第36話 舞台裏のフール
「何してるの?」
突然、後ろから座っている彼を見下ろすように声をかける者がいた。
「何でもない」
彼は後ろに立っている同年代の少年にそう言った。彼は立ち上がると、尻に付いた草を払い落とした。
「授業は終わったのか?」
「うん、どうしたの? こんなところで」
「買い物を頼まれたから付き合ってくれないか」
「いいよ、でもまだ慣れないの? もう二年になるのに」
「商品名がよくわからない。どれがどれだかさっぱりだ」
それを聞いて弟の方はクスリと笑った。それを聞いた方は眉間にしわを寄せた。
「さっさと行くぞ」
そう言って兄の方は歩き出した。弟の方はそれに黙ってついて行った。
ほんの数ヶ月前の、まだ彼らが人と呼ばれていた頃。それを懐かしむ日が来るなど、誰も考えはしなかっただろう。
あの日まったく似ていない双子だと指摘された二人。なのに今目の前にいるのは姿こそあの日と変わらない鏡。
一人が歩き出せばもう一人も歩き出すと、当たり前のように信じていたあの頃。もう、あの日は二度と戻らない。
多くの骸が転がる処刑場。二人の再会に相応しいようで相応しくない。
弟であったその男は、まだ人と名乗っていた頃の姿のままでいた。それが悠斗には少し意外であった。
「まだ、その姿でいたんだな」
もうとっくの昔に元の姿を取り戻していると思っていたのに。
こうして向かい合う二人はあの頃と何も変わっていない。その姿も声も、ただ心がむき出しとなっただけで。
悠斗に言われると大杉実であった彼は自嘲気味に笑う。
「戻りたくとも戻れないのですよ。今の私は不完全であるから。一度肉体を失いさらにあなたを失ったことで完全な復活はできなかった。だからまだこの人間の肉体を捨てられない」
二人のロキと呼ばれた神と巨人族はコインの表と裏。お互いそろわなければ役目を果たすことができない駒。ロキという半身を失った彼は表にも裏にもなれなかった。彼が表となれば裏は空席となり、彼が裏となれば表は空席となる。それでは駄目なのだ。
たった一つの駒が失われたことでバランスを崩した世界。たったそれだけのことで、と笑いたくなるが、おそらく最初からそのような可能性は考えられていなかったのだろう。狂ったように回り続けるレコードが突然別の歌を奏でるはずがないように、この世界を作った何かは最初からそのようなこと可能性にすら入れていなかったのだろう。
さしずめ悠斗の存在はバグのようなものだ。規則正しく刻むはずだった歯車を狂わずバグ。それを排除しようとするのは自然なことだ。トール達の憎しみに駆られた行動は単純に感情によるものだけではなく、彼らに植え込まれた自己防衛プログラムだったのかもしれない。自分たちの世界を破壊する者を殺せと、彼らはその使命に従っただけなのか。
どちらにせよ、結果は変わらない。それに同情して手加減するほど悠斗は優しくないし、憎む理由が互いにあったことは事実だ。
彼らが憎しみや使命感に動かされた中、オーディンやフレイのように動かなかった者も存在した。それは彼らの性格的なものもあるが、もしかしたら悠斗から始まったバグは他の者にも感染したのかもしれない。
自立した駒の行方はどうなるのか。今のところ何も起こっていない。そう、まだ何も起こってすらいないのだ。悠斗にすら、何も起こってはいない。
今までの、そして今ある状況は最初から仕組まれたプログラムの延長に過ぎない。失われた半身を求めた結果の暴走と言うべきか。少なくとも彼の行いは彼に与えられた使命感を元にする感情から発生した愚行に過ぎない。
それは哀れにすら思えた。自身に与えられた使命に従うことが自分の本当の感情であると信じているようで。
もしかしたらそうなのかもしれない。だがもはやそれが使命なのか、それとも彼自身に発生した個人の感情なのか、それを決める証拠はない。
知らずにいられたなら、それは彼一人の感情でいられたのだ。だが、ここにいるのは大杉実の器を持った、哀れな駒の残骸に過ぎない。
悠斗はここに終わりをもたらすためにきた。それは彼の感情ではなく義務感に近い。自身がかつて捨て忘れ去った半身に決着を着けることは、おそらく彼がロキとして、最後にしなければならないことだ。
最初から同じ者を二つに分けなければ良かったのに。
「実、お前の望みは何だ?」
もはや訊かなければ彼の望みも分からないのか。いや、最初から彼らの心は同じで合ったことはない。半身でありながら彼らは違いすぎる。まるでまったく似ていない双生児の様に。
人であった頃のまま呼ばれることに彼は少し不満だったようだ。顔が一瞬引きつったがそれを言葉にすることはなかった。何事も無かったかのように彼は答える。
「私の望みは、既にあなたに伝えているはずですが」
共に在ること。かつて悠斗やその家族が願ったのと同じで在るはずなのに、それはどこか歪んでいる。自身が願うことすら罪ではないかと感じた純粋な娘がいた。なのに彼はその願いの犠牲すら笑って見過ごすのだろう。いや、元々彼の中にあるのは自身ともう一人しかいない。その時点で他人に価値などない。
「ヘルが言っていたな。神など忘れて人間界で平穏に過ごしたいと。それができたらどんなに良かったのか。まだあの頃の俺はそのありがたみを本当の意味で分かっていなかったのかもしれないな」
平穏よりも真実を求めた。その代償は彼が考えるよりも大きく、払ってしまった代償は戻らない。ならば進むしかない。
「お前はどうなんだ? 大杉実としての人生に不満があったのか? その平穏を崩してまで得たい願いだったのか」
共に在る、という願いなら叶っていたはずだ。互いの意味に気付かなくても、ただ家族として側にいるという願いは叶っていたはずだ。
しかし目の前の弟は首を横に振る。
「あんな偽りの安息に幸せはありません」
「あの世界を偽りと呼ぶのか? 人間達にとってあそこは間違いなく本物であるというのに」
始や桜、大杉家の両親、彼らの存在は、その愛情はそんな簡単に切り捨てられるほど軽いものだったのか。
「そうですね、大杉実として生きた時間に幸福がなかったとは思わない。何よりあなたと共に生きられたのだから。彼らには感謝するべきでしょう。だが、それだけです。私の望みに比べればちっぽけなものです」
始や桜が聞けばどう思うだろうか。人だろうと神だろうと関係ないと言ってくれた彼らが聞けば、彼らなら何と言うだろうか。
「しばらく人間界で過ごしたとはいえ、そこまであの人間達を心配するなど、あなたらしくない」
「以前の俺ならな。だが、理解してしまえば守る理由など他にない。俺は自分の感情に言い訳などしない。俺は自分を否定しない。お前が嫌うそういった部分も含めて俺自身だ。俺にはお前以外に大事なものがあった、それだけだ」
彼の表情が悔しげに見えたのはおそらく見間違いではないだろう。だがあの頃から、既にロキの大事なものは一つではなかった。愛すべき子ども達、最愛の女性、そして繋がっているのかいないのかすらわからない義兄弟。切って捨てられないものがあの頃には既に在った。しかしもう一人の彼にはそれがなかったのだろう。半身以外に大事なものはなかった。だからここまで突き進んでこられた。
「お前は俺の半身で、お前にそこまでさせたのは俺の罪だろう。だが俺はお前を許せない」「では、どうするので?」
「終焉を、お前に」
繰り返す螺旋の世界、その象徴たる二人のロキ。それが離れていったことにきっかけがあったのだろうか。いや、それは時間を掛けてゆっくりと、歯車は少しずつずれていった。数え切れない輪廻の中で、使い古された駒はやがて最初と別物になっていた。ただそれだけの話。
終焉がどのような形か分かっているのか分かっていないのか、実であった彼の表情は穏やかだ。まるでそれを待っていたかのように。
悠斗は一振りの剣を呼び出す。それは姿形こそ違えど、見覚えのある物だった。それは剣であるはずなのに木の香りがする。
「それは…あの時のヤドリギか?」
「ああ、気がついたら俺の手元にあった」
ロキが捕縛される事となった最大の罪、希望の神バルドルを殺めたヤドリギの木。バルドルを貫いた木の枝の行方など誰も気にはしていなかったが―――。
「人間達にはレーヴァテインと呼ばれたりもするそうだ。剣の形なのは、他の魔剣と混同した結果かもしれないが。結局神話を決めるのも人なのかもしれないな」
悠斗は剣を片手で持ち上げる。その切っ先は半身の首に向けられる。
「もう一度お前に訊いておきたい。人として生きたあの時間に何の価値も無いと、今でも言えるのか」
「言えますよ。あんなのただの戯れに過ぎない。人間ごっこもそれなりに楽しかったですよ」
それはかつて、あの兄弟と別れる時に言い残した言葉。自身も吐いたその言葉が、今は反吐が出そうな程吐き気がする。
「そうか……なら、他に訊くことはない」
悠斗は剣を握る手に力を込める。
「さよならだ、我が半身」
剣は横一文字になぎ払われ、首は何の抵抗もなく宙へ舞う。その首がかすかに微笑んでいた事を、悠斗は見ないふりをする。
血の雨が降る。頭部を失った肉体は噴水のように血を噴き出しやがてゆっくりと地へ横たわる。
血が己の顔を汚す事は気にならなかった。ただ、また自身に埋めようがない空白が出来たことを感じていた。
宙へと飛んだ首が落ちてくる。その視線が交わる。
どうしたら良かったと言うのですか?
私とあなたは同じものでありながらその価値観も心も違う。同じであったはずの二つはいつしか違う二つのものとなっていくのを私は悲しんでいたというのに、あなたは何も感じなかった。
私もかつて邪神のロキとして生きた。ロキとして彼と義兄弟となり、彼女を愛し子供を慈しみ、そして終焉を迎えた。
その運命を悲嘆したことはない。いつもあなたと共に迎える運命だったのだから、寂しくはない悲しくもない。何度も繰り返された出会いと別れに何も感じなくなったのはいつからだろうか。
「なんだかんだ言って俺はあいつを捨てられないのかもしれないな」
楽しげにそう言うあなたに不安があった。どうしてあの時、無理にでも引き留めなかったのだろう。そうすれば運命の筋書きとは違ってもあなたと共にいられた筈なのに。
すべて捨ててきた。あなた以外のすべてを。最初から何も感じなければ苦しむことはないと、心の摩擦に言い訳をして。
どうしたら良かったのですか? 私は、私たちはどこで間違えたのでしょうか。考えることすら辛くなった。
人間界へと逃げ延びたあなたを追った。切れかけた糸をたぐり寄せ、わずかな痕跡を探し、あなたを探し当てた。
あなた以外に必要なものなど何もない。あのまま人としての人生を享受すれば良かったのでしょうか。そんなことをすれば、私のしてきた事はすべて無駄となる。使命の為と大義名分の元切り捨ててきた絆、記憶、愛情、それをすべて無駄にしてまで得る幸福などあってはならない。私達の結末は私達だけの手で得る物でなければならない。
そう考えなければ、何もやってはいけないでしょう?
そうしなければ私は、僕は生きていけない。君の側に居られない。すべてを犠牲にしてでも得た結果を捨ててまで得る未来などない。
始兄さんが病院に運び込まれた時、確かに心の底から叫んだ。悲しみと安堵。家族が傷ついた事への悲しみと怒り、そして彼が死ななかった事への安堵。彼が死ぬよう仕組んだのは自分だというのに、死ななかった事を心の底から喜んだ。
あの時、もう切り捨てるつもりでいた。大杉実としての人生、縁、そのすべてを。なのに矛盾だらけの自分の心。もう言い訳も追いつかない。これは私としての使命? それとも僕としての感情? 分からない、分からないんだよ、悠斗。
僕はどうすれば良かったの?
地へと転がる首を血で汚れるのも気にせず持ち上げた。その薄く開いた瞼をそっと閉じてやる。どこか満足げなその顔を。
「馬鹿だな、お前は」
ただ一度、死に際の視線が伝えた彼のむき出しの心。どうしてもっと早く、素直に言えなかっただろうか。やはり我々は同じ生き物だったのだと、その不器用さを笑った。
「お前も捨ててきたんだな、大事なものを。お前は俺よりもっと昔から覚悟していたんだな」
本当に望むものを得たいのなら他を切り捨てるしかない。最期に得られるものは一つしかないのだから。
「使命なんか頼りにしなくても俺はお前の側にいた。お前も俺の側にいた。それがどれだけ当たり前なようで、ありがたいことだったのか、俺もお前も気付くのが遅すぎたな」
望みを叶える為には使命を果たさなければならない。そんな脅迫めいた使命感が彼を蝕んでいたのだろう。切り捨てる必要のないものまで切り捨て、最期には何も残らない。
あの日々が幸福であると感じていたのは自分だけでは無かったはずだ。それを捨てたのはお互い様なのに、やり方が違っただけでこんなにも変わってしまった。
「心配しなくてもお前の最後の望みは叶えられる。だから何も心配するな、後は俺に任せて眠れ、実」
そして二つに分かたれていたものは、一つに戻る。
もう動かぬ筈の彼の顔が、わずかに微笑んだように見えた。




