルロットを守るため険しい顔になって背後を警戒するリオンだったが、今にも恐怖で手足が震え出しそうだ。
両肩に誰かの手が置かれた。リオンは横目に見遣るが、暗闇では相手の顔が分からない。くんくんと匂いを嗅いでいたらしい何者かが舌なめずりをする音が聞こえる。耳元から首筋にかけて、吐息がかかる。
「人間の匂い……。美味そう……」
そして、噛まれた。確かな歯の感触。
「ぁう、わっ、ひぃっ……! ひゃぁっ……!?」
情けない悲鳴を上げてリオンはもがくが、背後から掴みかかっている何者かを振り解くことはできない。下手に動けば噛み付かれた右耳を食い千切られそうで、あまり抵抗ができなかった。
「リ、リオン! どうしたの! 大丈夫!?」
「い、痛い! 痛い痛い!」
「リオン! は、入るわよ!」
反対側の壁伝いに進んだシャルロットがカーテンらしき布を引っ張った。部屋を覆っていた暗闇が消え、明るくなる。
姿が露わになったのは一人のドミノだった。三角形の耳に、ふさふさの尻尾。身形はお世辞にも上品とは言えず、庶民の中でも貧乏そうな装いである。年齢は三十代くらい。何でも引き裂いてしまいそうな爪はリオンのジャケットをしっかりと掴み、何でも噛み千切ってしまいそうな鋭い牙がリオンの右耳に食い込もうとしている。
半泣き状態になっているリオンを見て、シャルロットは危険を顧みずに駆け寄った。勇気を振り絞って、ドミノの尻尾を引っ張る。
「うわっ、何しやがる!」
口が離れた隙に、リオンは身を翻してシャルロットの手を引き、ドミノから距離を取った。手を取って引き寄せたところまでは格好良く決まったのだが、足を止めた途端に力が抜けてその場にへたり込んでしまった。冷や汗と共に、涙が数粒零れた。
食い殺される。自分も、シャルロットも。これほどまでの命の危機を感じたのはいつ振りだろうか。幼い頃に誘拐されかけたことがあっただろうか、熊や狼に追い回されたことがあっただろうか。何が実際に起こったことだったのか思い出せないくらい、リオンは今自分に襲い掛かる恐怖に全身を脅かされていた。体の震えが、収まらない。




