さくっと参上! エルフの忍者キクイモさん
さくっとお読みいただけましたら幸いです。
とことこと、田舎道の外れをのんびり歩く人影があった。ぽかぽかと陽気の溢れる昼下がり、小さな村から半日ほど行った、山のふもとの砂利道である。
背丈は小さく、まるで子供のようであった。子供、と断ずることが出来ないのは、格好のせいである。白くだぼっとした布の服に、顔にも白い覆面をしているからだ。ただ、耳だけは覆面の端から、ひょっこりと飛び出ている。長く尖ったその耳は、エルフのものであった。
それは、真っ白な忍者であった。名は、キクイモ。その手の業界では一応有名で、一部の人間たちからは畏敬を込めて『キクイモさん』と呼ばれている、一風変わった忍者であった。
キクイモは、修行中の身であった。師匠の元で雑務をこなし、技を盗んで身に着ける、見習いの下忍である。にもかかわらず、キクイモの名は中堅どころの忍者として、売れていた。
特別に、腕が良いというわけではない。人気の無い道であっても、のんびりと歩いて姿を晒しているようでは、一人前からは程遠いといえる。忍者は、忍んでナンボなのだ。
「ふみ。何か、聞こえる」
覆面の中から、キクイモがくぐもった声を上げた。ふみ、という音には意味は無く、単なる奇妙な鳴き声である。
長い耳を動かし、キクイモは音の出所を探る。手を頭の後ろで組んで、のんびり歩く様に変化はなく、ただ耳だけをぴくぴくと動かしている。全身の、余分な力を抜いたのだ。
「ふみ……あっち!」
ひょい、とキクイモの姿がぶれて、次の瞬間にはその小さな身体は道を外れた雑木林の中へと舞った。細い木の枝を足場に、しかし、それを強くしならせることは無く、キクイモは軽やかに跳躍を続けてゆく。そしてキクイモは、一本の木の下へと降り立ち動きを止めた。
「ふみ、これは……」
気配を完全に消したキクイモが見下ろす先には、ずんぐりと肥った鳥のヒナがいた。そして視線を上に動かせば、シャープな顔つきの鳥がヒナに向けて鳴き声を上げている。
「……察するに、落ちたんだね。このまんまじゃ、森の獣の餌食だけれど」
しゃがみ込み、キクイモはヒナの前で腕組みをする。未発達の羽根をばたつかせ、ヒナは懸命に鳴いている。巣に戻ろうにも、飛ぶことはまだ出来ないようだった。
がさがさと、茂みが不穏な音を立てる。もしかすると、鳴き声につられて狼などが、近づいてきているのかも知れない。
「ふみ……森の掟は、弱肉強食。きみを助けることは、それに反することだけれど……」
生命の危機を察してか、ヒナの鳴き声は激しいものになる。親鳥と思しき鳥が、さっと巣から飛び出し周囲の木々を飛び回る。気を、逸らそうとしているのだろう。その姿は、必死そのものであった。一方のヒナ
は瞳を潤ませ、ひたすらに鳴いている。
「……わかった。何とかするから、そんな顔、しないでよ。子供の泣き顔には、特別弱いんだ」
数秒の逡巡の後、キクイモはすっと手を伸ばす。気配を消しているために、ヒナには突然に自分の身体が浮き上がったように感じられたのだろう。首を巡らせ周囲を見つめ、短い鳴き声を上げる。
「ふみ。まずはこの子を巣に戻して……巣の強度が、ちょっと足りないかな。これじゃ、また落ちちゃうかも。少しだけ、補強しとこうか」
ヒナを片手に乗せたまま、キクイモは器用に足だけで木に登り、空いた手で皿状に組まれた木の枝で出来た巣へと手を伸ばした。キクイモの手が閃いた、と見るや、破損していた巣は元通りに、いや以前よりも頑丈なものへとリフォームされていた。
「これで良し、っと。もう、落ちるんじゃないよ」
ずんぐりしたヒナを、小さなヒナの隣へと乗せる。やり切った目を覆面の隙間から見せて、キクイモはそっと木から飛び降りた。
「ふみ、あとは……」
音もなく着地したキクイモは、懐をがさごそと探って一個の丸い団子を取り出し地面へと置く。
「ボクの、お昼だけれど……よかったら、あの子の代わりにこれを食べてってよ」
言い終えたキクイモが、宙へ舞う。直後、茂みから出て来た一頭の狼が首を傾げ、団子の匂いを嗅いだ。それを尻目に、キクイモは田舎道へと戻ってゆく。
「ちょっと、寄り道しちゃったね。これ以上遅れると、お師匠様に怒られる……」
雑木林を抜けたキクイモが、ぶるりと全身を震わせて言う。
「ちょっとだけ、早歩きしようかな……ふみ?」
行く先を見つめるキクイモの目が、細くなる。ぴくり、と耳も動いた。
「また、何か聞こえる……寄り道する時間、無いんだけれどな」
ひたひたと歩くキクイモの歩調が、少しずつ、速くなってゆく。ほどなく、山の麓へたどり着いたキクイモは、土の道の上に馬車の車輪の跡を見つけた。それは道を外れ、すぐ側の森の奥へと続いている。
「複数の足跡と……ふみ、矢が、刺さった跡もあるね。山賊かな? このあたり、出るって聞いたし。時間も無いし、あんまり、関わり合いには、なりたくないな……」
場の痕跡を分析して、キクイモは呟く。長い耳が、ぴくりと動いた。
「ふみ……馬車が、襲われて……ふみみみみ……」
覆面の中の眉が、ハノ字に寄せられる。微かに、耳に届いてくる、音があった。
「……ちゃちゃっと片付けて、走れば間に合う、かな? うん」
うなずいて、決断をすれば早かった。キクイモの全身から余分な力が抜けて、だらりと両手を下げたまま駆け出すその背中が、森へと消える。ふわりと、そよ風のようにキクイモは木々の間を抜けて、音と痕跡を頼りにそこへと向かった。
ほどなくして、キクイモはそこへたどり着いた。馬車が無理やりに駆け抜けたような傷が、木々にある。その先に、馬車が横転している。幌の部分に矢が突き立っていて、それは恐らく襲撃を受けたのだろうと知れた。
襲撃者の影はすでに無く、馬車馬も逃がされたのか、姿が見えない。キクイモは消していた気配を少し出して、横倒しになった馬車の幌へと近づく。
「ふみ、もう、大丈夫だよ……?」
幌をめくり、キクイモが声をかける先は、一個の樽であった。静寂が、辺りを包む。樽には、『廃棄物』と書かれていて、饐えた臭いが漂っていた。そんなものに白装束の忍者が話しかける姿には、幾分かのシュールさがあった。
「まま……? ぱぱ……?」
その樽の中から、幼い子供の声が聞こえてきた。キクイモは、ゆっくりと首を横へ振る。
「ふみ。その、どちらでもないけれど……今はたぶん、安全だから。とりあえず、出ておいで?」
キクイモの提案に、樽ががたごとと揺れる。
「……でれない」
情けない声が、樽の中から聞こえてきた。
「ふみ……しようがないね。ちょっと、乱暴にいくよ」
言ってキクイモは、樽の蓋をこじ開け持ち上げ、ぶんぶんと振った。中から出て来るものは、ぐちゃぐちゃとしたよくわからないゴミと、そして、
「ぐべ」
腰の辺りまでの半身をぐちゃぐちゃに汚した、人間の子供だった。
「ふみ、酷い臭いだね。でも、命が助かっただけ、マシなのかな? 大丈夫? 一人で、立てる?」
「うん……ぱぱと、ままは、どこ……?」
不安そうな顔をした子供が、きょろきょろと周囲を見回して言う。
「少なくとも、ここにはいないね……とりあえず、身体、洗おっか。ちょっと、待っててね」
子供に向けて手のひらをかざし、キクイモはぶつぶつと呪文を詠唱する。エルフは高い魔力を持っており、ために適当な詠唱でも簡単な魔法を発動させることは出来るのである。
「ふみ、そんな適当でもないけれどね……『浄化の水』」
詠唱を終えたキクイモの手から、勢いよく水が出て子供の半身を覆う。ざぱり、と波が弾けるほどの短い時間で、その水は流れ去る。大きな目をぱちくりとさせる子供に付着していた汚れも、一緒に流れ去った。
「すごい、きれいに、なった」
「おまけに、おひさまの香りもサービス。この辺は狼も出るから、危ないよ。さ、早く帰ろう?」
早口で言って、キクイモは身を翻す。しばらくは汚物の臭いもあり、近づく獣はいないかも知れない。だが、危険なことは、事実であった。
そんなキクイモの手首を、がしりと子供が掴む。
「ぱぱと、ままは……?」
潤んだ瞳に見据えられ、幼くか細い声で訴えかけられ、キクイモは軽く額を押さえて動きを止めた。
「ここまででも、結構な寄り道なんだよ……お師匠様に、確実に怒られて……おしおきが……」
「うぅ……ぱぱ、まま……」
子供に聞こえないよう呟くキクイモの耳に、容赦なく飛び込んでくる、半泣きの声。冷徹非情な忍者であれば、これは無視すべきことである。だが、キクイモにはそれが出来なかった。種族を問わず、子供の泣き声には弱いのである。だから、忍者としてキクイモはまだまだ、未熟なのだ。
「ふみ、うるさい……未熟だけど、仕方ないじゃないか……うぅ……」
「う、うぇ……ぱぱぁ、ままぁ」
こんもりと涙の盛り上がった子供の頭を、キクイモは優しく抱き寄せる。
「大丈夫、ボクが、何とかしてあげるから。だからもう、泣かないで?」
「う、ん……あり、がと……ぱぱと、ままは、きっとわるいやつらに、つれてかれちゃったの。たるのなかで、きいてたの。おとなしくついてくれば、このおんなはかいほうしてやるって、いってたの……」
「ふみ……随分、具体的な情報をありがとう。それだけ聞けば、きみのパパとママの居場所は、解ったよ。街道まで送ってあげるから、そこで大人しく待っていてね」
言うなり、キクイモは子供を抱えて横倒しの馬車から飛び出した。田舎道へと戻り、懐から取り出した丸太を組んで簡素な小屋を作り、家具を整えベッドに子供を寝かしつける。ここまでを、数秒で片付けていた。忍術と、魔法の力である。
「ふみ、何でもそれで、片付けられるとは思わないことだね。それじゃ、さくっと行こっか」
誰に話しかけているのかは不明であるが、そんなことを言いながらキクイモが向かうのは、山の獣道である。気配を探れば、山賊の居場所は簡単に知れた。
山間の木々に隠れるようにして作られた、簡素で粗末だが大きな小屋がある。麓からは見えず、獣道を行く者もかなり近づかなければ、見えない程である。そんな小屋を見下ろす木の枝の上に、キクイモの姿はあった。
「ほら、すぐにわかった。隠蔽工作は出来ても、気配を消さなきゃ意味ないよね」
見下ろす小屋の入口には、見張りが二人いる。そこそこに鍛えられた、ガタイの大きな山賊だ。キクイモは目を閉じ、風を読む。そして懐から取り出すのは、吹き矢の筒である。口に筒をくわえ、片目を開けて照準を定める。狙いは、見張りの首筋だ。
「ふみふみ……ふっ!」
そよ風がそのささやきを止める僅かな合間をぬって、キクイモは吹き矢を二本、飛ばした。うっと小さなうめき声を上げて、二人の見張りが倒れかかる。その時には、もう樹上にキクイモの姿は無い。
「ふみ、しばらく、眠っててね」
倒れる二人の男をそっと支え、横の地面に寝かせる。一瞬の、早業である。静かに制圧を終えたキクイモ
は、小屋の扉へ背をつけて、中の音に耳を傾ける。どうやら、気付かれてはいないようだった。扉の中からはがやがやと笑い声の混じった騒ぎが聴こえてくるばかりである。
「ふみ……忍法、無門の術」
ひとつうなずいたキクイモの姿が、扉の前から消える。次の瞬間には、キクイモは扉の内側にいた。音も無く、施錠された扉を潜り抜ける術。それが、無門の術である。冒険者のシーフから見れば、垂涎の技であろうか。
「習得に十年、厳しい修行が必要だし、ちょっと気を抜いたら扉の中に身体が挟まって出られなくなっちゃうから、一般家庭のシーフさんは、絶対に真似しちゃいけないよ」
中へ入ったキクイモは、素早く物陰に身を潜める。入口から見える位置に、大広間があり、剣や斧、樽などが乱雑に置かれていて、隠れる場所に不自由はしなかった。
手ごろな樽を遮蔽にして、キクイモはそっと視線を巡らせる。騒ぎ声が、円陣を組んだ山賊たちの中から聞こえてくる。甲高い、女性の悲鳴もいっしょに。
「ふみ。急がなくっちゃ、だね」
小さくうなずいたキクイモは、左右の手に手甲をはめる。白い魔獣の革で作られた手甲は、甲の部分が大きく膨らんだデザインである。装着と同時、キクイモは跳躍する。高い天井を蹴って、その身は瞬く間に山賊たちの円の中へと着地する。
「う、うわあっ!」
「な、何だ何だ!?」
円の中心では、今まさに山賊が女性に襲い掛かり、衣服を引き千切らんと掴みかかっていたところであった。そこへ、小柄なキクイモが現れ、山賊たちは一瞬、呆気に取られる。キクイモにとっては、その一瞬で、充分であった。
「ふみ、悪党退散っ!」
キクイモが気合一閃、手甲をつけた腕を周囲へ向けて振り回す。
「ぎゃあ!」
「ぐえ!」
「んぐぅ!」
円陣を組んだ山賊たちが、悲鳴を上げてばたばたっと倒れた。その首筋には、いずれも細い銀の針が刺さっている。それは、キクイモの手甲から放たれた、強力な眠り針であった。
「ふみ、大丈夫ですか?」
青い顔で倒れていた女性を引き起こし、キクイモは問いかける。女性はすぐに気を取り戻し、こくりとうなずいた。
「あ、危ないところを、ありがとうございます。あの、あなたは……」
「通りすがりの、忍者です。ふみ、ここに連れて来られたのは、あなた一人ですか?」
どこの世界に、忍者が通りすがるというのだろう。そんな疑問を抱くことなく、素直に女性は首を横へ振る。
「い、いいえ、夫が、まだ……ああ、私の、せいで」
「ふみ、落ち着いて。旦那さんは、ボクが助けます……あの、奥の扉ですね?」
泣き崩れる女性を支え、キクイモが広間の奥の扉へ目をやる。その扉が、ゆっくりと開かれた。
「どうした、てめえら。遊びが、過ぎるんじゃねえの? もっと、静かにやらんか……んっ?」
中から現れたのは、大柄で人相のひときわ悪い、山賊の頭らしい男であった。筋肉質な肉体を誇示するかのように、男は、半裸であった。そして、男の片手には、大人の指ほどもある太さの鎖が握られており、その先には広間の惨状を目に顔を青くする男性の姿があった。鎖は、男性の首に嵌められた鎖に繋がっている。
「レイナ! ああ、レイナ!」
「あなたっ!」
男性へ向けて飛び出そうとする女性の腕を、キクイモがぐっと引き戻す。
「ふみ、旦那さんは、ボクが助けるから」
「でも、ああ、あの、鎖は……」
「ふみ? 知っているのレイナさん?」
「はい。あれは、隷属の鎖という、マジックアイテムですが……あの、どうして私の名前を?」
「ふみ。さっき、旦那さんが思いっきり、呼びかけてたでしょ?」
短い問答を遮るように、山賊の頭がどんと床を踏んだ。
「てめえっ! 見ない顔だな? どこのもんだ! ああっ!?」
ごりごりと、肩の筋肉を鳴らして山賊の頭が咆哮する。
「賊相手に、名乗る名前は、無いよ」
両手の手甲を外し懐の中へ収め、キクイモは言い返す。代わりに両手に構えるのは、クナイと呼ばれる小型のナイフである。投げてよし、足場にしてよし、もちろん、ロングソードを受け流すのにも、使えるのだ。山賊の頭は、鎖しか持ってはいないけれど。
「その恰好……てめえ、忍者か」
「ふみ。ご想像に、お任せするよ」
腰を低く構え、キクイモは山賊の頭を見上げる。目を細め、相手をじっと観察する。呼吸、間の取りかた、視線の動き、冷や汗の流れ。あらゆる情報を汲み取り、分析は一瞬で済ませる。大した、相手では無い。問題は、隷属の鎖とかいう、マジックアイテムのほうだ。キクイモは、そう判断した。
「そうか……そんなら、食らえやっ!」
ぶん、と山賊の頭が右拳をキクイモに向けて突き出してくる。両者の距離は、二メートル余り。拳の間合いでは、無い。ぴくり、とキクイモの耳が、跳ねるように動いた。
「ふみ、お断りっ!」
両手のクナイを咄嗟に打ち出し、女性を突き飛ばしキクイモはサイドステップを踏む。直後、その足元に、赤黒く光る魔法陣が現れた。
「ふみ……そんな恰好して、魔導士だなんて。人は、見かけによらないね」
魔法陣を見やり、キクイモは覆面の上から冷や汗を拭う。一方、山賊の頭は、
「ぐっ……隷属の、鎖が……」
クナイの刺さった左手を押さえ、流れる血を見つめて呻いていた。がしゃり、と音立てて、男性の首から首輪が落ちる。鎖を持つ手と、首輪の両方を狙い、キクイモがクナイを放った結果である。
「終わりだね。ボクのスピードは、あなたが魔法陣を出すより、ずっと早い。無駄な抵抗は、やめておいたほうが……ふみ?」
新たなクナイを取り出し、山賊の頭へ向けて構えるキクイモの動きが、ぴたりと止まる。ぎぎぎ、とぎこちなく首を動かして、キクイモは足元へと視線を向ける。
「……確かに、俺の負けだ。異界から、クラーケンの足の一本を召喚することしか出来ねえんじゃあよ、くそっ! どうにでもしやがれ……あん?」
赤黒い魔法陣から出て来たものは、ぴちぴちと生臭く跳ねる、クラーケンの足一本であった。うねうねと動くその速度は遅く、キクイモでなくとも冒険者の戦士であれば、充分に対処が可能に見える。
だが、キクイモは動かない。足首に、やがて吸盤のついた足が絡みついて、ぎゅっと締め上げても。
「ふ、ふみぃ……」
覆面の中で、キクイモの両目が大きく見開かれた。傍で見てわかるほど、その身は小刻みに震えている。白の忍者装束を、ゆっくりとクラーケンの足が這い上り、絡みついてゆく。
「みぃぃぃやああああ! タコ! タコぉおおお!」
半狂乱となったキクイモを、他の三者はぽかんと眺めていた。突然に現れ、圧倒的な強さを見せたこの忍者が、ぴちぴちと跳ねるたった一本のクラーケンの足に、悲鳴を上げているのだ。何となく、気まずい時間が過ぎた。その間に、クラーケンの足はキクイモの全身へと巻き付き、ぎゅっと締め上げる。
「ふ……ふはははは! どうだ、見たか俺の秘術を! 忍者といえど、クラーケンの足にはかなうまい!」
まず、気を取り直したのは山賊の頭である。圧倒的敗北からの奇跡的逆転勝利を目前に、その精神はハイになっていた。そして、召喚主の高揚にあわせ、クラーケンの足も元気になる。
「ふみ、ふみぃぃぃ! タコ、いやああああ!」
もはやこうなれば、先程までの忍者ムーブも見る影は無い。そこには、拘束されて悲鳴を上げる、情けないエルフがいるばかりだ。
「うるさぁぁい! ぐにぐにの、ぬるぬるで長いのが、やなのぉぉおお!」
「ひーひひひ! 泣け! 叫べ! 最早、お前を助けてくれるもんなんざ、誰もいねえ!」
「やああああ!」
覆面が張り裂けんばかりに、キクイモが悲鳴を上げる。恐怖による自我の崩壊も、時間の問題だろう。そう、思われたとき、動いた者があった。
「ふむ。ぐにぐにの、ぬるぬるが、どうにかなれば、いいんだね?」
それは、隷属の鎖で囚われていた、男性であった。よくよく見れば、男性はローブを纏い、その手に短い杖を持っていた。
「ふみぃぃぃぃ!」
最後の理性を振り絞り、キクイモは必死にうなずく。
「て、てめえ……ぐはっ!」
山賊の頭に、女性の綺麗な飛び膝蹴りがクリーンヒット。
「あなた、今よ!」
「うむ! 氷の嵐よ! 悪しきものを凍てつかせ! フリーズストーム!」
男性の杖から、強烈な冷気を含んだ強風が吹きつける。キクイモを巻き込み、それはクラーケンの足をかちんこちんに凍らせてしまう。ぴちぴちとしていた生臭さも、何もかもが氷漬けであった。
「ふみ……これならっ!」
忍者服の表面が氷でぱきぱきになっていたが、キクイモは気にせず全身の関節を外す。ごきり、と鈍い音が何度か鳴って、ぐにゃりと柔らかくなったキクイモの身体はクラーケンの足の拘束から何とか逃れることが出来た。
「うわあ……」
「うわあ……」
軟体動物のようになったキクイモの姿に、夫婦が引いた声を上げる。それも気にせず、キクイモは関節を嵌め直し、すくっと立ち上がり凍り付いたクラーケンの足を蹴飛ばした。
「これで、良しっと。あとは」
忍者服の埃を払い、キクイモは山賊の頭へと向き直る。
「ひ、ひぃっ! く、来るな! ま、また、足を召喚して……」
怯える山賊の頭の眼前へ、キクイモが瞬時に移動する。拡げた右の手のひらを、そのまま山賊の頭の顔へと突きつける。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前……忍法、記憶剥落の術!」
左手で印を組み、気合をぶつける。その瞬間、山賊の頭が白目を剥いてのけぞった。
「あぱー、ここは何? 俺は誰? にんげん? わからなーい」
「ふみ。ちょっと術が効きすぎたけれど、ま、いっか」
腕組みをして、うんうんとうなずいたキクイモが背後を振り返る。
「レイナ……!」
「あなた……!」
背後では、何やら桃色な空間が発生していた。キクイモは覆面の上から指で目を塞ぎ、そしてちょっぴりだけ開く。
「ふみ……」
ちょっとだけ、大人になれた気がした、キクイモだった。
夫婦を子供の元へ送り届け、帰路へ着くころにはとっぷりと陽が暮れていた。闇の中を走り、息を切らせてキクイモは師匠の待つ屋敷へと帰りつく。
「ふみ、お師匠様。キクイモ、ただいま帰りました」
「そうか、そうか。今、帰ったか」
「ふみ……はい。遅くなってしまって、ごめんなさい」
「此度は、何があった?」
「ふみ、道中では橋が落ちて渡れず困っている子供がいたため橋をかけ、魔物の大群が村に襲い掛かり子供が泣いていたため魔物をやっつけて、町でも家が無くて困っている子供を助けたら悪い組織がやってきたのでこれを潰して、そして帰り道では木から落ちた小鳥を助けて山賊に襲われ両親をさらわれた子供が泣いていたので取り戻してきました」
「なるほど。ざっくりまとめると、そんな感じなのか。良いことを、したのだね。よくやった」
「ふ、ふみ、それほどでも」
「だ、が」
「ふみぃ!?」
「俺、言ったよな? きんぴら作るから、ごぼう買って来てって。なるべく急いで、って。俺さ、じっくり待ってたよ、初めの一日くらいは。それから、あ、コレ中々帰ってこないかもーって思って、でもこんにゃくもう、味付けしちまったしなーって、思ってさ。結局、ピリ辛こんにゃくだけで食べちゃったんだ」
「ふみ……ふみ……」
「次の日帰ってきたらって思って、ドジョウ採って来たのよ。ごぼうに、良く合うからね。んで、お腹空いたから、ドジョウはかば焼きに。あとは筑前煮ごぼう抜きに、ごぼう天ごぼう抜き……いやあ、ごぼうって、大事だね。この一週間で、それがよくわかったよ。ごぼうに感謝!」
「ふみ、お師匠様? その、手にされているものは……」
「ああ、コレ? お仕置き用。お前、タコ好きだよね? 気が狂いそうになるくらい」
「ふみぃぃぃぃ! タコ! タコだけは、許してください!」
「はっはっは、喜んでもらえて嬉しいよ、キクイモ。それじゃ、晩飯終わったし、始めっか!」
「お、お師匠様! そんなにこやかな顔で、タコぉぉぉお!」
「ごぼうを待った一週間、かな。じっくり味わえ、キクイモ!」
「ふみぃぃやああああああ!」
キクイモの悲鳴は、その後一週間、続いたのだそうな。 おしまい