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ジフ編、その1

 青空に鳶が舞う。笛の音のような鳴き声が響く。

 草原を駆けた秋風が素朴な着流しの袖を揺らし、白髭の目立つ頬を撫ぜる。

 微かに頬の古傷がうずく。風が触れる感触はかさぶたを剥がす様に似て、年取って鈍くなった五感でも不思議と鋭敏に感じられた。


「よくない気配がするな」


 呟き、ジフは皴の刻まれた顔をさらにしかめた。

 悪しき精霊は軽口を好む。余計な言葉は不幸を呼び込む縁となるのだ。


 魔王討伐を機に引退してから早十年。

 ちょうど主君筋の世代交代も重なったジフの引退は恙なく行われた。今さら騒ぎ立てる者もいない筈だ。

 独り身であったジフは退職金代わりに貰った僻地の庵に籠もり、ひとり呼吸法(ブレス)を極める道を進んでいた。

 大きな喜びはなく、代わりに大きな悲しみもない日々であった。


(黒色鼠はこの前間引いたばかり。流れの角鬼でもやって来たか……?)


 ラーケルタ男爵領は辺境と呼ばれる地域でも比較的内地に面しており、豊かな森と安定した気候による農耕が盛んな領地だ。

 無論、安定した環境は魔獣にとっても同様であるが、そんなことは数多ある辺境領のどこでも同じこと。

 むしろ領地の端でジフが睨みを利かせているだけマシな部類だ。


 だが、不意の客とは思わぬところからやってくるものである。

 適当に積んだ石垣の向こうに人の気配が現れる。

 そして、聞き覚えのある快活な声。


「じいはおるかー!?」

(予感はこれか……?)


 秋風にズキズキと痛む膝に喝を入れて立ち上がる。

 眉間に刻まれた皴を揉みながら、ジフは申し訳程度に構えられた門へと向かう。

 門前には木に繋がれた馬と少年がいた。

 十代前半の、橙色の髪を後ろで結った溌溂とした少年だ。平服の上からわかるほど体はよく鍛えられており、腰に剣を佩いた姿は若武者のそれ。

 好き勝手伸びた草をのんびりと食む葦毛の馬も体格よく、明らかに軍馬とわかる。


「お帰りくださいませ、若」

「うむ、ではな」

「……」

「……」

「……お帰りくださいませ、若」

「いやおかしいだろ!? じいはわたしが嫌いなのか!?」


 ぷくりと不満げに頬を膨らませる様は童女のよう。

 そこに純真な尊敬のまなざしまで加えられると、偏屈爺のジフも否とは言いがたかった。

 そもそも引退したとはいえ騎士爵のジフが、現領主の嫡子であるジファイク・ラーケルタをぞんざいに扱っていい訳がないのだが。

 その名が自分にあやかったものであるなら、なおさらに。


「なにしに来たのだ、ジーク」

呼吸法(ブレス)を学びに来たのだ。決まっておろう。王国一の使い手“剃刀(レイザー)”よ」

「私はよくて二番目だ、若」

「じいはいつもそう言うなあ」


 ジフの声音は当然の事実を述べているように平坦で、ジークも苦笑を返すばかりだ。

 この頑固爺は本気でそう信じているのだ。

 無論、彼でなければ国で二番の自負すら傲慢にとられるであろうが。


「もうすぐ王都に出仕せねばならん。その前に稽古をつけてほしかったのだ。傍で見ているだけでいい。頼む」

「……若は習いの身。一人稽古などして変な癖がついては先代に申し訳が立つまい。来なさい」

「やった!!」


 喜びに拳を突き上げるジークをしり目に、ジフは腰の剣を抜いた。

 彼を見出した先代ラーケルタ男爵より下賜された業物。

 何十年と使い続けて拵えはくたびれているが、刀身を見れば手入れを欠かしていないことは見れば明らか。

 騎士の剣。引退してもその重みを捨てることはできなかった。


(……未練だな)


 ――りゅううううう。


 捻じれた洞窟に吹き込む風のような独特の呼吸法(ブレス)

 萎れた老騎士の肺がやにわに活性化する。


「マナとは己の体内に宿る精霊の息吹である」

 “剣祖”カミュロケシスはそう告げて自らの指を剣と成した。


「声とはすなわち風なれば、呼吸もまた声の一種なり」

 “剣匠”リーゼライトはそう提唱して、呪文を呼吸法に昇華させた。


 そして、ジフの振り抜いた一閃は、庭一面に好き勝手生えた野草を薙いだ。


 ざあ、と遅れて吹く風が断たれた草を巻き上げて散っていく。


「いつ見ても惚れ惚れする技前だな……」

「息を吸って吐くだけの動作にいちいち見栄を切る王都の連中がおかしいのだ」


 呼吸法(ブレス)、転じて祝福(ブレス)は広義の身体強化魔法に該当する。

 息をするという単一動作を詠唱として、自らの肉体に魔法をかけるのだ。

 どのような強化が適しているかは本人の属性に依る。

 風の属性を強く持つジフは反応速度の増加と斬撃の鋭化を重点的に強化している……していたと言うべきか。

 今となっては衰え、ろくに力の入らない全身を動かすことに多くのマナが割かれている。

 だが、肩より上に腕を上げることすら困難な老体を一端の剣士に変えるのだ。常に魔獣との戦いを強いられる騎士階級において、それが祝福と呼ばれるようになったのも当然の成り行きであった。


「構えろ、ジーク」

「うむ」


 ――こおおおおおおおっ。


(……火の気が強いな)


 力強い呼吸音をあげてマナを練るジークを見つつ、ジフは心中でひとりごちた。

 火のマナ。それはジフに腐れ縁の女を思い出させる。苦い記憶だ。

 ともあれ。


「隙有り」

「げふっ!?」


 ジフは鞘の鐺でジークの喉を軽く突いた。

 呼吸法に集中していたジークは防ぐこともできず、大きくのけぞり、たたらを踏み、次いでその場にうずくまった。

 喉は首の筋肉の隙間。突かれれば呼吸が止まる、鍛えることのできない急所である。


「こっ、かはっ……」

「声も出ないだろう。これが先の機に先んじる呼の機だ。呼吸を読まれるのは隙だぞ、ジーク。ラーケルタ騎士団はいつからそんなにお行儀が良くなったのだ?」

「げ、げふっ……」


 辛うじて返事を吐いたジークがどうにか立ち上がり、ふらふらと下がる。

 互いの間合いが五歩に開く。手を伸ばしてもジフの剣は届かない。

 だが、すでに呼吸を終えている老騎士ならばいかようにも手を出せる。


 鞘は木でできている。そして、木とは地より栄養を得て育つものだ。


 地の祝福――模倣“虹鞭(ビフル)


 一瞬にして長さを倍化させた鞘が今度はジークの水月を打つ――

 ――その直前、炎を纏って振り抜かれた若武者の剣が鞘を弾いた。

 ジフは刃筋を外して刀身を受けつつ、鞘を引き戻した。


「よろしい。呼吸法はいつでも中断し、祝福を発動できるように」

「ま、また違う祝福覚えてる。現役時代は“剃刀”一筋だったくせに!!」

「人は変わるものだ」

「というか、風のマナを練っていたのに地の祝福ってどうやるのだ!?」

「稽古だ」


 弟子の疑問をばっさりと切り捨て、ジフは稽古を続けた。



 ◇



「ま、参った!!」


 日が暮れる。

 一時ほどもすると、ジークは立つこともできず庭に寝転がっていた。

 呼吸法は優れた技術であるが、繊細な神秘でもある。

 いまだ無駄と緊張の多い運用は容易くマナを枯渇させ、気力を摩耗させ、体力を削り取るものだ。


 一方のジフは矍鑠としたものだった。

 それもそのはず。老騎士は常の呼吸でも極僅かにマナを練り、気力体力の回復に充てている。

 若い頃なら必要のなかった余技であるが、60歳を過ぎた今となっては普通に動くにもなくてはならぬものとなっている。


「まだまだ無駄が多いぞ、ジーク。おぬしは純粋なマナの総量では私に倍するというのに」


 声には苦笑と、老いてなお消えることなき武術家の嫉妬の炎が混じる。

 武術の世界においてはその歴史を「剣匠リーゼライト」の前後で区切られている。

 剣を振る才能、身体能力、学習能力。それに加えてマナの総量と運用能力が追加されたからだ。

 ジフはお世辞にもマナが豊かとは言えない身だ。それゆえに運用を磨いた。

 一滴のマナさえあれば、ジフは剃刀となった。

 彼をして王国二番手を自負する源泉である。

 そして、その技術は余すところなく後進に引き継がれている。

 ラーケルタの騎士は三日三晩戦い続けられるとは、王都の吟遊詩人も謳う常識だ。


「まったく。わざわざ隠居した爺から学ぶこともなかろうに。一体なにが楽しいのか」

「そういうクソ真面目なところだぞ、じい」

「騎士たちも真面目で優秀だろうに。三代揃って物好きだな、若」


 老騎士の口調に稽古の終わりを感じ取ったジークはむくりと上体を起き上がらせた。

 表情は不満げなそれ。自身の未熟さと、おそらくはジフが隠居していることへの不満だ。


「じいはまだ現役でやれるではないか。わたしが呼吸法を学び始めたのと同時に引退するなど当て付けかと思ったぞ」

「……そういえば、若は陛下と同い年であったな」

「“金枝王”か。そうだな。すでに王として辣腕を振るっている陛下と比べれば、わたしは未熟だ」

「陛下はご健勝であらせられるか?」

「わたしの口からは言えん。不敬になる」


 腕を組んで断言するジークは竹を割ったようで、思わずジフは笑ってしまった。

 有能である。だが気に食わん。全身でそう主張する次期領主はなるほど、未熟だろう。

 だが、それがジフには快かった。

 あるいは、いまだジフが騎士であり続けているのは、ラーケルタ男爵が代々こういう気風だからだろう。


「日が暮れる。今日は泊まっていくといい」


 ジフが鞘に納めた剣を一振りすると、庭の一角に石積みの竈が出来上がった。

 狭い庵に育ち盛りのジークを転がす広さはない。今夜は野宿になる。

 助かる、と謝意を述べてジークは薪を拾いに立ち上がる。ついでに馬に水をやりにいくのだろう。

 まだふらついているが、騎士の卵に変わりはなし。森の奥に入らねば魔獣に後れをとることもないだろう。


 この庵から領主屋敷までは馬を飛ばして半日ほどかかる。

 逆に言えば、ラーケルタ男爵領はそれほどに狭いということでもある。

 10年前、ジフの魔王討伐の功績を以って加増することも検討されたが、先代ラーケルタ男爵はそれを謝辞した。


「我が懐に過ぎたるは“剃刀”。これ以上の褒美は不要」と。


 すなわち、ジフを配下とし続けることがラーケルタ男爵領にとってのなによりの褒美であるとしたのだ。

 おそらくジフに王都の近衛騎士団への引き抜きがかかっていたことを先代は知っていたのだ。ジフがそれを拒み、しかし騎士爵ゆえに断り切れないこともまた。

 ゆえに、ジフの忠義は今なおこの狭くも穏やかな男爵領に捧げられているのだ。


 ジークが薪を拾って戻ってくると、ジフは庵から鍋を取り出して簡単なスープを作った。

 騎士の主な任務は統治と討伐だ。後者に於いて何日も森に張り込むことも多い。野営は必須の技能である。


「じいはもう少し精のつくものを食べるべきだと思うが如何か?」

「この歳になると食も細くなるものだ」


 しれっと宣い老騎士は竈から鍋を下した。

 薬草と干し野菜でつくった味の薄いスープ。日持ちするよう堅く焼きしめた騎士のパン。

 現役の頃から変わらぬ食事。不味くはない……が、そもそも味がない。若い鋭敏な舌には不満だろう。

 弟子は師と寝食を共にするのがラーケルタ騎士団の習わしだ。肉が食べたければ師を焚きつけるしかないのだ。

 先代に拾われた頃の自分もそうだったことを思い出し、ジフは苦笑を濃くした。


「氷室に鴨の燻製がある。持ってくるといい」

「話がわかるな、じい!!」


 すでに体力が回復したのか、すっくと立ち上がったジークは勝手知ったる他人の家とばかりに庵を漁り始めた。

 先代ラーケルタ男爵が父ならば、当代は弟、次代のジファイクは子か孫のよう。

 口では腐しつつも、その背を眺めるのはジフにとって老後の楽しみであった。

 杯に注いだスープを啜る。疲れた体に薬草の滋味が染みていく。



 ――その天命、もって五年。



 とある因縁深い知人――人ではないが――から告げられた宣告が脳裏をよぎる。

 何事もなく、穏やかに過ごせば、お前は騎士としてあと5年生きられる、と。

 あと5年といえばジフは70歳に差し掛かる頃だ。騎士としては随分と長生きだ。


(だが、足りぬ。やはり非才の身では天上の武には届かぬか……)


 若い頃は無茶をした。魔王との三日三晩の死闘は確実に寿命を縮めた。

 マントを貫いて忍び寄る夜風に骨肉が軋む。膝は痛み馬に乗るのも苦労するほど。肩に至っては祝福がなければ上げられもしない。

 そも、学び始めるのが遅すぎた。

 隠居してからの10年の殆どを捧げてなお、時間が足りなかった。

 くしゃりと掻き上げた髪は白が多く、僅かに元の黒髪が混じる。

 その黒と白の斑色は決して、彼が焦がれた、雪のような――真っ白な灰のような白色にはならない。


(すまん、バーサ。約束は守れぬかもしれん。だが、この子ならば――)


 その胸には悔恨があり――


「酒はないのか、じい」

「私は下戸だ」


 そして、未来への期待があった。





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