第?話 後書きのようなもの
「それで? 君はどうしたいんだ?」
初めて会ったそれは、何の悪びれもなく言い放った。
悠斗の意識は闇の中に沈んでいた。
実との決着の後の記憶がない。気づけばそこにいた。
意識を集中すれば自分がしっかりと地面に足を付けて立っているのがわかる。闇の中ではなくただ暗い部屋にいることがわかる。
柄にもなく緊張しているのか、混乱しているのか。
だんだん目が慣れてこれば、自分の体が無事なことがわかる。腕も足もある。欠けたところはない。
ただ、この腕が、足が、顔が、自身のものなのか、それとも半身のものなのか、わからない。溶け合った体は一つとなりどこからどこまで自分なのか彼なのか。だが違和感はない。まるで元々一つだったかのように馴染んでいる。実際そうなのかもしれないが。二つに分かれていたことが不自然だったように、今が自然すぎる。
しかし指に絡む髪の色は闇に溶ける黒。彼が人であった頃の色のまま。本来の形を取り戻しても、すべてが元に戻るわけではない。その現れのように金の髪は戻らなかった。
さらに目が慣れた頃には周囲の状況を把握する。古びた埃の臭いと紙の臭い、その正体は周囲を囲むように立つ本の山と散らばった紙。紙に書かれた文字の羅列は上から殴り書きされ元の文章すら読み取ることができない。
アンティークで統一された部屋は古風な物書きの部屋を思わせる。整頓されているとは言えない部屋は所々埃が積もり、部屋の主のずぼらさを物語っている。
暗い部屋の先にはさらに先へと進む扉が用意されている。他に出入り口はない。悠斗は迷いもなく扉を開くことを選ぶ。ここまで来れば何が起こっても驚かない。
扉の先にはやはり暗い部屋が続いている。ただ違うのは一つの光源があることと、そこに誰かがいるということだ。
誰かは悠斗に背を向けたまま机に向かい何かを書き続けている。ガリガリとペン先が走る音だけが響く。光源は机の上を照らしているランプだ。洋風の書斎を思わせる部屋。悠斗は声をかけることもなくその背中を見つめる。
ペン先が止まる。
「声くらいかけたらどうだ? そもそもノックするのが礼儀だと思うが」
振り返った姿は意外にも若い。二十代と思われる若い男がそこに座っていた。堂々とした姿はそれよりも年老いて見えるし、小馬鹿にするような笑みは幼くも見える。東洋人のような肌と黒髪。嵐を思わせる灰色の瞳。書斎の雰囲気に合わせたようなシックな服装。しかしなぜかそのイメージははっきりしない。そこにいるのにまるで水面を通して見ているかのようにあやふやな光景。
悠斗の返事も待たず、頼んでもいない挨拶を始める。
「初めまして、『ロキ』、それとも『大杉悠斗』と呼んだ方が良いかな?」
「どちらでも。好きに呼べば良い」
「では好きに呼ばせてもらう。初めまして」
結局どちらの名も呼ばず男は笑う。それはすべてを上から眺める神のようであって、ただ虫を眺める子供のようにも見えた。
男は悠斗に何も感じていない。彼がここまでやってきたことに疑問も驚きもない。ただそこにあるのだからそうなのだと、潔いまでの態度だ。それが悠斗には無性に腹の立つ態度だった。こんな目で自分たちは見下されていたのかと、こんな程度の気持ちで自分たちの運命は遊ばれたのかと。
だがそれは過去の自分たちの姿にも似ている。それがすべてのモノの上に立つ神の傲慢。
「そちらも好きに呼べば良い。もっとも名前も姿も、たいした意味を持たないが」
「お前は、何だ?」
悠斗の問いに男は嘲笑する。
「私は君達が神と呼ぶ存在かもしれない。もしくはただの通行人Aかもしれない」
「世界は主観によって構成される。君が誰かを見下ろす存在であるように、誰かが君を見下ろしている」
男の答えの続きを誰かが答える。
背後から聞こえた声の主はやはり若い少年だ。とんがり帽子を被り釣り竿を抱えた少年。まるで最初からいたかのように、彼の気配は感じられなかった。
「この場所も、ここにいる人間も、ただのイメージに過ぎないわ。彼の姿はあなたが作り出したイメージであり、大衆の総合的イメージでもある」
悠斗の横から答えを続けたのは一人の少女だった。青い薔薇で飾られたゴスロリの少女は椅子ではなく机に腰掛けている。
「俺たちは常に誰かの創作か幻想である可能性を秘めている。だが多くの人間はそれに気づかない、気づこうとしない。それはなぜか」
三人目は少女の向かいから。壁に寄りかかる白衣の男。
「無知であることは愚行であり幸福であると本能的に理解しているからだ」
知らなければ良いことはいくらでもある。知らなければ良かったと後悔することは山のように存在する。そして一度知ってしまえば、知らなかったには戻れない。
「まあ、そういうわけだ。ここで起こることは何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。もしかしたら誰かの頭の中でだけ存在する出来事なのかもしれないな。だが、」
それがどうした?
「私は確かに君が今まで探し、そして憎んだ相手だ。神とも呼ばれたし、創造主とも呼ばれた。まあ私を直接知っている彼らは『物書き』…『著者』と呼んでいるがな」
「著者…?」
「そう、著者だ。ただ原稿に字を書くのが仕事の、何処にでもいそうな誰かさ」
著者と自称する男は笑う。
「ああ、もう少し偉そうにした方がいいか? 『俺様』とか、『儂』とか? う~ん、儂は年寄り臭すぎるか」
「この場合、一人称は問題じゃないと思うけど」
釣り竿を持った少年がつまらなさそうに言う。それもそうかと、著者はあっさり考えを放棄する。
状況の把握が追いつかない悠斗を哀れむように少女が説明する。
「まあつまり、私たちはあなたと同じ。知らなくて良いことを知ってしまい、世界から逸脱してしまった存在ということ。元はあなたと同じようにこの男の書いた創作物だったわ」
少女はつまらなさそうに足をぶらつかせる。
「私たちは自分の正体に気づいてしまった。それは呪縛からの解放であったけど、自由という名の放棄でもあったわ」
「そう。呪縛は庇護でもあった。与えられた運命は時に残酷ではあったけど、未来が用意されていることでもあった。それはある意味幸福なことだ」
少年はまるで後悔するように暗い。一方、白衣の男はそれを笑って蹴飛ばす。
「解放は自ら望んだことだろ? 本来人は自身の意思で未来をつかみ取るモノだ。自由になれば何処にも居場所はないんじゃない。自分で作るだけだ。ただお前は作る勇気も、前に踏み出す気力もなかっただけじゃないか?」
幸福は自分の価値観で決められるものだ。自分が幸福か否か、それは自分にしか決められない。
「俺は後悔してないがな。親離れしたようなものだ。だから自分で勝手に生きるだけだ。臆病だから過去に戻りたがるんだよ」
「あんたは自由すぎるのよ。生きる意味を求めて何が悪いのよ。人はなくしてから自分がどれだけ恵まれた環境にいたかを理解するものよ。
でも臆病というのは同意するわ。縛られるのは嫌、でも手摺りがなければ怖くて歩けない。何を得て何を失ったかを決めるのは自分自身でしかない。もう私たちの責任を誰かに背負わせることはできないのよ」
「まあ、それくらいにしておかないか」
著者は三人の論争を止める。
「つまり、言いたいことはこれから君はどうするか、ということだ」
著者は問う。
「ここにいる私にいくら答えを求めても無駄だ。私は私であり、俺であり、自分である。私が作り出して来た登場人物達の多くは自分が作られた存在ということに気づかず、与えられた結末を迎え、ある者は忘却の彼方かゴミ箱の底に捨てられた。しかし気づいてどうなる? 知らなければないも同然のそれを、知って得することなどありはしない」
安全で責任転嫁のできる舗装された道を歩むか、危険かどうかすらわからない自己責任の獣道を歩くか。
「ここにいる私すら君が作りだしたイメージでしかない。物語を作る人間というイメージでしかない。他の者には別の姿に見えるし違う口調に聞こえるだろう。
それでも私という存在に変わりはしない。第三者が私をどう見ようとも、私が私であることに変わりはしない。たとえそれが誰かの創作物であっても変わりようのない事実だ」
我思う、故に我あり。
「君もそうだろ? 君が誰に生み出されようと、誰の腹から出てこようとも、君が君であることは生まれた時から変えようのない事実だ。生まれてしまったのだからどう生きるかは自由だ。君は今本当の意味で自由を得たわけだが、それで? 君はどうしたい?」
著者は今更手綱を戻そうとはしない。真実を知った時点で悠斗はインクの羅列から抜け出した。誰かに描かれる存在ではなくなった。彼の居場所は原稿の上でも盤上でもない。だが何も持たないまるで生まれたてのような命。だから残酷なまでに自由だ。
「俺は…」
先人達が悠斗の答えを待つ。ある者は哀れみ、ある者は軽蔑するように、ある者は楽しんで。
「俺は…真実を知った先を求めたわけじゃない」
望んだのは真実、すべてを失った先の解放に意味はない。
「ここにたどり着くまでにたくさんのものを犠牲にした。それを愚かだと批判されても仕方のないことだ。ただ俺は俺であるために真実を求めた。意味を知りたかった。その結果何も得ることはないと覚悟していた」
「得るものがないとわかっていたなら、なぜここまで来た?」
「お前の代理人に言ったはずだ、俺はただ知りたいだけだと。欲しいものがあってやってきたわけじゃないさ」
「つまらない生き方ね。過去も未来さえも捨てて何の為に生きているというの?」
少女は心底つまらなさそうにため息を吐く。髪を弄る姿は既に興味をなくしたように見える。
「生きることが目的じゃない。死ぬことでもない。目的は知ることだ」
「結果のない選択など価値はないよ。すべてを犠牲にして得るものが無価値なんて、本当に意味がないよ」
少年は理解できないと首を横に振る。
「まあいいんじゃないか? 結果がすべてではない。ただの自己満足であっても理由にはなるだろ」
白衣の男は悠斗の無意味さを馬鹿にしない。ただおもしろそうに眺めている。
「お前らはいちいち人生にご褒美が用意されないとがんばれないのか? 何もないとわかっていたら先に進まないのか? 天秤に釣り合う釣り合わないは第三者が決めるものではない。
たとえ釣り合わなくても、もう済んだことは変えられない。意味を知る、それも立派な理由だ」
俺はやらないけどな。
そう言い切る彼は一体どうしてこの領域に立つこととなったのか。何を犠牲にしてここにたどり着いたのか。その結果何を失い何を得たのだろうか。
「君はここにたどり着いた時点で目的を達成したわけだ。そしてここから先のことは何も考えていない。無計画と言えばそれまでだが、あるかもわからない先のことを論争するだけの学者よりはマシかもな」
著者は無造作に机の上に積まれた紙の束を取り出す。それは原稿の山だ。それを見た瞬間、悠斗はそれが何なのかを理解した。
それは物語だ。螺旋に続くだけの神の物語。それが上から黒いインクで書き直されている。
「お前の勝手な行動でずいぶん訂正する羽目になった。この物語はこれ以上付け足す気なんてなかったんだが」
書き直された文章はさらに上から書き足されている。訂正が追いつかないほど物語は一人歩きを始めていた。
「もうわかっていると思うが、これは君が生まれ生きてきた物語だ。私は一つの試みとして螺旋状に描かれる世界を書き上げた。始まりも終わりもない、ただ廻るだけの世界。それほど価値は感じられなかったが」
自分たちが生きた世界を著者はその程度と吐き捨てる。
「君やそこにいる彼らのように一人歩きを始め、ここまでやってくる者も確かにいる。だが私は私の思い通りにならない物語は求めていない。だから好きに生きろと放棄することにしている」
自分の世界で真実を知りながら生きるも良し。別の世界で別人として生きるも良し。
「だが結局皆原稿の上に落ち着く。真実を知ってもそれは駒が盤上から出たに過ぎない。私と同じ位置に立ったわけじゃない」
だから中途半端なのだ。まるで忘れられた神のように。
「たとえ原稿の上に戻っても、それは人が水中の魚を見ているようなものだ。一度陸に上がった者は完全に水生生物には戻れない。どんなに言葉を交わしても、どんなにふれあっても、水中の魚が君たちに影響を与えることはできない」
それが世界からはみ出したという意味。
「君は終焉を失った。君の人生を私は紡げない。しかし君に干渉できる者は存在しない。だから君は時間にも人にも殺されることはない」
どんなインクも、彼を塗りつぶすことはできない。目の前にあるのは広大な海。その先に陸地はあるのかないのか、存在するかもわからない陸地を探し泳ぐようなもの。
彼の物語を描く原稿用紙はない。しかししがみつく枝もない。どこにも属せず、何者にもなれない。未来が開けたようで、実は閉ざされている。どこにも彼の未来を書き足せる物語はないのだ。
「社会から放逐された人間の人生など創造するのは容易い。ならば世界から放逐されればどうなるのか。あるのは孤独と先への不安。しかしそれは紛れもなく自分自身で得た結果だ。誰も恨むことはできない」
先がわからぬ恐怖。何の保証もされていない人生。紙の上で生まれた存在はそれ以上にもそれ以下にもなれない。
「私は君がどこで生きるかを強制するつもりはないし、拒否することもない。実際ここにいる彼らは私が書いた原稿のどこかに生き、少し落書きをする程度だ。それくらい許容するし、何もしないのも自由だ」
悠斗は考える。これからを。
意味を知りたかった。自分たちの運命がなぜ悲劇であったのか、何の為に彼らは生き死ななければならなかったのか。意味を知れば何かが変わると思ったわけではない。何も変わらない。ただ意味を知らなければ、それは意味のないことになってしまうと思った。意味がなければなぜ我々は嘆き苦しみ傷つきながらも生きなければならなかったのか。
納得できる意味があるとは限らなかった。さらなる絶望が待っているかもしれない。
結果は見ての通りだ。神のさらなる上の存在、その気まぐれな戯れ、物語をより盛り上げるためのスパイスでしかなかった。
人は他人の不幸を喜べる生き物だ。だから彼らにとってそれは喜劇よりも悲劇である方が望ましい。
現実の人間の不幸を笑ってはいけない。だから物語にそれを描く。登場人物達の悲劇を悲しみ、幸福を喜ぶ。それを評価し金とする。彼らの人生は会ったこともない他人を喜ばせる為に存在する。
ただ他人の為にだけ存在した人生。それが見つけた真実だった。
だが、
「俺の人生は俺だけのものだ。お前が自分で言った、たとえ生まれがどうであれ俺が俺であることに変わりはしない」
我々が繰り返した時間に意味がないとは言わせない。数え切れないほど繰り返した先に生じた縺れ。縺れた糸はさらに縺れ、最後には切れた。
「壊れたレコードじゃない。俺たちの世界は必ず終わりを迎える。そこに俺がいようともいまいと。ならば俺が求める結果は一つだ」
「螺旋の世界に終わりを? 一度終わった物語に続きを書くつもりはないよ。そうなれば彼らの人生は終わったも同然じゃないか?」
「終わらない。主観によって世界が構成されると言うのなら、彼らの世界は永遠に続く。読者が彼らを覚えている限り、どんな明日すら夢見ることができる」
「確かに、結末を迎えた物語のその後をどう想像するかは読者の自由だ。未完の物語よりよっぽど幸せなことだろう。しかしそこに君はいない。それでもいいのか?」
「ああ、それでいい」
それだけでも、ここまで来た価値が生まれる。
「螺旋を失った物語はそれだけで別の物語となる。その螺旋の鍵となっていた君やもう一人は人々の記憶から失われる。もともと存在しないはずの『大杉悠斗』『大杉実』は人間達の記憶から完全に消えるだろう。世界は矛盾や間違いを歪に正して元の形を取り戻すだろう。それでも?」
「ああ、それでもだ」
もはや後悔も未練もない。
「人は神を必要としない。なら完全に関係を断った神々は消える定めだ。彼らにも本当の意味で終わりが与えられる」
「それが本来の形だ」
始まりがあれば終わりがある。そんな当たり前をこんなにも遠回しにし続けた。
「残されたあいつらだってわかってるはずだ。伝えるべきものはすべて伝えた。たとえそれを忘れてしまっても、残るものはあるはずだ」
不安はない、先にも後ろにも。それを理由に歩みを止めることはない。
「これからどうするかはこれから考える。そういう自由もありだろ?」
悠斗の晴れ晴れしい笑顔に四人はそれぞれの思いを表情に映す。
そんなことできるものかという卑屈。おもしろそうだという好奇心。何考えてるんだという疑問。そうか、とただ受け入れる許容。
こんな悠斗の笑顔はおそらく家族を失って以来、初めてだろう。常にまとわりついていた陰が一掃されたような、すっきりとした表情だった。
「君がそう言うならそうしたらいい。それさえも自由だ」
では、
「最初に言うべきだったね。
おめでとう、君の解放に祝福を。
そしてご愁傷様、ここにたどり着いてしまった君を哀れもう。
君に与えられたのは自由という名の孤独。地図なき世界への招待状。
君がこれから何を成し、何を失うか、その先の答えを楽しみにしている」
これにて『神すらも知らず』完結です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




