吸血鬼に生まれ変わりましたが、血なんて飲みたくありません!
異世界転生もの。ゲームや小説、漫画などの世界に生まれ変わること。そんな話をよく読んでいたけれど・・・
よりによって自分が、それも、吸血鬼に生まれ変わるなんて予想だにしていなかった。
ざわざわと周囲がうるさい。様々なひそひそ話を聴きながらも、私はしゃんと背筋を伸ばした。
「珍しい、クラウゼンのご令嬢だわ」
「あれが噂の」
「血を飲めないという娘か」
「美しいのにもったいないな」
様々な声は、わざわざ私に聞こえるような声量で紡がれている。まったく、意地が悪い。これだからパーティーは嫌いだ。
「ヒルダ、大丈夫?」
「ええ。ご心配なく、エル兄様」
だけど、今日は隣にいるエルンスト兄様の誕生パーティーだ。妹の私が不参加というわけにはいかない。笑顔を取り繕えば、兄様は心配そうな顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。
自己紹介をしよう。私はヒルデガルト・クラウゼン。クラウゼン家の娘であり、純血の吸血鬼である。
そう、吸血鬼。ここは吸血鬼の世界の恋愛関係を描いたゲーム、「血よりも深い絆」の世界だ。兄様は攻略キャラだけど、私はただのモブ。ゲーム内では兄様の会話の中にしか出てこないような雑魚キャラだ。
この世界での吸血鬼は、三種類いる。一つは「純血種」。その名の通り、他の種族の血が一切混じっていない、生粋の吸血鬼。生きる者の「血」を食事とし、長い年月を生きる種族にして、夜にしか生きれない希少種だ。
二つ目は「半血種」。長い年月の中で人の血が入ったけれど、まだ吸血鬼としての本能のほうが多い種族だ。血以外のものも食べられる上、太陽が燦燦に輝いている日じゃなければ日中でも動けるらしい。羨ましい。
最後は「雑種」。これはもう、人としての側面が強い。血は飲まないし、太陽の下でも問題なく動ける。ほとんど人と変わらない。ただ、ちょっと体が丈夫だったり、魔力を持っていたりするだけだ。
このゲームのヒロインは雑種だ。けれどその血は大変美味しく、純血や半血の攻略キャラを魅了していく。私たち吸血鬼にとって、血の美味しさは相性に等しい。ヒロインの血に魅了された攻略キャラたちは、ありとあらゆる手段でヒロインを篭絡し、ヒロインは戸惑いながらも彼らと絆を繋ぎ、結ばれる。そんなストーリーだ。
そんなゲームに純血種として転生した私、ヒルデガルト。生まれた時は何も覚えてなかったが、記憶を取り戻した時は絶望した。だって、半血種や雑種ならまだしも純血種だ。人の血を飲まなければ生きていけない。
人間の血。
そう思った時、私は口にした血をすべて吐き出した。それまでは飲めていたはずの血を、一滴たりとて飲めなくなった。飲めば吐く。家族は大慌てだったけれど、私は無性に安堵した。
「ああ、私はまだ人だ」
口には出せなかったけど、心からそう思えた。
それからの私は、血が飲めない代わりに果物を食べるようになった。お腹はほとんど膨れない。けれど、採れたての果物にはまだ生気が宿っており、数は必要だったけれど最小限の栄養は取れた。
とはいえ、これは純血種ではありえないこと。私には人の血が入っているのではないか、と陰口を叩くものが多いのは当然だった。
気を取り直して、背筋を伸ばして周囲を見渡す。純血種は、存在するだけで空気が変わる。この場で純血種は数えるほどしかおらず、その中でも女性は私だけのようだった。
「・・・女性、少ないですね」
「ああ。僕たちはそういう種族だからね」
吸血鬼は、特に純血種は、なぜか女性が生まれにくい。だからこそ人間の血が入ってきたわけだけど、その分、先祖代々の力は弱っていくので、悩ましいところである。
兄様は笑うけれど、私は笑い事とは言えない。未婚の女性は片手で数えるほどしかいないと聞く。本来ならば、純血種同士での結婚となるのだろうけれど・・・私は血を飲めない半端者。血を飲んで相性を見ることもできないため、そういう話は一切来なかった。
だからこそ、ヒロインの出番があるわけだ。
「エルンスト、久しぶり」
唐突に兄様を呼ぶ声が聞こえて、兄様に釣られるように私も声のしたほうを見る。そこには兄様に負けず劣らず綺麗な男性がいて、見覚えのある顔に「攻略キャラだ」と思い出した。
「・・・来てたのか、フリッツ」
「君のその顔が見れただけでも、来た甲斐があったというものだ」
嫌そうな兄様、楽しそうなフリッツ。対照的な二人の反応に、私はこてりと首を傾げた。
兄様とフリッツは、ともに純血種だ。それも同年代の生まれということもあり、仲は悪くなかったはず。兄様の誕生パーティーに呼ばれていてもまったくおかしくない人物のはずなのだが。
兄様、なんでそんなに嫌そうなの?
「兄様、この方は?」
けれど、今の私はフリッツとは初対面。当然の疑問を口にしたら、
「フリッツ。ヒルダが永遠に関わらないでいい男だからね。二度と近づいちゃだめだよ」
と、私からフリッツが見えないよう、間に入って早口でまくし立ててきた。
見たことのない兄様の姿に、何を言われたのかよくわからない。ぱちぱちと目を瞬かせたら、視界が急に反転して、今度は視界がフリッツでいっぱいになる。
「ああ、噂通り美しいな。是非、君の血を一口飲ませてくれないか」
「ひっ!」
背筋をぞわっとした何かが走る。あまりの気持ち悪さに、反射的にフリッツの手を振り払って兄様の元に逃げ込んだ。
なんだろう。何かすごい嫌だ!!
一目散に駆け寄ってきた私を、兄様はマントの中に隠してくれる。私からはフリッツが見えなくなって、ほっと息を吐いた。
「ヒルダは外に出さない。用件がそれだけなら帰ってくれ」
「味見くらいいいじゃないか」
「帰れ!!」
そうだそうだ、帰れ帰れー!! 兄様もっと言ってやってください!
吸血鬼同士の相性というのは、血の味でわかると言われている。相性のいい相手ほど、甘く香しく、他の血など飲めなくなるのだとか。だからこそ、ヒロインは彼らの目に留まれたわけだ。
とはいえ、円満に結ばれるのならば、両者が美味しいと感じる必要がある。ヒロインは吸血鬼とは言え雑種なため、血は飲めない。故に、純血種や半血種の攻略キャラたちが一方的に求愛し、その中から誰かを選ぶことになるのだが・・・
私はヒロインと違って、血は飲めないけれど吸血鬼だ。「血を飲ませろ」と言われる意味も、それに応える意味も、ちゃんと分かっていた。
兄様の背中からこそりとフリッツの様子を窺えば、肩をすくめているのが見えた。この様子なら、兄様がちゃんと追い返してくれそうだ。
そう安堵したのも束の間。
「いっ!?」
腕に痛みが走った。反射的に痛む箇所を抑えれば、ぬめりとした感触。驚いてみれば、そこには一筋の血が流れていた。
「っ!!」
「ヒルダ!!」
ひゅ、と息が止まるかと思った。いや、一瞬、確かに止まったのかもしれない。倒れそうになった私を兄様が支え、その温もりに我に返る。
「何をする、フリッツ!!」
兄様の怒声を聞きながらも、私は顔を上げられない。
「・・・ああ、素晴らしい。こんなにも甘い血は初めてだ」
聞こえる声はフリッツのもの。甘美な声音に、全身がびくりと震えた。
血を飲まれた。見なくてもわかる。まさか大勢の吸血鬼が揃っているところでこんな暴挙に出るとは思わず、それは兄様も同じなんだろう。顔を見なくても、兄様が怒っているのもわかった。
わかったけど。私は恐怖で動けない。
「血だ」
「美味しそう」
「いい匂い」
「まさか本当に純血なのか」
ああ、うるさい。怖い。周りの吸血鬼たちが、私を見る目が変わったのがわかる。いやだ、怖い。
純血種以外の吸血鬼にとって、純血種の吸血鬼の血は力だ。一時的な魔力上昇剤と言われているが、実態は本能に刻まれた麻薬に近い。目の前にあれば手を伸ばしてしまう、力の源なのだ。
図らずしも、出血したことで私が純血種であることが認められたわけだ。
「エル兄様・・・」
震える声で名前を呼べば、兄様がぎゅうと私を抱きしめた。そのまま出血した箇所を舐めとられ、思わず声が出てしまう。
「ん」
ざらりとした感触に変な声が出たのが恥ずかしくて、口を抑えた。だけど、兄様は気にせず血を舐めとり、傷口に唇を押しあてる。
「あ・・・」
吸われている。見なくてもわかった。兄様に血を吸われると、頭がくらくらするからすぐにわかる。変な気分になるからやめて欲しいと思うけど、治療だとわかっているから何も言えない。
現に兄様の唇が離れた時、血は完全に止まり、傷跡さえも消えていた。すべてが終わって目があった兄様の口元は、私の血で真っ赤に染まっている。妖艶な姿に目が離せずにいると、見せつけるように舌が動いて紅を舐めとっていく。仕上げとばかりにごくりと鳴る喉に、顔中に熱が集まった。
「見せつけてくれるじゃないか」
「この子は僕の物だ。当然だろう」
兄様に頭を抑えるように抱きしめられてるので、兄様の服以外は何も見えない。見えないけど。
「気分が悪い。全員帰れ」
兄様の怒りに満ちた声が、耳から離れなかった。
あの日以来、私の元には、純血種・半血種を問わず様々な人たちからの求婚願いが届くようになった。とはいえ、血が飲めない私は普通の吸血鬼の中では生きれない。お父様やエル兄様が片っ端から断っているそうなので、お二人には感謝してもし足りないくらいだ。
だけど、そろそろゲームの開始時期になる。ヒロインが現れ、兄様たちとの恋愛が始まる頃だ。兄様も私にばかり構っていられなくなるだろう。そろそろ私も独り立ちしなくては。
「独り立ち?」
「はい。いつまでも兄様に頼ってばかりではいけませんから」
ヒロインが誰と結ばれるかはわからないが、少なくても兄様が私にかまっている時間がなくなるのは確実だ。屋敷にひきこもっているわけにもいかないし、少なくても、魔力くらいは自由に操れるようにならなくては。そして愛する人を見つけて、その人と平穏に生きていきたい。
そう思って切り出した私の話を、兄様は静かに聞いている。ちゃんと聞いてくれているのはわかるんだけど・・・
なんでこんなに怖いと思うんだろうか。
「ヒルデガルト」
私が言いたいことを言い終えた後。兄様に久しぶりにフルネームを呼ばれて、びくりと肩が震えた。
「つまり君は、僕が君を迷惑に思っている、と思っているのかい?」
思っているも何も、そうなるのだ。だってここはゲームの世界。兄様は攻略対象で、私は登場さえしないモブ。
すれ違いは確実に発生するし、兄様がヒロインと恋に落ちれば、ただの妹でしかない私は邪魔者にしかならないだろう。
そう思って頷けば、兄様が長いため息をついた。長い、長すぎるほどのため息。肺の中の空気をすべて出したんじゃないか、と思うほどに長いそれの後。
兄様が手を伸ばしてきた、と思ったら、くるりと視界が反転した。
「どうやら僕は、君を甘やかしすぎたみたいだ」
「え?」
視界に映るのは、ドアップの兄様とその向こうの天井だ。ソファに押し倒されているのはわかったけど、なんでこんな体勢になっているのかがわからない。
おそらく間抜け面をさらしているだろう私の前で、兄様はにっこりと微笑むと。
「っつ!?」
ぶすりと、首筋に牙を突き立ててきた。
「に、兄様!?」
いきなりの事に困惑する私をよそに、兄様はごくごくと血を飲んでいる。
兄様に血を飲まれるのは、初めての事ではない。この間のパーティー会場でも飲まれたし、小さな傷ができれば、治療と称して飲まれていた気がする。だけど、ここまでがっつかれるように、本格的に飲まれるのは初めてだった。
吸血鬼の吸血は痛みを伴わない。牙を突き立てられた瞬間こそ痛むけれど、牙からは快楽成分が出るので、どちらかというとえっちな気分になる。血が美味しく感じる相手同士だと、そのまま行為に及ぶことも多いと聞いた。
とはいえ、これは年齢制限のあるゲームではない。兄様も本気で噛み付いているわけではないと思いたいのに・・・
すぐ近くで聞こえる音と、体中から力が抜ける感覚に。抵抗もできず、なすが儘にされてしまった。
「・・・はぁ」
どれだけ血を吸われたのだろう。朦朧とする意識の中でも、兄様がやっと口を放してくれたのだとわかった。
ああ、血まみれの兄様はセクシーだな。
そんなことを呆然と考えた、次の瞬間。
「んむっ!?」
「飲んで」
兄様が自分の手首を切ったかと思えば、傷口を私の口に押し込んできた。口の中いっぱいに広がる鉄の味に、私は思いきり抵抗する。
だけど、血を飲まれたばかりの体では、ろくに力が入らない。その上、両手は大きな手で簡単に抑え込まれ、体の上には兄様が馬乗りになっている。自由に動く首を必死に動かしても、押し込まれた手は外れなかった。
「飲むんだ」
嫌だ、飲みたくない。気持ち悪い。
なのに口の中にはどんどん血で満たされていく。飲み込まないように必死に耐えていたら、咥内に収まらなかったものが溢れて垂れたのがわかった。
「チッ」
舌打ちされたかと思えば、更に腕を押し込まれる。もはや零れる隙間すらも塞がれて、逃げ道など残されていなかった。
こくり、と喉が動く。美味しくない。気持ち悪い。けれどこのままでは窒息する。ろくに動かない体では、どれだけ嫌でも飲み込むしかなかった。
私が飲み始めたのを見て、兄様は少しだけ力を緩めてくれた。だけど逃げるにはまだ強い。結局、私は兄様の言う通りにするしかないのだ。
息苦しさと、やるせなさと、嫌悪感と。様々な感情が折り重なって、勝手に涙が流れ落ちる。泣きながら血を飲む私は、さぞ滑稽だっただろう。
兄様が私を解放してくれたのは、傷口から血が出なくなったころだ。口を押えていた腕が外されるなり、私は盛大に血を吐いた。
「ごほっ、はっ・・・うぇ」
口の中に残っていた血だけじゃない。それ以外も吐いたと思うけど、兄様はまだ私の上に乗ったままだから、動ける範囲は限られている。横向きに吐いたから血を浴びるのは避けれたけど、代わりにソファが血まみれになってしまった。
ひどい。私が何をしたというのだろう。でも口からは文句の代わりに血が出るばかりで、それ以外の余裕などない。
散々むせて、吐いて、やっと呼吸が整った後。ぐいと兄様に顎を掴まれ、強制的に視線を合わさせられた。
「飲んだね?」
「うっ・・・」
・・・飲んだ。飲んだとも。吐き出したとはいっても、それはすべてじゃない。一滴残さず吐き出すなんて、無理に決まっていた。
ああ・・・きもちわるい。
「よし」
口元を押さえた私を、兄様は満足そうに見て、やっと放してくれた。自由になった体を抱きしめれば、兄様はさらに恐ろしいことを口にする。
「今日から毎日、同じことをするから」
「・・・え?」
今なんて?
「君が僕の血に慣れるまで、どれだけ嫌がっても飲ませる。覚悟を決めておくといい」
兄様が笑う。愉しそうに、嬉しそうに。呆然とする私をいつものように優しく撫でながら。
この時、私は初めて、目の前の人を恐ろしいと思ったのだ。
それからの兄様は、本当に恐ろしかった。毎日ほぼ同じような時間に来ては、無理矢理兄様の血を飲まされた。
来ることがわかっていれば、逃げることはできる。出来ると思った。だけど、屋敷から逃げ出す私を、いつも兄様は簡単に見つけて連れ戻した。
毎日。毎日毎日毎日毎日。飽きもせずに血を飲まされ続ければ、自分の変化にも気付きもする。
体を作り替えられている。
おそらく、吸血鬼としてあるべき姿に戻るために。私は相変わらずほとんどの血を吐き出すけれど、どうしても少量は飲み込んでしまう。少しずつ、少しずつ。血を飲んで生きる体にさせられている。果物もとりあげられ、あんなにもまずいと思っていた血を普通に飲めるようになってしまった。それが何を意味するかなんて、考えたくもない。
大体、ヒロインはどうしたんだ、ヒロインは。兄様のあの様子では、ヒロインには出会っていないだろう。こんなことありえない。
・・・そうだ。ヒロインだ。ヒロインに会いさえすれば、兄様の態度も変わるだろう。そう信じて、屋敷を逃げ出しては、ヒロインを探し続ける日々を送っていた。
そして、今日。やっとその日が訪れた。
「あれ。エルンストの妹じゃないか」
街を走る私に向けられた聞き覚えのある声に、私は反射的に振り返った。そこにいたのは、攻略対象のフリッツで。その隣にいた小柄な少女に、私は全力で駆け寄っていた。
「いたーーー!!」
「へ?」
いた! ヒロインだ! フリッツと一緒にいた、ということは、やはりもうゲームは始まっているんだ!!
初対面の相手にいきなり叫びながら駆け寄られたら、まぁ、普通はびっくりするよね。若干引いているヒロインに、まずは自己紹介でもして警戒を解こうと思ったら。
「お前、その匂いはどうした?」
ぐいと肩を掴まれて、無理矢理フリッツのほうを向かされる。「匂い?」と鸚鵡返しに問えば、
「エルンストの匂いだ。お前は血を飲まないんじゃなかったのか?」
・・・ああ。もう他人が見てもわかるくらい、あの人の血を浴びてしまったのか。
思わず泣きそうになったけど、ぐっと堪える。今は泣いている場合じゃない。
フリッツの手を振り払い、ヒロインに向かい合い直す。今、最優先すべきは彼女の説得。兄様もヒロインに会えば、きっと考えが変わるはず。ヒロインの血が美味しいことは、ゲームで証明されているのだから。
「私、貴女に頼みがぐっ」
言葉をすべて紡ぐ前に、口に何かを押し込まれた。一瞬何が起きたのかわからなかったけど、口の中に広がる味で、すぐに何が起きたのか理解する。
フリッツもまた、兄様と同じように自分の血を私に飲ませようとしてきた。
「っ!!」
ふざけるな! と叫ぶ声は音にはならない。その代わり、私は全力で抵抗することにした。
両手に魔力を混めて、押し付けられた手を握る。ミシリと嫌な音がしたけれど、彼は決して手を抜こうとはしなかった。
「それしか抵抗しないのか? 可愛い」
「っぁ」
代わりに、首筋に鋭い痛み。兄様とは逆側の首筋に噛み付かれて、どくりと全身が熱を打った。
これは何。こんなもの知らない。兄様の時はこんなことなかった。血を吸われているはずなのに、逆に何かを入れられている感覚。
嫌だ。怖い。気持ち悪い!!
「あー・・・相変わらず甘露だな」
そんな感想はいらない! と叫びたいけれど、口中に広がる鉄の味にそうもいかない。
「きゃあ!」と悲鳴を上げて、ヒロインが逃げていく。待って、行かないで。貴方はヒロイン。吸血鬼に愛され、愛することのできる人でしょう!?
そう言いたいのに、今は叫ぶ余裕もない。一刻も早く、この腕から逃げ出さなくては。
「逃がすか」
私の思考を読んだかのように、ぐっと体を抱きしめられ、更に深く牙を立てられる。あまりにも強いそれらに声にならない悲鳴があがり、その反動でフリッツの血を飲んでしまった。
そこまでくると、あとはもうなし崩しだ。どんどん流し込まれる血と、吸われる血。全身から力が抜けていくのに、力が湧いてくる。こんな感覚初めて、どうすればいいのかわからない。
「あー、泣いちゃった。ほんと可愛いな」
ぺろりと涙を舐めとられたと思えば、また牙と突き立てられる。思考も体もぐちゃぐちゃで、もう何がなんだかさっぱりだ。その間も血は吸われるし、飲まされるし、本当に何がなんだかわからない。
そんな不安定な状況に、どれだけ置かれていたのだろう。数時間にも思う時間は、唐突に終わりを迎えた。
「僕の物に何してる?」
その声が聞こえたのは突然。そして、体が自由になったのも唐突だった。
「おっと」
耳元で声がして、体を締め付けていたものが外される。と同時に、倒れそうになった体を誰かが支えてくれた。
いや、誰かじゃない。声を聞けば、誰かはわかる。
「に、さま」
名前を呼ぶと同時に、口から血を吐き出した。むせこむ私の背を、兄様がゆっくりと擦ってくれる。
「吐き出せ。一滴残らず」
言われなくてもそうしたい。胸を抑えて咳き込む私をよそに、フリッツの楽しそうな声が聞こえてくる。
「はは、無理だろ。どれだけ飲ませたと思ってる。来るのが遅かったな」
「僕の匂いに気付かないお前じゃないだろう」
「もちろん。だが、それしきで引く俺じゃないってのは、お前もわかってたはずだ」
「この子を壊す気か?」
「そのつもりだったが・・・思わぬ収穫だ。ちゃんと見ろ、平然と自我を保ってるぞ」
兄様とフリッツが何かを言い合っているけれど、私には聞く余裕がない。兄様の手が外れたせいで地面に倒れ込んだけど、それでもずっと吐き出し続けた。
ああ、気持ち悪い気持ち悪い。吐き出せるものはすべて吐き出したけれど、それでもまだ口の中が鉄の味だ。今すぐに口の中をすすぎたい。
そう思うのに。
ぐい、と兄様に顎を掴まれ、上を向かされる。と同時に無理やり口を開かされて、また血を入れられた。
「飲め」
命令されるまでもない。上を向かされているのもあって、注がれる血は咥内にとどまることもなく、まっすぐに喉を通っていく。
兄様の事だからどれだけ飲まされるのかと脅えたけれど、与えられたのは思っていたよりもずっと少ない量だ。ごくり、と一度喉が鳴ったのを確認すると、兄様はすぐに手を放してくれた。
「げほ、っは」
苦しい。美味しくない。気持ち悪い。
咽込む私を、兄様もフリッツも黙って見ている。けれど、無理矢理飲み込まされた血は吐き出せず、わずかな残りが口角から溢れただけだった。
「な? 素晴らしい素質だ」
「だからといって、お前と共有なんて・・・!」
「・・・?」
素質? 共有って何のことだろう。言葉は聞き取れるのに、意味がまったくわからない。
ぐいと口元を拭ったら、兄様と目があった。次いで、フリッツとも。二人の目がぎらりと輝いているように見えて、私は一歩後退る。
「どうして逃げる?」
「お前が怖いからだろう」
「何言ってんだ。お前から逃げて外にいるんじゃないのか、この子」
「何、童心に戻って鬼事をしていただけさ。なぁ、ヒルダ?」
ひく、と頬が引くついたのがわかった。どっちもどっちだ、このやろう。
とはいえ、今は皮肉を返す元気もない。このままここにいたら二人に食べられるだけだというのも理解している。
決断は一瞬。回れ右をして、私は一目散に走り出した。後ろから楽しそうな笑い声が近づいてくる気がするのは、誰か気のせいだと言ってくれ。
後で聞いた話によると。
純血種というのはあまりにも力が強すぎるため、二人以上の純血種の血を続けて飲むことはできないらしい。例え純血種であってもその力に耐えきれず、そのまま息絶えるか、ただの生きる屍になるのだとか。半血種以下の場合、苦しんだのちに四散すると聞いて、あまりの怖さに震えあがった。
ヒロインは血を飲まないから、そんな設定知らなかった・・・そして、自分が例外だというのも、もちろん知らなかった。
「純血種は近親婚も珍しくないからね。僕の血を飲ませておけば、他のやつらに目を付けられることもないだろうと思ったんだ」
兄様はけろっとそう言ったけど、フリッツにも飲まされた身としては「そうですね」なんて死んでも言えない。一方のフリッツは、
「あれだけ美味いんだ。お前が俺以外と番うくらいなら殺すさ」
だなんて、こちらも怖いことを言ってきた。吸血鬼怖い。
フリッツの思惑と違い、二人分の血を飲んでも私は死ななかった。それどころか、ぴんぴんと生きている。ここで私の希少価値が一気に跳ね上がった。・・・らしい。元々、純血種の女性ということで珍しさはあったけど、複数の純血種の血を飲んでもぴんぴんしている耐魔性。
純血種が欲した、複数人と番える女性だとわかってしまった。
「余計な事してくれやがって」
兄様がそうぼやいていたけど、全面的に賛成だ。私は一夫一妻制の国で生まれたし、吸血鬼も一夫一妻制が多い。特に純血は互いの血を飲ませ合うこともあり、私も兄様も仲のいい両親の姿を見て育ってきた。
いつか結婚することがあるのなら、ただ一人と愛し合って結ばれたい。そう夢見るのは、いたって自然のことだろう。
この場合のただ一人とは、優しくて真面目な人の事だ。決して実の兄と結ばれたいわけではないし、問答無用で切りつけてくる人と結ばれたいわけでもない。
「ヒルダ、見つけた」
「ひっ!?」
今日も今日とて兄様から逃げた私は、あっけなく捕まった。そして、今や当たり前のように、兄様の隣にはフリッツもいる。
「お前も懲りないなぁ」
楽しそうなフリッツには悪いが、懲りてたまるか。私はもっとまともな恋愛がしたいんだ。
見つかってなおも走り去ろうとしたけれど、兄様とフリッツに捕まった。身動き取れないどころかぐっと引き寄せられて、たどり着くのは二人の腕の中。
「俺たち、もうお前の血しか飲めなくなったんだ」
「覚悟はいいかい、僕のヒルダ」
人外とは思えない赤い瞳が、私をまっすぐ射抜いてくる。本能的な恐怖に震えながら、私は今日も二人に連行されていくのだった。