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第35話  伽藍洞のサルコファガス



 思い出すのは、雨。我が子をこの手で殺めた日に降った、涙にも似た雨。

 思い出すのは白。彼らに別れを告げた、終わりの地。我が子の一部と化していた包帯の色。

 またいつの日か、この瞬間の事を思い出すときが来るのだろうか。もしまだ自分に時間が残されているのなら、きっと忘れることはないだろう。

 繰り返される別れを。それをもたらしたのが己であることを。

 それでもお前達は、俺を許すのだろう。俺がお前達を許すように。




 その眼に映る光景を、悠斗が疑うことはなかった。これは予想の範疇だ。そして己が導いた結果の一つでもある。

 帰ってきた悠斗を待っていたのはゴルゴダの丘そのものだった。ただそこに並ぶ骸の数はゴルゴダとは比較にならない。骸が丘を成していると言ってもいい。

 見知った顔も見えた。だがそこに何の感情も抱くことはなかった。敵となったそのときから、彼らの生にも死にも興味がなくなっていたからだ。

 かつて顔を合わせる度に言い争っていた神も、その単純な脳みそを何度もからかった戦神も、その美貌以外に取り柄もない女神も、すべてが平等に折り重なるように地に這い蹲っている姿に、死とは唯一平等であることを実感させられる。

 そう、主観を持たなければ死は平等だ。誰かが知らずに踏んで死んでしまった蟻も、つい先ほどまで隣にいた恋人でも、死ねばただの骸、多くの人間にとって肉の器に過ぎない。だから、今悠斗が感じる不平等さはただの主観でしかない。主観で何かを悲しみ、何かを恨む。世界の流れからすれば取るに足らないもの、だが、主観がなければ生きている意味などないことを悠斗は知っている。

 この虚しさも、悲しみも、孤独も、すべて悠斗が己を持つ個であるからこその感情だ。そこに意味がないなどとは誰にも言わせない。主観があるからこそ、生きていると言えるのだ。己を持たない者を生きているなどとは呼べない。

 だから、この感情は受け入れるべきだ。流す涙は既にない、流す資格すらない。これは彼自身が招いた現実だから。

 赤く染まった大地を、折り重なる骸を踏みしめ悠斗は歩く。この骸の山にかつて妻と呼んだ女やその子がいたかもしれない。だが仮にそれを見つけたとしても、悠斗の足を止めることはできなかっただろう。彼は最初から一つしか見ていない。

 骸でできた丘の上、頂上に彼が目指すものはいた。丘の上に巨体を横たわらせるその姿はまるで巨大なオブジェのようだった。つい先ほど一緒にいたときは父よりも遙かに小さかった彼の体、今は父を見下ろしても余る巨体。似ていない親子と何度も言われるが、それでも彼らには共通の血が流れている。

 悠斗はその巨体に触れる。火も矢も通さぬはずの固い鱗は傷だらけ、漆黒の鱗は血で赤黒く固まっていた。鱗もろとも皮膚を貫く剣、剥がれ割れた鱗、折れた牙、瞳は薄く開いているが、そこに光はない。

 悠斗は優しく固い肌を撫でてやる。すると光を失っていた瞳に、わずかに光が灯る。だが言葉は出ない。もはや彼の命が灯火であることは明白だ。

 悠斗の表情に悲しみはない。それを表に出すことはない。せめて送るのなら我が子が望む姿でいようと思ったからだ。

 触れた肌は冷たかった。休息に冷え行く体、固まりきった血、どんよりと暗い瞳、すべてが迫り来る終わりを表していた。

 受け入れるべき結果ではある。恨むべきは彼の愚行ではなく自分自身だ。だが、やはり彼を裁く者はいない。つい先ほど義兄弟に同じことを言っていたなと、悠斗は自嘲する。

 彼の瞳に恨みや怒りはない。ただ最期を最も愛する者に見送られることの喜びと、彼を残していくことへの不安が言葉にせずとも伝わってきた。

 彼が幼い頃からしてやったように、優しく撫でてやる。

「心配しなくて良い」

 何を、とは言わない。

「お前達の優しさが時に苦しかったのも事実だ。だがそれ以上にお前達には感謝している。こんな駄目な父親を慕って、こんな俺の元に生まれてきてくれたことすべてに」

 彼らの父親が彼でなくてはならなかったように、彼の子も彼らでしかなくてはならなかった。他に血を分けた子ならいる。だが、彼らとは結局家族になることはできなかった。この子達しか自分の子にはなれないと、悠斗は確信している。

「少しでもお前達に返せていたらと思う。足りないとは思う。だが、この先どんな時間があっても、俺はきっとこれ以上何もできないだろう」

 だから、

「ありがとう、生まれてきてくれて」

 その言葉が、子としてどれだけうれしいものだったことか。親に愛されることが当たり前ではないこの世界で、その言葉一つにどれだけの価値があることか。

 だから、感謝するのならこちらの方だ。

「     」

 言葉にはならなかった。だが、伝わった。親子だから、愛し合っていたから伝わった。 悠斗はそれ以後、何も言わず子の頭を撫で続けた。決して触り心地のいいものではない硬い鱗を、赤黒く染まった体を、その体から体温も何もなくなっても、悠斗はなで続けた。

 まるで撫でていれば彼が眠ることはないかと信じるかのように、その体温を取り戻せるかのように。

 それでも彼の瞳に光が戻ることは二度となかった。それは当たり前であり、何よりの理不尽である。

 永遠などあるはずがないのだと、誰かが笑った気がした。





 思い出すのはいつか、と呼ばれるあの日。

 何をきっかけにしたのかは忘れてしまったが、子供らに死について話をしたことがあった。

「死ねばその魂は冥界へ、肉体は大地の一部として眠る。それはほとんどの生き物に共通のことだ」

 一度生まれてきたものはその死を避けることはできない。だから死はすべてに於いて平等だ。

「たとえ肉体が喰われ誰かの一部となろうとも、それは自然の成り行きだ。肉体が残るか残らないかはそれほど大きな違いはないと、俺は思うがな」

「でも、何も残らなかったらお墓も作れないよ」

 ウトガルドの奥深く、巨人族が住む国でただ一人やってくる神であったロキ。まだ彼が家族と幸せを築いていた頃の記憶だ。

 月が見守る森の中で、木の隙間から月を眺めながらの話だったと思う。

 草の上に座る自分、その膝に乗りかかり甘える次男、隣で話を聞く娘、正面で真剣な眼をする長男、そして木の根元に腰掛けてそれを見守る彼女の姿。

 肉体が残らないことが悲しいと言ったのは次男だった。それを笑ったのは長男だ。

「ではあなたは肉を食べないのですか? 魚を骨もろとも飲み込むあなたが? それはとてもご立派な志ですね」

 笑うというよりは意地悪に見えたが。

「墓を作るというのは人間の習慣だな。そもそも神や巨人族、妖精や小人達も墓など作らないぞ」

「どうして?」

「俺たちにとって死後重要視されるのは魂だけだからだ。肉体は魂が抜けた時点で物質にすぎない。そもそもこの世界は始まりの巨人の死体からできた世界だしな」

 しかし肉体は有効活用もできるかもしれないが、魂はどうなのだろう。冥界に行った時点で戻ってくる可能性はほとんどない。その意味では肉体の方が生者にとって価値があるものなのかもしれない。

「でも、死体を口にしているのなら、私たち自身がお墓みたいね」

 娘の発言になるほど、と思わず納得してしまった。

「なるほど、確かにそうかもな」

 死者を喰らい、その血肉を糧にして生きる生者。死体を納めるという意味なら、確かに我らは墓だ。

「大地に帰ってその一部となり消えるのも、誰かに喰われその肉体の糧として消えるのも、あまり違いはない。埋葬されるかそうでないかの違いはあるかもしれないが」

 一部の地域では鳥などの野生の生き物に死体を喰わせるという変わった葬送があるらしい。ならばこれも立派な葬送と言えるのではないだろうか。たぶんモラルなどを別にすれば。

「では、私が死んだ時は父上が食べてくれますか?」

 とんでもないことを素で言えるのは長男だった。

「そういう愛情表現があるのは知っているが、あいにく俺はカニパリズムではないんだ」

「父上の一部になれるのなら私はうれしいのですが」

「親に向かって先に死ぬようなこと言うな、親不幸者」

「私も食べて欲しいなあ」

 もう一人、親不幸者が言い出す。

「ヘル、お前までか」

「でも私死んじゃったら何も残らないかもしれない」

 少し心配そうに言うその言葉を否定することはできなかった。ただでさえ体の弱いこの娘は、死後何かを残せるのだろうか。後にその予想は結局間違ってはいなかったことが証明されてしまったが。

 結局安心させるために頭を撫でてやることしかできないが。

「お前達、今から死後のことなど考えるな。そんなもの俺が死んでからにしろ」

「神も死ぬのですか?」

「死ぬさ、神も生者に変わりない」

 だからその終わりもたいして変わらない。

「とにかく、俺はお前達を喰う気はないからな。そんなことで一緒になれるなど思ってない」

 ロキにとってやはり死後大事なのは魂だ。だから一度滅んだ肉体は取り戻せないものだし、肉体が一つになって救われるとは思わない。死は絶対だ。だから死は永遠の別離であり、そうあるべきなのだ。

「俺が死んだ時は俺を喰うなど考えるなよ、腹壊すぞ。第一俺自身、肉体を残すかはわからないんだからな」

 その言葉に子供達は少し驚いたようだ。

「そうなのですか? 神は肉体を残すのではなかったのですか?」

「さあな、死んだ事例が少ないしな。首だけで生きてるやつもいることだし残すのかもしれないが。巨人族は残すな。ただ、俺の場合はどうだろうな」

 元々ロキの存在は中途半端で異端なのだ。巨人族として生まれ、後に神となった彼の死後はどちらに属するのか。

「俺は残さない気がするな。これはただの予感でしかないから証拠はないんだが」

「どうしてそうお思いになるのですか?」

「さあな、どうしてかな」

 ただそうあって欲しかったのかもしれない。残すのは想いと記憶だけで十分だと、形に残るものなど残されていく者の負担にしかならないと思ったのかもしれない。

 そのらしくない心中を読み取ったかのように彼女が笑った。

「死後のことを考えるなんて、あなたらしくもないわね」

 まったくだ。

「そういうお前は俺より後に死ぬんだろうな」

「さあ? どうかしら」

 未来を預言する彼女なら自分の死もわかっていたかもしれない。だが彼女は何も言わなかった。言う必要がなかったのかもしれない。

「でも、あなたを入れる棺桶は必要ないでしょうね」

 だってあなたは誰の墓にもなる気はないのでしょうから。




 空っぽの棺桶は誰も内に入れぬまま悲しみと孤独だけを抱える。墓が死者の寝床なら、ここには墓など存在しない。骸の散らばった戦場に必要な棺桶は足りない。死者を弔う者もいない。

 どれだけその場に立ち続けていただろうか。時間など感じなくなっていた。感じることを忘れた。もうどれだけの時間も意味をなさない。

 時が与える恵みも苦痛も、時が解決する問題も、もう何も残ってはいないのだから。

 屍と棺桶しか残らないその場に、もう一人の棺桶が現れたのはどれだけの時間が経った頃だったろうか。

 悠斗は伽藍洞の心に残った最後の目的をまだ見失ってはいなかった。振り返ったその先にいるのが誰かはわかっている。だが振り向くことでそれを確定すれば、二度とは戻れない。だが、今更何に怯える必要があるというのだろうか。

(とっくの昔に手遅れだ)

 だから振り返ることを躊躇しない。

 そこにいたのは鏡だ。鏡の姿をした棺桶だ。悠斗と同じく、誰も眠らない伽藍洞の棺桶だ。彼らが内に入れることで救われる死者はいない。だから、彼らの中身は永遠に伽藍洞なのだ。

「おかえりなさい」

「ああ」

 それは鏡、それは弟、それは、罪深き己自身。

「会いたかったよ、実」

 人であった頃の名前を、ただ懐かしむように呼ぶ。ただの人間であれば良かったと、まだただの大杉悠斗であった頃のように。





サルコファガス=棺桶

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