バーサ編、その2
――その日のことを今でも覚えている。
50年前のこと。バーサがまだ14歳に満たない頃のことだった。
当時、バーサはすでにファイレシア家において人間として扱われていなかった。
理由は単純。強すぎたのだ。
剣士の実力は大別して心技体の総合力だ。
心とは胆力、経験、判断力。
技とは技術、技量、精密性。
体とは筋力、反応速度、マナ総量等々。そういったものが勘案される。
バアルサファル・ファイレシアに恐怖はなかった。
強敵を前にすればするほどその精神は研ぎ澄まされ、己の性能を十二分に発揮させる生来の戦士であった。
バアルサファル・ファイレシアは恐ろしく精密な生物であった。
技とは体に覚えさせる型であるが、彼女は必要としなかった。一度見た技はどんな状態でも常に完璧に再現できるからだ。
バアルサファル・ファイレシアは竜の如き化け物であった。存在自体がすでにして奥義であった。
巨人との混血――無論、強い戦士を生み出すために意図的に行ったものである――による優れた身体能力に加え、ただ呼吸するだけで火の祝福が起こる彼女にとって、呼吸法を学ぶのは火を撒き散らさないように制御するためでしかなかった。それすらも数年で身に着けてしまった。
剣士という存在の行きつく先。諸人が目指した果て。バーサはそういう存在であった。
7つの頃にはすでに当時のファイレシア当主を打ち倒し、新当主の座についていた。
もっとも、おつむの方は普通の子供であったので、完全にお飾りの当主ではあったのだが。
その頃のバーサは人生に飽いていた。
すでに完成した剣士であった彼女は偶像として道場に安置され、たまに来る部外者にぶつけて絶望させる装置として運用されていた。
そこに楽しさはなかった。新しいことはなかった。決まりきった結末だけがあった。
誰も彼もが弱すぎた。彼女の放つ炎に怯えて近づくことすらできなかった。
彼女の後見をしていた者たちはしきりに部外者を招いてはバーサに相手をさせた。
窮極の剣士を生み出したファイレシア家を喧伝するためだったのだろう。
事実、バーサの存在によってファイレシア家は七星の長の座に返り咲き、君臨していた。
誰も文句は言えなかった。この化け物に勝つには、それこそ“剣祖”でも連れてくるしかないだろう、と。
バーサ自身もそう思っていたのだ、その時までは。
「しょ、勝負あり……?」
演武場の石畳に尻もちをついたまま、幼いバーサは審判の宣告を聞いていた。
初めての敗北。事実を頭が受け入れられない。理解が追い付いていない。
だが、それ以上に強い感情が彼女の中に湧き出ていた。
彼女や審判の顔にはこう書いてあった――「こいつ頭おかしい」と。
バーサの目の前で残心をとっているのは少年だ。バーサより何歳か上だろう。
――もっと正確に言えば、少年の形をした炭だ。手に持つ木刀に至ってはただの炭に等しい。
少年は開始と同時に突っ込んできたバーサを反撃技で叩き返して一本をとった。
後にその代名詞となる返し技だ。その頃はまだ王国最強を争う技量ではなかったが、少なくとも完璧に決めれば剣の化物たるバーサ相手に一本獲れる程度の練度はあった。
そして完璧に決まった。少年の血を吐くような努力はこの一瞬だけ天才を上回った。
だから、間違いなく、文句のつけようもなく、少年の勝利だ。
……少年はバーサの纏う炎を完全に無視した。結果として全身に大やけどを負っていた。
すでに意識もないだろう。いつ死んでもおかしくない。
炎への一切の防御を捨て、一撃を以って一本をとる。自分が死ぬことを除けば唯一の勝ち筋だ。
実戦ではよくて相打ち、否、真剣同士では極大化するバーサの破壊力を受け切れなかったか。
あくまで試合だからこそ可能であった勝ち方。
傍から見れば特攻にも等しい試合だが、少年は冷静に勝機を読み取っていたのだ。……バーサがそうと気付いたのはずっと後になってからだったが。
「救護を!! 医者を呼んで来い!!」
「水と包帯もってこい!!」
「皮膚が癒着している!! 切って剥がすぞ、手伝え!!」
大人たちが慌ただしく動き出す中、バーサは尻もちをついたまま動くことができなかった。
負けた。完膚なきまでに負けた。
ずっと同じ日々が続くと思っていた。新しいことなどなにもないと。
だが、そんなことはなかったのだ。
視界に色がついたような感覚。
怒号、血の匂い、五感から流入する数多の情報。
何もかもが新鮮で、見慣れた演武場すら鮮やかに映る。
きっと、この日、バーサは初めて世界に向き合ったのだ。
◇
気付けば日が暮れていた。
少年はどこぞの騎士団の見習いで、社会勉強の一環で団に付いてきた、オマケであった。少なくともバーサはそう聞いていた。実戦経験もない、素人に毛の生えたような未熟者だ、と。
だが、その心はすでに鋼であった。
名をジフという。後にバーサと王国最強を争う剣士となるが、その頃はただの不器用で無教養な子供だと思われていた、少なくともこの時までは。その才能を見抜いていたのはラーケルタ男爵たち極僅かであった。
ファイレシア家の手厚い看護を受けてジフ少年は一命を取り留めた。
夜半、他に誰もいない病室に忍び込み、バーサはジフに問いかけた。
――何故ここまでして勝とうとしたのか、と。
ジフは答えた。全身に包帯を巻かれ、動くこともできぬ身ではっきりと答えた。
――好きに戦え、と命じられたからだ。
心臓が跳ねる音がした。
何もかもがバーサよりも脆い体で、少年の黒瞳だけが鋼のような鋭さを湛えていた。
バーサは惚れた。一目惚れだった。
人間が好きになった。自分は孤独ではないのだと知った。この子に振り向いてほしいと心から願った。
「……また勝負しよう。次は負けない」
「かまわない。だが、今度は勝てないかもしれない」
包帯の奥で微かに笑い、ジフは目を閉じた。
バーサは静かに病室を後にした。
(次に負けたとき、アイツのものになろう)
誓う。
先の試合は不意打ちのようのものだ。
負けは負けだが、真剣で勝負したわけでもない。
人生を決める一戦ならば、やはりお互い死力を尽くさなければ。
うんうん、とひとり納得してバーサは夜の屋敷を駆けて行った。
心が弾む。夜の大気は冷たく静謐で、少女の吐く息には炎が混じる。
自分でも気づかぬうちに、足取りは踊るようなステップになっていた。
それすらも少女にとっては初めてのことであった。
以来50年。
ふたりは100戦を超えて戦い続け、その全てにバーサは勝利した。
誓いは果たされぬまま、バーサは63歳を数えた。
少女はさすがに不貞腐れた。グレて家出もした。
俗世にまみれ、世界の広さを知った。ジフはやはり特別であった。
だから、今でも彼女は次の一戦を待ち望んでいる。
◇
王都はファイレシア家の屋敷に設置された演武場。
その上座でバーサは胡坐をかき頬杖をついていた。かつてと同じ偶像としての安置場所だ。狙ってやったのなら腹の立つ話だろう。
とはいえ、腐っても先々代当主だ。演武場に入る前に旅塵を落とし、丁寧に手入れされ、身綺麗にされている。
纏う深い紅の袍服は歴代当主のみに許された色と鮮やかさ。
腰まで伸びた白髪も結い上げ、編み込まれ、降り積もる新雪のようにバーサを彩っている。
飾り気こそないが、それがバーサだ。滲み出る年経た気配と相まって、玄妙さすら感じられる。
一方で、彼女がいた頃はごく質素であった演武場は、今では絢爛豪華に飾られ、目に痛いほどだ。
壁にはゴテゴテとした装飾剣がずらりと飾られ、高く掲げられたファイレシアの家紋旗は金糸で編まれている。
バーサという規格外を有してからのファイレシア家の興盛ぶりを表す縮図だ。
まあ、現役の頃のバーサは事あるごとに演武場を破壊していたので、高価な品を置くわけにはいかなかったのだが。
「……で、王命で呼ばれたワシをお稽古に付き合わせるのは問題じゃぁないのか、当主サンよぉ」
「たまにしか帰ってこない大叔母様が悪いのですよ」
傍らに侍る男が応える。慇懃無礼が服を着たような声音だ。
当代のファイレシア家当主であるイグナ・ファイレシア。
官服をきっちりと着こなしたスタイルのよい長身、撫でつけた紅髪、アルカイックスマイルを浮かべた顔は美男と称して余りある。
聞けば、他の七星より血を入れたのだという。バーサで味を占めたからか、ここ50年のファイレシア家は混血政策に熱心だ。
年齢は30半ば。先代当主が魔王に敗れ、急遽その座を引き継いだので、かれこれ10年は当主をやっていることになる。
よくやっていると思う。思うのだが、バーサはどうにもこの男が気に食わなかった。
武家でありながら大臣職……文官として職を奉じているのに違和感を覚えているのもある。
腰に剣を吊っていなければとてもではないが剣士に見えないというのもある。
練度が当主を名乗るには不足しているのもある……バーサにしてみれば、であるが。
(やはり男はもっと武骨で骨太でなければのぅ、ジフのように……ジフのように!!)
恋する乙女、心の句であった。
「それで、今代のファイレシアはいかがでしょうか?」
「ワシから言うことはなにもない」
神に奏上するかのように問われた偶像は、ただ一言で切って捨てた。
「不足はないということですね」
「好きに解釈しな。口出しするつもりはないさね」
バーサの目の前では徒弟たちが並び、一心に型稽古を繰り返している。
彼女からすれば「筋トレしたいなら筋トレすればいいのでは?」としか思えない無駄の塊だが、その様を嘲るつもりはない。
そもそも、まっとうな稽古というものを受けてこなかった身に感想を求められてもどうしろと、というのが正直なところだった。
バーサはジフとは違う。彼がまっとうな修練の果てならば、バーサは生まれからして違う規格外だ。
ジフは剣を極めたが、バーサの剣は初めから窮まっていた。
成り立ちが違う。良い悪いではなく、そういうものなのだ。
「まぁ、せっかくだし訊きたいことはきいとこうかね」
「なんなりと」
「この稽古でリーファンが造れるのかい?」
何気ない問いにイグナの表情が僅かに強張った。
リーファンはバーサの兄の息子の娘にあたる。イグナにとっては年の離れた異母妹だ。
だが、その実力は一見してイグナを上回っている。つまりは現在のファイレシア家において最強か、それに近い位置にいるのだろう。
そも、その程度の実力がなければ、バーサへの連絡係など命がいくつあっても足りないだろう。今のバーサは冒険者である。前人未到の地にいることも少なくない。
「……妹は貴女を模して造られた特注品です。尋常な稽古で造れるものではありません」
「そいつは残念だ。ファイレシアがようやくワシに追い付いたのかと思ったんだがねぇ」
「地を這う者が“流星”に追いつくことはありませんよ」
イグナの声は世辞のようでいて、実際は諦めた者の言葉であった。
諦めたのか、とバーサはぼんやりと思った。当主になれるほどの才能があったのに。
(大方リーファンに勝てなかったんだろうね)
その上でイグナが当主となった。バーサの頃のように完全実力主義で当主を決めるには、ファイレシア家は大きくなりすぎたのだ。
それもよかろう、とバーサはひとりごちた。
剣士としての強さと、当主としての運営能力は別だ。誰よりもバーサがそれを証明している。
だから、今のファイレシア家が間違っているとは思わなかった。
……純度が下がった、と思いはするが。
「まあいいさ。それで、“精霊供儀”だったね」
思考を喫緊の問題に移す。
“精霊供儀”とはマナの祝福が途切れないようにするため、精霊に剣舞と生贄を捧げるという名目の儀式である。
つまり、精霊の代行たる王の御前で殺し合い、生き残った者も捧げる全滅の儀式だ。
だが、呼吸法が生み出された現代においては、マナは体内にある総量として観測され、肉体活動に連動して生みだされる霞のようなモノであることが判明している。
ゆえに、精霊供儀もここ数年は行われてもいなかった。無駄であると、口にこそ出さないが皆思っていたからだ。
そもそも、精霊というものをバーサは視たことがない。実在も疑っている。
あらゆる生物に存在するマナ。それを与えたのが精霊だ、と伝えられてはいる。
原始時代には形をもっており、生物の体内に宿っていたのだと。
マナの原型らしく周囲の環境に染まりやすい性質を持ち、竜血大戦の頃は悪に堕した精霊も多くいたという。
当時の生き証人であり、悪なる精霊の討伐者たる“剣祖”カミュロケシスの証言である。
だが、彼をして今もいるかは断言できないという。元より個人の識別が難しいほど巨大である竜に、薄れ、現存しているかも怪しいモノを見つけろというのが酷な話であった。
だからそんな、いるかもわからないモノに生贄を捧げる儀式は愚かとしか言いようがない。
今となっては――あるいは、その成立当初から――王家にとっての邪魔者を排除するための体のいい隠れ蓑であった。
「生贄はワシとジフか」
「文句がおありなら当方から王家に申し立てますが?」
「いいさ。面倒だ。それに“金枝王”には借りもある」
バーサは素知らぬ顔で肩をすくめた。命を捨てろなどと今さらの話だった。
一方、イグナの物言いには複数の含意がある。
ひとつ、王家の決定に文句をつけられるほどファイレシア家の権勢が増しているということ。
ひとつ、バーサに文句がなければ、ファイレシア家が申し立てるつもりはないということ。
つまり、ファイレシア家はバーサを切り捨てたのだ。もう利用価値がないと判断したのだ。
さもありなん。バーサは方々で問題を起こしているし、造られてから60と3年も経っているのだ。
元はとっている、ということだ。
後継としてリーファンを造ることに成功した、というのもあるだろう。
バーサほど規格外ではないが、その分だけ制御も容易。ファイレシア家にとってどちらが都合がいいかなど考えるまでもない。
切り捨てられたことに失望はなかった。
むしろバーサは安堵した。これでようやく義理を果たせた、と肩の荷が下りる心地であった。
バーサとて木の股から生まれたわけではない。父と母がおり、ファイレシア家で育てられたのだ。思うところがないわけではなかったのだ。
――またひとつ、自由になれた。
恐るべきは老騎士の執念……あるいは思慕だろう。
バーサの思考が危険な兆候であると理解しているのは、ジフ・オールセンのみである。
本人ですらその危うさに気付いていないのだ。
今は、まだ。




