老いたる騎士と白き灰
抜けるような青空に、細い棒きれのようなものがくるくると舞う。
それが地面に落ちてぐしゃりと潰れた段になって、己の右腕だったとバーサは気付いた。
敗北の証であった。
「……」
「……」
秋風が抱き合ったまま沈黙するふたりの髪をさらう。
「…………やっと、貴女に勝てた」
万感の思いを込めてジフはそう呟いた。
至近で見上げれば、子どものような笑み。白い髭は硬さを喪い、さらさらと風に揺れている。
女もまた困ったように、しかし心からにっかりと笑った。
「ったく。50年遅いんだよ、ばかもの。おかげでおぼこのままこんなに年食っちまった」
「お互い様だ」
「かっこつけんじゃぁないよ、童貞」
「貴女よりいい女はついぞいなかったのだ。つまり貴女が悪い。今すぐ許せ」
「死ね変態こじらせ爺」
「ああ、もう死ぬぞ」
「――っ」
瞬間、バーサは生まれてからついぞ感じたことのなかった「寒さ」を覚えた。
思わずジフの体へ身を寄せる。残った左腕で強く抱きしめる。
だが、老騎士の身が軋む様子はない。バーサの細い腕にあるべき怪力の加護はなくなっていた。
バーサは火のマナを喪っていることに気づいた。
ジフが点穴を突いた際に封じたのだ。おそらくは経絡系への直接干渉。
つまりは、己を竜たらしめる要素がなくなったのだ。
「なんてことをしてくれたんだい、ジフよぉ。ワシからマナをとったら何も残んないっていうのに」
「人間が残る」
ジフは断言し、徐々に動きが鈍くなっている腕を持ち上げて、バーサの頬に触れた。
蜂蜜色の頬は赤く色づき、童女のように柔らかい。
この姿を最後に見たのが己であることが嬉しかった。
醜い独占欲であった。
「貴女はこれから人のように老いて、人のように死ぬ。私は貴女に勝利した」
――私は、貴女の運命に勝利した。
「……ああ、そうだな。アンタの勝ちだ。だから、約束を果たそう」
バーサはつま先立ちになって、緊張したように視線をあちこちにさまよわせ、それから覚悟したようにそっと目を閉じた。
微かなみじろぎ。
緊張を孕んだ吐息。
白い髭が頬をくすぐる。
ゆっくりと降りてくるジフの気配。
触れた唇は年老いてかさかさに乾き、おまけに体温を喪っている。
だから、バーサは万感の思いでくちづけを受け入れた。
「――貴女を愛している」
一生に一度だけ告げられる告白が触れ合った唇から注がれる。
はじめてのくちづけは血の味がした。
竜であった女は生まれて初めて「熱い」という感触を受けた。
火のマナを支配下に置いていた女にとって、火は熱いものではなく、あるいは己の制御を超えてその身を灼く「痛み」でしかなかった。
バーサは安堵した。ようやくジフを自由にしてやれた、と。
約束なんてするもんじゃなかったねぇ、などと思った。特に頑固な騎士とは。
「ああでも。ワシも、ワシもアンタをあいしてるよ、ジフ。ほんとうに――」
「――――」
「ジフ?」
嫌な予感に目を開ける。
唇を離せば、至近距離におだやかな表情で目を閉じた老騎士の顔がある。
ひどく嬉しそうで、なんの後悔もしていないような老いた男。
ふと、バーサの視界が滲んだ。
それが涙であることに気づくまでしばらくかかった。
「ばかもの。ワシより先に死ぬんじゃないよ。アンタが勝ったんだ。ようやくワシはアンタのものになったんだ。だから――」
竜は涙を流さない。強すぎるから。
ならば今、子供のようにしゃくりあげている自分は何なのか。
「……ばかもの。ワシをひとりにするな」
物言わぬ彫像と化したジフをバーサはぎゅっと抱きしめる。
最後の最後。きっとふたりの勝負を分けたのは相手への理解であった。
バーサにはジフが欲しいものがわからなかった。
いや、わかってはいたが認められなかった。いかな“流星”とて恥じらいはあった。
ジフにはバーサが欲しいものがわかっていたのだ。
そして、そのために脇目も振らずに駆け抜けた。
そうでなければたった10年で“鋼の秘密”を物にできるはずがない。
ジフが魔王の祝福を直に見た生き証人であったことを差し引いても、そこに至るまでの鍛錬は想像を絶する。
「……ばか」
バアルサファル・ファイレシアは未来を喪った。
僅かに一瞬、気持ちが通じ合った一瞬の時間だけで満たされてしまったからだ。
他に何もいらなかった。
今となってはジフに断ち切られた腕さえ愛おしかった。
己という存在はジフ・オールセンの死によって完結したのだと悟った。
ゆえに残ったのは、因果を清算する時間である。
『――天命が尽きたか、“剃刀”よ』
つむじ風を纏い、天より死を告げる竜が舞い降りる。
“剣祖”にして“告死竜”カミュロケシス。
その蒼き竜が舞い降りるとき、諸人は英雄の死を知る。
『見事なり“剃刀”よ。その生き様、研鑽、我が小指なぞ及びもつかぬ至宝である』
「カミュロケシス……!!」
バーサは憎々しげに原始の英雄の御名を唱えた。
『猛るな“流星”よ。これは契約である。我が小指を与える代わりに、“剃刀”は鋼の祝福を完成させる。その死を以って代価とする。意味は分かるか?』
「――!! 10年前のかい」
『今思えば、魔王を我が泉下に連れていけぬことの代償であったのやもしれぬな』
「なら、ワシも連れていけ!! ワシはコイツのもんだ!! コイツと一緒に逝く!!」
血を吐くようなバーサの叫び。
しかし、たったひとつの望みは叶わない。
『――汝の天命はいまだ尽きていない』
告死竜カミュロケシスはどこまでも公平であった。
まだ生きるべき者に死を告げることはない。ただ見届ける天命の傍観者。
それが幾百年も剣士の死を積み上げた竜の贖罪なのだ。
バーサには、到底受け入れられるものではなかった。
「ワシがまだ死んでいないだと? ワシの命にまだ先があるだと? それなら、コイツの死に何の意味がある!?
――ふざけるな。コイツはワシのために命の全てを懸けたのに、ワシはそうでないと言うのか、竜よ!?」
バーサは吼える。その声に以前のような強さはない。ジフが持って行ってしまったからだ。
ここにいるのは見た目通りの力しか持たない隻腕の女だった。
しかし、歴戦の戦士であることに変わりはない。
バーサはジフの手から竜骨短剣マヌスを抜き取ると、残る左手で構えた。
カミュロケシスはまだバーサの天命が尽きていないと言った。ここで殺す気はないということだ。
であれば、守りはいらない。今の己でも一矢報いることが――
その瞬間、バーサはほんの僅かに、ジフに抱き寄せられた。
「――っ」
ありえない現象に鼓動が跳ねる。
それは死後硬直によって関節が曲がったものだ。
バーサは識っている。
多くの死を与えてきた。多くの死に様を見届けてきた。
だから、わかる。わかってはいるのだ。
けれども――バーサは戦意を喪失した。
「……かえる」
『どこへ?』
「オマエ、実はワシのこと嫌いだろ」
カミュロケシスの問いは平坦だが辛辣だった。
バーサは短剣でジフの白髪をひと房切り取ると布で包んで懐に入れた。
「コイツを故郷に帰してやるだけさね」
『そうか。愛されているのだな、“剃刀”は』
竜は微かに目を細めた。それ以上は何も言わず、ただ翼を広げた。
巨体が風を巻いて空へと昇っていく。
いつの間にかジフの死体は消えていた。
徐々に小さくなっていく竜をバーサはただ見上げていた。胸にぽっかりと穴が空いたような気分であった。
「バーサよ」
「……あ、陛下」
端で見守っていた“金枝王”に声をかけられ、のろのろと顔を向ける。
今の今までその存在をすっかり忘れていた。先ほどの逢瀬もみられていたと思うと頬に血が上るが、幸い少年王はそのあたりをスルーしてくれた。
「ラーケルタ男爵領に行くのはよいが、右腕をそのままにしているのはまずかろう。予なら義手も作れるぞ……黄金で」
「趣味悪すぎさね。止血だけ頼むよ、陛下」
よかろう、と少年王は首肯すると瞬く間に黄金の腕輪がバーサの右腕の断面に嵌められた。
止血と防腐。マナを繰る術を喪ったバーサは誰かにしてもらわねばならないことだった。
「……これでよし、と。ジフを帰したあとはどうするのだ、バーサよ。帰る場所がないなら適当な席を用意しておくが」
「いや、いいよ。ワシの行くべき場所は決まっている。お迎えが来るまでのんびりしているさ」
「そうか。……ではな、“流星”よ。予にとってはおぬしも“剃刀”もともに英雄であったよ。やはり精霊の生贄なんぞにするのは惜しい。どうか心のままに生きてくれ」
「その言葉だけでも救われるさ、陛下」
そうして、金枝王に見送られ、バーサは王都を後にした。
◇
街道に出る。
風は冷たく、己の体は頼りない。
「……寒いな、ジフ」
弱さというものを生まれて初めてバーサは体験していた。
他の人はこんな脆弱さで生きているのか、という驚きがあった。
ちょっと心臓が止まれば死ぬ。10日も飯を抜けば死ぬ。雪の降る中で寝こけたら死ぬ。
一体全体、どうやって生きているのか皆目見当もつかなかった。
バーサがこれほどまでに死を身近に感じたことはなかった。
女は死を齎す側の存在であり、与えられる側ではなかったからだ――
――今この瞬間までは。
「……なんだい、もう元気そうじゃないか、リーファン」
「その節はご指導ありがとうございました、大叔母様」
街道を塞ぐように立っていたのは彼女の兄の息子の娘であった。
ジフとの戦いの前に返り血を浴びるのもどうなのだろう、と自分勝手な躊躇によって生かされた少女であった。
バーサを手本に作られた特注だけあって焼け爛れた全身はすでにおおむね治癒しているのか、見える範囲に痕は残っていない。
「意趣返しでもしにきたのかい?」
「そのつもりでしたが……」
リーファンは大叔母を見下ろして、蔑むような、羨むような吐息をついた。
「“白炎の王”であれば殺さねばなりませんが、もう死んでいたようですね」
――ここにあるのは、白き灰のみ。
「……リーファン」
「本家への報告は以上になります。ただの人間に興味はありません。今の大叔母様には殺す価値もなし。せいぜい生き恥を晒してください」
「言われるまでもない。そうさせてもらうさね」
少女の横をバーサはおぼつかない足取りで通り過ぎていく。
正直なところ、斬りかかられるくらいはバーサも覚悟していた。
それだけの暴虐をバーサは働いてきた。ファイレシア家からの仕打ちもどっこいではあったが、そこに所属するリーファンにとっては関係のない話だろう。
だが、予想に反してリーファンは何もしなかった。
餞の笑みはないが、蔑みの色も消えていた。
残ったのは羨むような幼気な表情だけであった。
「できるだけ長く苦しんでから死ぬことを祈っております、大叔母様」
「アンタも長生きするんだよ、リーファン。馬鹿兄貴のことなんて忘れちまいな」
「一言多いです。……今度からちゃんとベッドで寝て、文明の味を噛み締めてください」
「ハン、二言多いよ」
それからふたりは目を合わせることもなく、互いに背を向けて歩き出した。
――そうして、女は辺境を目指す。
振り返ることはなかった。
バーサは自由になった。ジフの願った自由であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
……気付かぬうちに船を漕いでいたらしい。
庵の壁に寄りかかったままバーサはあくびを噛み殺した。
いつから寝ていたのだろうか。最近は起きていても思考に靄がかかったように明瞭としないことが多い。
その割に過去のことは鮮明に思い出せるので、口から出るのも昔話ばかりであった。付き合う方はたまったものではないだろう。
「婆やはいるかー?」
……であるのに、この地の領主一族は変わり者ばかりらしい。
杖をひっ掴んで庵を出れば、橙色の髪を後ろで括った溌溂とした少女が仁王立ちしていた。
バーサはこれ見よがしにため息をついた。
「姫、ここまで来るときはお供を連れて来いと言っただろう」
「不要!! 騎士より私が強い!!」
人を育てるというのはなんて大変なのだろうか。
今更ながらバーサはその苦労を噛み締めていた。これが文明の味だとでもいうのか。
誠心誠意育てたはずなのに、なぜか昔の自分みたいなガキ大将姫ができてしまったのだ。家出した勢いでヤンチャしていた過去の自分を見ているようでとてもつらい。
「そんなことより、父上が呼んでいたぞ。きんしおう?様が来られたらしい。うちで応対できるのは婆やだけだ」
「貴族ってなんなんだろうねぇ……」
代を経るごとに脳筋化しているきらいのあるラーケルタ男爵家に一抹の不安を感じつつも、バーサはひとまずの指示を出した。
「ワシは体が弱ってもう馬に乗れん。馬車を連れてきておくれ」
「仔馬か、騾馬なら婆やでも乗れるのではないか!?」
「張っ倒すよ」
体が弱ってるとはなんだったのか……と愚痴りながらも少女は言いつけ通り馬車を拾いに行った。
素直な子だ。きっといい領主になるだろう、もう少し行儀を身につければ、だが。
(……そろそろだね)
あの精霊供儀から、さらに50年が経った。
老いはついにバーサの足を掴んでいた。
ジフに貰った人間の人生だ。できるだけ長く生きたかったが、今度ばかりは抗えそうになかった。
(心臓の動きが鈍くなってきた。これは、駄目かもしれんね)
今にも空の向こうにカミュロケシスの巨体が見えそうだ。
姫には悪いことしたな、と考えてバーサは苦笑した。
所帯じみた今の己は過去からは想像もできない姿であった。
「――世界は広い、人生は長い。悪いもんじゃなかったよ」
バーサは空に呟きを漏らし、次いで背後に足音を聞き届けた。
「おや、早かったね、姫――――」
声が途切れる。
カラン、と手から杖が滑り落ちる。
枯れたと思っていた涙が老いた頬を流れ落ちる。
途切れかけた鼓動が跳ねるように戻ってくる。
ああ、と感嘆の息が色を取り戻した唇から漏れる。
「ようやくアンタに追いついたよ――」
体はいつの間にか若い頃のそれに変わっていた。
だから、いつかと同じようにバーサは彼の胸に飛び込んでいった。
「馬車を連れてきたぞ、婆や!! ……婆や?」
応える声はなく、草原に風が吹く。
空高くを舞う蒼き竜の姿だけが、全てであった。
――老いたる騎士と白き灰、完
読了ありがとうございました。
あとがきは活動報告にて




