最終話 神すらも知らず
「もう大丈夫なの? 始さん」
「ああ、医者も退院して問題ないと言ってるし」
退院の日、始は桜に付き添われ病院を出る。世話になった医師や看護師達に礼を言い、両親が荷物を積んでいる車へ向かう。
退院したとはいえ、これからリハビリでまだまだ病院の世話になる予定だ。当分松葉杖を離すことはできない。しかしリハビリすれば完治すると言われればその幸運に喜ぶべきであろう。一度は死さえ覚悟された身だ。それが何の後遺症もなく復活するのならそれは奇跡と呼んでもいいだろう。
正直、始自身なぜ自分が助かったのかわからなかった。ただ傷は治っていくのに何かを削り落としているような気さえした。今日、この日、両親や桜が迎えに来た姿を見て感じたのは違和感。何かが足りない気がした。その何かが分からず、ただ喪失感だけが始の中に渦巻いていた。
それは桜にもあったようで、「私、何で始さんと仲良くなったんだっけ」と言い出した。歳も違う、性別も違う、同じ小学校に通ってはいたが共通点はほとんどない。二人が幼馴染みと言われるまで付き合う理由がない。いや、なくなっていた。
ただきっかけというものは忘れてしまうものだと言われても納得はできる。だが、二人の中にあった喪失感はそのまま流してしまっていいほど軽いものではなかった。
それは記憶の一部をごっそりとえぐり取ったかのように、矛盾だけを残した修正すらろくにされていない不完全な記憶。矛盾は喪失感となり、それは寂しさにもなった。だが二人ともなぜ寂しいのか、悲しいのかすらわからなかった。
始の傷はたまたま押し入った強盗と鉢合わせした際つけられたもののはずだ。頭の中ではそう納得しているはずなのに、確かにあの時の痛みを覚えているというのに、犯人の顔が思い出せない。間違いなく見たはずの顔は雪のように溶け男なのか女なのかすら思い出せない。
ただ犯人が捕まらないことになぜか納得している自分がいる。
記憶の矛盾は十数年前のものから最近のものまで。特にここ数ヶ月の間のものが多い。桜と一緒に温泉に行った。だがなぜ? 二人だけではなかったはずなのに、その同行者が誰なのか、本当にいたのかすら曖昧だ。
桜の通う高校の学祭に行った。そこで何かがあったはずなのにその何かが何なのか、本当に何かがあったのかすら思い出せない。
ファッションショーに行った。だがその招待券を誰から受け取ったのか、なぜ行ったのかがわからない。
疑問は数え切れないほど溢れ、しかしそれに答える者はいない。答えるはずがないことを頭のどこかで理解している。なぜだろう、少し前までは当たり前のように答える誰かがいた気さえする。
「始ー桜ちゃーん、早く乗りなさい」
荷物を積み終えた母が二人を呼ぶ。いつのまにか足を止めてしまっていたようだ。
「はーい、今行きまーす!」
車の後部座席に積み込まれた花束を潰さぬよう乗り込む。その中に差出人のない花束があった。
「母さん、この花束は誰から?」
「さあ? 病院の方かお見舞いの方からでしょ?」
助手席で母は後ろも振り返らずシートベルトを締める。
色鮮やかな花を包んだ花束は誰が送ったかなど関係ないかのように美しく咲き誇っている。まるで永遠に咲き続けるかのように。
去りゆく車を見守る人影があった。彼らの記憶の一部と共に消えた男。花束は最後の挨拶も兼ねたものだった。おそらく二度と会うこともないだろう、友人とすら呼べない子ども達。それでも友人である彼にとってはかけがえのない存在だった。
花を贈ったのは彼の代理だ。もうどこにいるかすらわからない、記憶にしか存在しない彼の―――。
「中途半端だよ。本当に」
もはやこの身は神というには力が足らなすぎる。戦場で散っていった妹や仲間達。彼らの死を悲しみはしても、怒りや恨みはない。ただあるべき姿に戻った気さえする。
だから彼自身もいずれ終わりを迎え地へと還ることになるだろう。残されるにはこの世界は寂しすぎる。
「構わないがね、それまで楽しめるだけ楽しむさ」
神には短すぎる時間しか残されていないかもしれない。しかし一つの命としてなら十分な時間だろう。それは今までの長すぎる時間など色あせるほどの濃厚な時間だった。
「本当に、神など必要ないみたいだね」
神などいなくとも、人は生きる。世界は廻る。
「というわけで、私はもうしばらく此処で人生を堪能させていただく。そう君の主に伝えてくれ」
すぐそばに立つ木の枝。そこに止まった鴉に告げる。鴉は心得たと言うようにうなずき、後は振り返りもせず天高く飛び立った。
鴉の残した羽根を手に、フレイは鴉の見えなくなった空を見上げる。空は遮るものなく広がる、風は流れ、人は笑う。名もない物語の終わりなど知ることなく、そんなものは関係ないと嗤うように。
「それでも、たまには感傷に浸ってもいいよね」
本来なら存在しなかったピースは失われれば忘れ去られる。「大杉悠斗」「大杉実」二つの生まれるはずではなかったピースが無理矢理埋め込まれた絵。それが取り去られれば本来の形に戻る。人々は彼らを忘れ、彼らとの繋がりから知り合った者達の存在も忘れ去られる。
かつて存在した同じ名を持つ二つのピースはもう存在しない。世界は繰り返さない。死者は埋葬され、生者は忘れる。
あの世にもこの世にも、彼らの存在はない。
「それでも覚えていられるのなら、覚えていようか」
神にだって、わからないことがあってもいいじゃないか。
湖の畔、始まりの地。やはりそこに立つのは一人の神。もはやこの地に住まう神はほとんどいない。いてもいなくても変わらない。人間の信仰を失った神に力はない。
そんな神の肩に一羽の鴉が舞い降りる。ひそひそと主の耳に何かをつぶやいたようだ。そして反対の肩に止まるもう一羽の鴉と同じように何も言わなくなる。
鴉たちの主はその手に持つ一輪の花を見下ろす。
かつて主神たる彼を崇める者は人にも神にも大勢いた。それが今はただのおとぎ話の存在だ。もはや彼の力は神と呼ぶにはおこがましいほどに失われていた。
人間の信仰を失った神は忘れ去られるのみ。残された神々もいずれ来る終わりを恐れただ自らの運命を嘆いていた。
主神と呼ばれた彼のみただ立っていた。ただそこに立つことだけが自らの存在の証明と言わんばかりに。
永遠を約束された神々。たとえ滅びてもまた復活が約束されていた。だから残りの時間が限りあるものだと知らされたとき、ただ無為に時を浪費する以外方法を知らない。嘆けば運命は変わると信じているのだろうか。今まで人生を嘆き助けを求めた人間達に、時に救いを、時に放置を傲慢に見下ろしながら行ってきた彼らが、一体誰に助けを求めるというのだろうか。
人を救うのが神だと言うのなら、神を救う者は存在しない。してはならない。それは神より上の存在。それが存在してしまったら、我らは神ではない。
人は神を必要としない。我らは忘れられた神々。過去の産物。
手に持つ花をオーディンは見下ろす。かつて彼の義兄弟は自分の為に花を手向けてくれると言った。その花だけでどうして満足できなかったのだろうか。思い出すのは過ぎ去りし過去。幸せな思い出も苦しいだけの記憶も、すべて置いて彼は行ってしまった。もう二度と会えないと覚悟しても、自身の過去を振り返ればその大半は彼との思い出だった。
いつだって互いに最初に思い出すのは同じ記憶。この湖の畔での出会い。しかし今立つのは己一人のみ。
新たな未来へ進むなど許されない。他者の未来を奪い、ただ己の意思を貫いた自分がこれ以上を求めてはならない。
唯一対等に、彼を裁くはずだった者は裁く必要すらないと放棄した。安寧を保つことが主神の役割だったのなら、とうに自分はその役目を放棄している。世界を壊す爆弾を自ら迎え入れた時から。
ならば安寧の終わりと共に消えるのが最期の役目だろう。螺旋の運命を作った何かは、このシステムを放棄するつもりらしい。
自ら運命を打破する力も意思も持てなかった己に相応しい末路だろう。だが、悲しくはない。自身を不幸だとは思わない。ただ繰り返すだけの運命の中で、確かに螺旋の向こう側を見ることができた。
花はここにある。だから、もう充分だ。
そのとき、強い風が吹き花は浚われ水面に落ちた。それを残念に思いつつも、仕方がないと諦めた。一度彼の手向ける花を手放した自分にそれすらも許されはしないという意味なのだと。
自分にあきれ水面に映る自身の顔を笑った時だった。
「 」
慌てて後ろを振り返れば、そこにはかつて自分が首を吊った大木。誰もいはしない。だがその根元には先ほどまでなかったはずの、白い花が一輪添えられていた。
ただ、涙が出た。嬉しかったのか悲しかったのか。初めて見る主の涙に両肩の鴉が心配する。
二度と交わらぬ運命を嘆いた。どんな形であっても会えたことに感謝した。誰が何と言おうとも、出会えたことを、彼の手を取ったことを後悔はしない。
始まりの時、水面に映ったのは一人と一人。
今は一人、取り残された神が映るのみ。
「これで良かったのですか?」
私情を挟まないはずの運命の女神は珍しく問う。
「この世界に居続けるも、他の世界へ行くも、貴方は自由です。あのまま登場人物達に混じって生きることもできたでしょう」
「それは都合が良すぎるだろ」
かつて大杉悠斗という人間として、ロキという神として生きた男は言う。
「俺はすべてを捨てて真実を選んだ。そのために犠牲にした者に申し訳ないだろう」
「確かに貴方は真実にたどり着きました。しかし世界を新たに創り出したり世界を改変するほどの力はありません。ただ駒ではなくなっただけです」
「そうだな。あれだけ苦労して得たものがこの程度とはな。だが最初から何かを欲してやっていたわけじゃないさ」
得たのは自由という名の解放。失ったのは呪縛という名の庇護。原稿の上から飛び出しても、新たなインクを綴るほどの力はない。それは他人の書いた物語なのだから。
「どうするかはこれから考えるさ。幸い時間は有り余ってる」
有限の時間から解き放たれた彼には無限の時間が存在している。
「俺はやはり有限であることは価値があることだと思っている。使い古された言葉だが、限りがあるから大切なんだ」
永遠に咲く花を誰も愛ではしない。永遠はいずれ退屈する。
「可能性を追うか、過去にしがみつくか、それはこれから決まることだろ。ならば結論を焦る必要はない。誰も俺の選択を邪魔できないのだから」
庇護を失ったことを後悔するか、手探りの未来を楽しむか、それはすべて彼が自分で背負う責任だ。
「この物語は結末を迎えました。神に支配された世界は神を失うという終わりを得ました。しかしそれは今の貴方と同じです。神という庇護を失った世界は不安定で未熟です。たとえ続きが書かれなくても、人の目に触れた物語は読者の脳内に記憶される。時に妄想という続きを得るでしょう。それは幸せなこととは限りませんよ?」
「それでいいんじゃないか? それなら幸せかもしれないという可能性があるだろ?」
螺旋のように繰り返される運命には幸福も不幸も存在した。だが螺旋はひもとかれ、物語は終焉を迎える。
「それが幸福かどうかを決めるのは俺たちじゃない」
「それでいいのですか?」
「これでいいんだ」
迷いなく答えを出す。ウルドもそれ以上追求はしなかった。
「ではこれで終わりですね。あなたは終焉を迎えることができませんが」
「それが真実を知った代償なら受け入れるべきものだ」
「では、これでお別れです」
「ああ、お別れだ」
二人の別れに感傷はない。
「それでは、さよなら」
返事も待たず女神は姿を消した。最期まで可愛げがないとため息を吐く。
眼下には自宅に帰ってきた始達の姿があった。彼らの喪失感はいずれ消えるモノかもしれないし、消えないかもしれない。彼らのこれからが幸福か否か、そこまで見届けるつもりはない。物語は終わったのだ。だからこれ以上を語るべきではない。
「元気でな」
「?」
始は誰かに声をかけられた気がして後ろを振り返った。しかしそこには誰もいない。
「始さん、どうしたの?」
「いや、何でもない」
数ヶ月ぶりの我が家を前に緊張しているのだろうか。長い夢を見ていた気さえする。ただその夢が悪い夢ではないと確信できる。
「始さん、何で泣いてるの?」
「桜こそ泣いてるぞ」
二人は互いの涙を指摘する。
なぜ涙が流れたのかわからない。悲しいのか、嬉しいのか、答えさえ出せないまま、いつか夢を見たことさえ忘れるのだろうか。
夢は終わり物語も終わる。定められた運命は終わり、不確定な未来がやってくる。しかし彼らはそれにすら気づかない。
「ただ、夢が懐かしいんだ」
世界よ終焉を祝え。さらば懐かしき思い出達、夢の残影。
誰も気づかないまま物語は終わる。しかしそのエンドロールに彼の姿はない。
その行方は神すらも知らず。
最終章 物語の最後のページ、そこに彼の姿はなく
終了です。
まだもう少しありますので最期までおつきあい願います。




