ジフ編、その2
「申し訳ございませんでした、ジフ殿!!」
空っぽの左袖を揺らしてジークが額を床に叩きつける。死装束から覗く包帯が痛々しい。
纏う装束は覚悟の証だ。老騎士が言葉ひとつ間違えれば、ジークは躊躇なく腹を切るだろう。
ふたりが相対しているのは狭いが、小ざっぱりした小屋。ジフの庵だ。
木板の床に絨毯を敷いた様式は遊牧民族の移動式住居に似る。
半生を騎士として過ごしたジフはどうにもベッドに慣れず、こうして床で寝る半野営生活を拵えたのだ。
庵は行軍用の天幕に似て狭い。向かい合って座れば、老いたジフの鼻でも包帯に染みた薬香を嗅ぎつけられる。
「……顔を上げよ、ジーク」
ジフは苦り切った表情でそう告げた。
いまだ幼さを残すジークの相貌には悲壮な気配が漂っている。
恩師であり主君であった先代ラーケルタ男爵。彼の孫にそんな顔をさせたくなかった。そのために戦う術を教えたはずだった。
「手ひどくやられたようだな」
「はっ、ジフ殿の手の内を晒した上、おめおめと戻ってまいりました。罰はいかようにでもお受けします」
年齢不相応な堅い口調は緊張と後悔のためか。
幼いころからジフの手ほどきを受けていたジークは、王国最強を争うふたりの因縁を知っている。
口に出すことこそほとんどないが、今なおジフがバーサを強烈に意識していることを知っている。
いつか決着をつけるときのために、ジフが研鑽を積んでいるのを肌で感じてきた。
(なのに、じいの秘剣を晒したのに、仕留められなかった……!!)
此度の一戦でバーサはジークを通じて今のジフの手の内を見切っただろう。
それは僅かな差が勝敗の天秤を傾けるふたりにとって、致命の漏洩だ。
特に後の先をとる“剃刀”は初見殺しの技であり、ジフの執拗な研鑽によって日々改良が続けられている。
知られたなら知られたでその警戒を利用する裏技もあるが、現状を知られないに越したことはなかった。
(わたしの私情で、未来にあるであろう天上の一戦を穢してしまった)
ゆえにこそ、ジークは腹を切るつもりでここにいる。じっと師の宣告を待っている。
「…………ふむ。言葉が前後したな、ジーク。まずはこう言うべきだったな」
だからこそ、ジフが言うべき言葉も決まっていた。
「――よくぞあの“流星”を相手にして生き残った」
「……え?」
「バーサは竜のような女だ。竜を相手に片腕を喪ったことを悔やむな。誇れ。胸を張れ」
「――それは」
「疑うなら王都のどこぞの道場で言うてみよ。『己は“流星”相手に腕一本で命を勝ち取ったぞ』とな」
「じ、じい、だけど……」
「あれは執念深いが、気前のいい女だ。若が生き延びることを許したのなら、そう吹聴することも許すだろう」
だから、おぬしに罪などないのだ。
ジフの言葉に応えはなかった。ジークはただ肩を震わせ、もう一度深く頭を垂れた。
ずいぶん長い間、その頭が上げられることはなかった。
◇
ジークが去っていくのを見送った後、ジフはひとり物思いに沈んでいた。
若き次期領主の懸念は正しい。
いずれ“剃刀”は“流星”と決着をつける、必ずだ。
そのときに此度のジークの行動は間違いなくこちらの不利に働く。
(それをわかった上でジークは剣を抜いた。命を捨てる覚悟で“流星”へ挑んだ。天晴な心意気よ)
だが、ジークに語った言葉もまた嘘偽りなくジフの本心であった。
事情は供をしていた騎士に聞いた。ジークに助けられ、仕えることを決めたという騎士を見ればジークが正しかったことは明白だ。
むしろ、その場に居合わせながらジークが断頭台へ向かわなければ、ジフは彼を叱責しただろう。
ラーケルタ騎士の誇りはどうした。
非道を前にして尻込みするのが騎士の道か、と。
……時代錯誤も甚だしい思想だ。それはジフもわかっている。
今様の領主騎士にとり、優先すべき第一は自領であり、第二は王命だ。他領の見ず知らずの騎士など見捨てて然るべきだ。
実際、ジークは負傷によって王都へ参集できなかった。臣下の責をまっとうできなかった。
こんなことばかりしているから、王国でも指折りの騎士団を有しながら、ラーケルタ家はいまだ男爵位なのだ。
だが、それでもジークは正しかったとジフは思う。
誰もが見失った正しさを、若き次期領主が持っていることを誇りに思う。
そうして、ジフと共に歩んできた同胞たちは死んでいった。
誇りを枕に、正しさを胸に、無為に死んでいったのだ。
正しくあり続けることができなかったジフだけが残った。
「……ままならんものだな」
あるいは、己の全てを継いだジークに任せることも考えていた。老いた自分ではもはやバーサに勝つことはできない。
だから、自分が死んだ後にバーサを追う者が必要であった。
ジフは己の命の使い方を決めていた。己は星見台になるのだ。遥か彼方を飛ぶ“流星”を捉える礎となるのだ。
そうでなければ、もはや誰も“流星”を見上げはしない。
感傷ではない。同情でもない。断じてそんなものではない、とジフは己に言い聞かせる。
あの63歳児は孤独になれば、もはや人間に気を遣うことすらしないだろうから――
『――浮かぬ顔をしているな、“剃刀”の』
そのとき、天より厳かな声が降り注いだ。
大気を震わせる声音は心奥に染みわたるように深く、跪きそうになるほど重く、恐怖を覚えるほどに鋭い。
次いで、羽ばたきの音。
その巨体を思えば、異常なほどに静かなそれ。
舞い降りたのは目の覚めるような蒼色の『竜』であった。
澄み渡る蒼い竜鱗。知性を感じさせる幾年を経た顔立ち。戦士であることを示す鋭いまなざし。
尽きぬ寿命と無限に等しいマナを併せ持ち、原始時代においては悪なる精霊すら打ち倒した英雄。
その竜はしかし、右の五指のうち在るべき三指が欠けていた。
「お久しゅうございます――“剣祖”カミュロケシス様」
ジフは立ったまま包拳の礼をとった。
跪くことはしない。この巨大な竜を前にして膝をついては、相手から見えなくなってしまうからだ。
若かりし頃の失敗であり、そうと知っていることが、ふたりの関係を示していた。
『良き弟子を持ったな、“剃刀”の。技を継ぐことができるのは幸いだ。それは竜にはできなかったことだ』
「……」
好々爺のように目を細める竜は雄大だが、どこか儚い。
ジフはとっさに言葉を返すことができなかった。
◇
――かつて、原始の人類が森や洞窟で暮らしていた頃。
――世界が竜とそれに連なる魔獣の楽園であった頃のこと。
とても、とても大きな争いがあった。
竜たちが覇権を争ったのだ。
天地を生み出した存在の影――悪なる精霊すらも打ち倒した超絶の生命たる彼らは、自らこそが万物最強たるを標榜し、盛大に内輪揉めを始めたのだ。
なお、そのころの人類はまだ原人ですらなく、打製石器も発明していなかった。正真正銘の猿だった。
後に、竜血大戦と名付けられたその戦争は何百年と続いた。
竜が争えば火山が噴火し、津波が地を洗い、流星が降り注いだ。
大陸の環境は激変し、幾万もの生物が絶滅した。魔獣すら抗うことはできなかった。
そんな激戦を制したのが“剣祖”にして後の告死竜たるカミュロケシスであった。
カミュロケシスは力量では他の竜に劣っていたが、他の竜にはない長所があった。
彼は竜の中で唯一、他者を信じることができた。
他種族と語り合うことができた。
ゆえに、竜という種がすでに行き詰っていることを理解した。
そして、カミュロケシスは自らの人差し指を切り落とし、その骨から一振りの剣を研ぎあげた。
原初の剣、竜骨指剣“セカンドゥス”。竜はそれをひとりの猿に下賜し、ともに戦うことを望んだ。
ゆえにカミュロケシスは“剣祖”と呼ばれる。
剣という武器を発明し、人類種に齎した祖であるからだ。
その後、猿は何代にも渡って竜とともに戦った。
竜と比べれば猿は吹けば飛び散る木っ端な生命であったが、竜骨剣の殺傷能力は竜を殺すに足りるものであった。
他者を信じることができない他の竜にとっては「猿と協力する」というカミュロケシスの戦略は思いつきもしないものであった。
敗北した竜から情報が漏洩することがないのも大きかった。他者を信じることができない竜は自らが敗北した理由を他の竜に明かさなかったのだ。猿たちは何百年と初見殺しの暗殺剣士であった。
そして、猿は賢かった。おそらくはカミュロケシスの想定以上に。
竜は強いが、孤高である。
竜は強いが、食事や睡眠が完全に不要というわけではなかった……一部の竜を除いて。
ゆえに、猿は群れを組織して攻めた。
常に数を恃んで遅滞戦闘を続け、交代しながらひたすら嫌がらせと暗殺を続けた、百年単位で。
剣を媒介としてマナを操る術が発明され、呪文が生まれた。嫌がらせはいつしか恐怖となった。
世代を経るにつれ、猿の体は剣を振るのに適したものへと進化していった。
ゆえに、様々な種族に分化していった現代においても、人類は総称してこう呼ばれる。
――剣を与えられた人間、と。
そうして、竜種最強の戦闘能力を誇る流星竜ガングニールの死を以って、竜血大戦は終わりを告げた。
残った竜はカミュロケシスただひとり。大戦で培われた竜の技を継ぐ者はなく、もはや子孫を残すこともできない。
勝者は人類であった。
◇
『……思うに、我ら竜は大きすぎたのだろう。数多の竜が生きるにはこの星は狭すぎた』
「かもしれませぬ」
それが肉体の大きさを指した言葉でないことはジフにも理解できた。
原始の竜血大戦の後、カミュロケシスは自らの銘を告死竜と改めた。
――我らは殺しすぎた、と。
歴代の剣士に夥しい死者を出した責任を取り、その死後を預かる者として自らを定めた。
天より告死竜が舞い降りるとき、諸人は偉大なる剣士の死を知るのだ。
常ならばカミュロケシスは深山幽谷に坐し、死を告げるときのみ俗世に関わる。
告死竜となってからの五千年、その例外が破られたのは僅かに二度。
“剣匠”リーゼライトに薬指の剣“アヌラリウス”を与えたとき。
そして、“剃刀”ジフ・オールセンに小指の短剣“マヌス”を与えたときだ。
その縁があってか、数年に一度カミュロケシスはジフの元へやって来る。
精霊すらも超える超越者の来訪はジフにとって緊張と名誉の板挟みである。
そして無論、カミュロケシスは告死の竜なれば、来訪の理由も推して知れる。
『――もうすぐ、おぬしの天命が尽きる』
此度もまた告死竜がジフの死を告げる。
永遠に等しい時を生きる竜にとり、時間の最小単位は人間でいうところの「年」だ。
それ以上短い時間は竜にとってはすべて「もうすぐ」に当たる。
ジフはもうすぐ死ぬのだ。
「私は戦えば、死にますか」
やはり、と頭を置く必要はなかった。
誰に、とは口にするまでもなく伝わっている。
『“流星”は強い。おぬしの技とも相性が悪い。……おぬしは、老いた。自分を労われ』
竜は淡々と告げる。言っても仕方ないと理解している。人間とはそういうもなのだと。
以前の天命は五年と言われた。それ以上待てば絶対にバーサに勝てなくなるからだ。
巨人の血が混じるバーサはジフよりも長い寿命を持つ。老いもまたジフより遠い場所にある。
時間はバーサの味方であった。
だが――
「約束があるのです、剣祖様。決して違えられない、違えてはならない……」
『死ぬとしてもか?』
「それが避けえぬ天命ならば笑って受け入れましょう。それに道筋はもう見えている――」
――私は“鋼の秘密”に触れている。
ジフの告白にカミュロケシスの纏う気配が変わった。
それは契約であった。剣祖が“流星”ではなく“剃刀”に己の小指を与えた理由。
剣祖たる彼もまた剣士である。
否、そもマナを繰る技とは原始時代に竜が用いたそれを基にしている。彼が伝えたからだ。
たとえばファイレシアの“流星”など読んで字のごとく、流星竜ガングニールの技を人間が扱えるようにしたものである。
竜である彼は現存する最も古い剣士なのだ。
そんなカミュロケシスにすら再現できなかったのが魔王の用いた鋼の祝福である。
「確信があるのです。きっと、この秘密が解けるのは私が死ぬとき。彼女と決着をつけるその瞬間なのです」
『それを聞いては止めることはできぬな……』
言葉とは裏腹にカミュロケシスの気配はジフを止めたそうに感じられた。
悠久の存在に己は惜しまれているのだ。常ならば人間の見分けをつけることすらできない超越の生命に。
感動がジフの胸の奥を震わせる。
「ふっ、剣祖様にそこまで気にかけられるというのは剣士冥利につきますな」
『……“流星”はいま王都にいる。おぬしも呼ばれるだろう』
ジフの眉がピクリと跳ねた。皴の刻まれた顔に一瞬だけ、罪悪感の色がよぎる。
10年前の罪。己が正しく在ることができなかった、その瞬間。
「“金枝王”ですか?」
『然り』
「なるほど。どちらにしても私は死ぬようですな」
『我が小指を肌身離さず持っておけ』
竜が翼を広げる。つむじ風が巻き起こる。
伝えるべきことを伝え、語り合うべきことを語り合った。
告死竜は無駄口を嫌う。その口より発した言葉は、形はどうあれ死に通じるからだ。
だからそれは余計な言葉であり、彼にできる唯一の親愛の表現だったのだろう。
『――その心臓がおぬしの望んだ刻に止まることを我は願う』
誰よりも慈悲深い竜はそうして去っていた。
きっと次に会うときに自分は生きていないだろう。二度とその姿を見ることはないだろう。
だから、ジフはその目に竜の後姿を焼き付けた。子供の頃から憧れていた竜の姿を。
10日後、ジフの庵へ王都より伝令がやって来た。
――「精霊供儀」を行うゆえ、疾く参内されたし。
つまりは、王命によってお前を精霊の生贄にする、という死の宣告に他ならなかった。




